耳から出た糸
これは、子供の耳掃除をしている、ある若い母親の話。
夕飯の準備を済ませて、束の間の休息。
若い母親が、小さな男の子に膝枕をして、耳掃除をしている。
「さあ、ママが耳掃除をしてあげるから、横になって大人しくしてね。」
「うん、ママ。」
男の子は、言われた通りに大人しく横になっている。
その若い母親は、耳かきで男の子の耳の穴をやさしく掃除する。
「耳垢はそんなに溜まってないみたいね。・・・あら?」
その時、男の子