第1話 亡霊貴族(上)
もはや、その心臓も路傍の石と変わりがない──────
帝国と共和国の対立は、より大規模な戦乱へと発展。
5年の歳月を経ても尚、その戦火は拡大の一途を辿っていた。
終わりの見えない殺し合いは、人の尊厳を無意味にしてしまう。
──────そこには、ただ血と腐臭の景色が続いていく。
*
その日は雨が降っていた。
女将軍は拳銃を抜き、躊躇なく二人の子供を射殺した。
その場には、他に数名の子供たちがいた。
突然のことに皆声を失う。恐怖で泣き叫ぶこともできない。
跪かされ、両腕を拘束された男は、あらん限りに狼狽える。
そして大きな声で、のたうつように泣き叫んだ。
「なんてことを! 相手は子供だぞ! 貴様には血も涙も……っ!」
女将軍はその言葉を最後まで聞かなかった。
同じように、男の頭をただ撃ち抜いてしまったのだ。
そして、兵士たちに命令する。
「……殺せ。残りの子らも全部だ」
*
7年が経った。
長く続いた戦争も、3年前に帝国が勝利し終結した。
共和国は事実上解体され、全ては帝国の属国となり下がる。
そんな世で、とある青年が生き残っていた。
本当の名は疾うに忘れ、彼を示すものは偽名のみ。
出自を示すものもなく、安らぎを感じることもない。
ただ首に下げた質素な首飾りを見ると、不思議な気分になった。
それは、彼が物心の付いた時には持っていたものだ。
しかし、それは他では見たことのない印が刻まれているだけ。
何の手がかりにもならなかった。
今、彼はとある目的のため森に潜伏していた。
影のように身を潜ませていると、すぐ近くから激しい音が聞こえてくる。
それは剣と剣が交差する音。そして、騎士の叫び声。
「姫様、早くこちらへ! オマエ、早く姫様をお連れするのだ!」
侍女が息を切らしながら、姫の手を引いて走る。
「早く早く! 姫様! 捕まれば、何をされるか!」
懸命に逃げる3人。
だが、明らかに『姫』と呼ばれた人物が足を引っ張っている。
彼女は走ることが得意ではなかった。
その上、幾分かは動きやすそうな服装であっても、豪奢な貴族の装いだ。
目立つことこの上ない。
青年は木の上から、その様子を見て機会を窺っていた。
(予想通り、この路を選んだな。だが、随分追手の数が多い。誰の手引きだ? まったく、いちいち手間のかかる)
そうしている間も3人は追い詰められ、囲まれてしまった。
追手は10人程度だが、姫の護衛は騎士が一人と、侍女が一人。
それも姫を庇いながらでは、まともに戦えないだろう。
結果は見るまでもなかった。
「き、貴様らぁ! この方をどなたと心得るか! こんな狼藉、許されると思っておるのか! 恥を知れぇ、下郎め!」
「どなたも何も、秘匿姫の『ミレナ様』だろ? 女将軍様の娘よ。ずっと籠の鳥で秘密にされてた箱入りのお姫様だ。俺ぁ姫様なんて、抱いたことないからなぁ。さて、どんな味がするやら。楽しみ過ぎてよぉ」
舌なめずりをする男。そして、下卑た笑いをこぼす手下ども。
騎士のような格好はしているものの、その仕草は野盗と変わらない。
護衛の騎士は、ギリギリと怒りを噛み締めた。
なぜなら、目の前の男に見覚えがあったからだ。
「たしか貴様は、金で爵位を買ったのだったな。だが、品性までは買えなかったようだ。皇女に対するこのような狼藉、許されると思うなよ!」
「はて、おかしなことを。オマエはここで死ぬのに、誰がその狼藉を伝えるのか。それとも姫様が言うのか? その口で? 自分が何をされたのかを公言するのか? 俺たちに、どんな風に可愛がって貰ったかを⁉︎ そりゃ傑作だ!」
「この……、畜生どもが!」
下卑た笑いを浮かべる男の一人が、ポカーンとした表情をしている。
「ん? 皇女? 皇女ってのは皇帝の娘じゃないのか?」
「オメェ、何にも知らないのか。女将軍様ってのが、皇帝の娘なんさ。妾腹で、継承権なんざ無いがな。つまりあの姫様は皇帝の孫ってわけよ。要はその気高い御血筋に、俺らの汚ねぇ血を混ぜ混ぜしようってことさ。恐れ多くて身震いしちまうだろぅ? まぁ俺ら全員相手にして、それでも生きていたらの話だがな」
「こ、このぉ! そのようなことを、この姫の守護騎士であるヴェルフェス・サジェスがさせると思うか! 貴様ら全員、私が成敗してくれるわ!」
護衛の騎士ヴェルフェスは、自身を鼓舞するかのように叫ぶ。
だが、結局は多勢に無勢。
この戦力差では、到底敵うはずもないことは彼自身も分かっていた。
しかし、それでもその剣を下げるわけにはいかない。
その時、追手らに動揺が走る。
「な、なんだオマ……」
何かを言いかけ、事切れる追手。
すでに数人の追手らが絶命し倒れていた。
そこには青年が立っていたのだ。
……偽物の名を持つ彼が。
「な、なんだ貴様!」
「だ、誰だ? 狩人か……?」
騎士ヴェルフェスの目には、10代後半の若者にしか見えなかった。
暗い色の革鎧と短めの剣、その冷たい目からは何の思惑も感じられない。
だが、その若者は次々と素早い動きで追手を殺す。
そして、あっさりと全員を始末してしまった。
「貴殿は敵か……?」
ヴェルフェスは剣を構えるが、息も絶え絶えだ。
青年の動きを見るに、今のヴェルフェスでは太刀打ちできないだろう。
しかし、それでも構える他なかった。
だが、青年は少し前に進み出た後、剣を置いて跪く。
「姫様、お迎えが遅くなり大変申し訳ございません。将軍様のおられる場所まで、貴女を護衛するように仰せつかりました。ゾーア・レイデルガローと申します。以後、お見知り置きを」
*
なんとか追手から逃れた一行は、4人で先を急ぐ。
足取りは軽くはない。
だが、姫は緊張から解放され、少しだけ明るい表情を見せた。
「本当に助かりました。なんとお礼を申し上げて良いやら……」
「ひ、姫様。あまりこの男に近付いては……。この男は、あのレイデルガロー卿の……」
騎士は訝しげな表情で、青年を睨みつける。
青年は『レイデルガロー』と名乗った。
それは、帝国貴族の名だ。
子供の多い貴族ではあるが、実子はいない。
そこへは選ばれた孤児が送られ、思想や戦闘の英才教育が施されるのだ。
そうして卿は、帝国随一の暗殺集団を作り上げた。
ヴェルフェスはごくりと喉を鳴らす。
「亡霊貴族レイデルガロー。その子供たちは恐ろしき暗殺者で、姿は死霊のように掻き消えるとか。はたまたその姿を見たものは、悉く非業の死を遂げる、とも。それにレイデルガローと言えば……」
そういったキナ臭さも問題だが、実はもう一つ問題がある。
今、姫は皇女でありながら追われている。
それは、クーデターがあったからだ。
中央軍が皇弟を擁立し、王都を乗っ取ったのだ。
今は皇帝派が敗走し、散り散りになってしまった。
そして、レイデルガロー卿は皇弟派側という噂だった。
皇帝の娘であった女将軍は皇帝派であり、今や皇弟派に追われる身だ。
つまり、将軍の娘からすれば、彼は紛れもなく敵なのだ。
それがなぜ姫を助けたのか。
騎士にも侍女にもまったく理解ができないのだ。
「ですが、彼は助けてくれました。私は信用に足る人物だと考えます。ゾーア様、お許し下さい。ヴェルフェスはどうも心配性で……」
「いいえ。お気遣い有難う御座います。確かに私はレイデルガローの者ではありますが、元は下賤の生まれ。ヴェルフェス様がお疑いになるのは当然かと」
「そんなことは……。それで任務ということでしたが、レイデルガロー卿はなんと……?」
「姫を護れと。そして、将軍の元へお連れしろとだけ。将軍様と当主の間で、どういった密約があったかは知りません。ただ現在は皇弟派が優勢ではありますが、その蛮行は目に余るということかもしれません。実際、王都は凄惨を極めた状況となっており……」
「そうでしたか。レイデルガロー卿は思慮深く、崇高な方なのかもしれませんね。一度お会いして、お礼を言いたいのですが……。それも厳しいでしょうか。くれぐれもよろしくお伝え下さい」
箱入り娘の姫は、優しく気高い。
だが、側にいた騎士ヴェルフェスや侍女シェマは違う。
彼らは、怪訝そうな表情で青年ゾーアを見ていた。
*
追手から逃げ延びた一行は、小さな村へと辿り着いた。
宿屋でくつろぐ姫と侍女シェマ。久しぶりにホッと人心地をついた。
ゾーアは外へ見回りに行き、ヴェルフェスは宿屋のすぐ近くで待機している。
「姫様は気を許し過ぎですよ。あんなどこぞの馬の骨とも……。まぁ形式だけは貴族ですけど」
「シェマ。そんなことを言ってはいけません。命を救っていただいた方に」
「た、たしかにそうですが……。ただ私は、姫様にはもう少し人を疑うということを知ってほしいのです」
「分かっています。特にこうなってしまった以上、私も籠の鳥ではいられませんし。……それにしても、どうしてこう何度も居場所を知られてしまうのでしょうか。どこかに追跡者がいるということでしょうか」
「それなのですが、あのゾーアとかいう男。怪し過ぎませんか? 皇弟派ですよ? 急に現れたのだって。ずっと追跡していたのは、あの男だったのかも」
「シェマ。それはさっきも言ったように……」
「救って頂いた、ですよね。それは分かりますが……。それと私は、ヴェルフェス様も怪しいと睨んでおります」
「ど、どうしてそんな……。彼はずっと私を守ってくれているのですよ? それはもう小さな頃から。だから私は、彼を父のように慕っています。彼に限って、そんなことはありえません」
「ですが、どうにも。あの年で結婚もされず……。私は見てしまったのです。彼の目が、姫様をなんだか、いやらしいものを見るような……」
「やめて! ……そんな話、聞きたくはありません。シェマ、あなたも精神的に参っているのは理解しています。ですが、いくらなんでもそんな……。そんな穢らわしいことはありえません。彼に限ってそんな……」
「でも、姫様!」
「……一人にしてくれますか、シェマ。……お願い」
執拗な追手に、姫も疲弊していた。シェマは無言のまま部屋を出ていった。
*
ヴェルフェスは宿屋に入ってくるゾーアを見つけ、カッと睨みつけた。
「貴様、どこへ行っていた?」
「周囲を警戒に」
「そんなことを言いながら、増援を呼んだのではないのか? レイデルガローの暗殺稼業。どこまで本当かは知らぬ。だが、卑しい出の貴様らなら、姫の暗殺なぞお手のものだろう? 姫は騙せても、私は騙せんぞ」
「いいえ。そのようなことは……」
ヴェルフェスはゾーアの胸ぐらを掴み、勢いよく壁に押し付けた。
「いいか。覚えておけ。姫に仇なす者は、誰だろうと容赦はせん」
「その台詞は、守れてから言って下さい。私がいなければ、姫はあの輩の慰みものになっていたでしょう。しかも皇帝の血筋。数年前の戦時下で平然と行われていたことが、またこの帝国内でも行われるだけですよ」
「減らず口が! いいか、貴様は大人しくしていろ! 亡霊の手なぞ借りん!」
ヴェルフェスは手を離す。そして再び睨みつけ、部屋に戻っていった。
戦時下で行われていたこと。
それは非人道的なものだった。
特に帝国兵が共和国へ行った蛮行は、今でも語られている。
女性は悉く陵辱され、男は意味もなく拷問されたのだ。
中でも、共和国の大統領に関しては凄惨を極めた。
彼は公開処刑されたが、その家族も酷い扱いを受けたのだ。
特に、娘たちへの暴行は目に余るもので、死体はそのまま広場に放置された。
しかも、その暴行は当時の大統領の目の前で行われたのだ。
彼は、血の涙を流したとも言われている。
そういった蛮行は、帝国軍の勝利により誰も断罪できなくなってしまった。
だが今回、皇弟派のクーデターにより、その皇帝派も粛清されつつあった。
ヴェルフェスの去っていく背を確認したゾーア。
彼には、早急に対策を打つ必要があった。
事態は切迫していたのだ。
(さて……。すでにこの村も囲まれているとはな。随分と姫様に固執するじゃないか。誰の差金だ? あの姫がどうなろうと知ったことではないが……。将軍の元へ辿り着いた時に、傷物では色々と支障が出てしまう)
いくつかのおかしな点があった。
今まで姫に接触する機会を窺っていたが、幾度となく姫は襲撃を受けている。
初めはゾーアも、自身と同じような目的の別働隊がいるのことを疑っていた。
だが、自身以外の追跡者など存在するはずもない。
さらに不自然なのが逃走経路だ。
あきらかに将軍のいる場所から離れていっている。
実際、少し前の村では、近い場所まで行ける馬車の直通便があったのだ。
だが、それは使われなかった。
おかげで、彼らは随分と危ない橋を渡り続けている。
なにせ今までの追手の大半は、秘密裏にゾーアが始末し続けていたのだから。
(全く難儀なことだ。ただ姫を将軍のところへ導けば済む話だったのに、結局姿を見せなくてはいけなくなった。この不可解な逃避行は、やはりあの男が原因か。ヴェルフェス。だが、ヤツは皇帝派で、怪しい動きもなかった。それにヤツはどうやら、姫に個人的な感情を抱いているように思えるフシがある。なら、なおのこと姫を危険に晒すなぞ考えにくいが……)
ゾーアの中で思考が堂々巡りをする。
しかし、情報が足りない。
それに、村を包囲している集団は、彼が秘密裏に動ける規模ではなかった。
それこそ、村が消滅するほどの数であった。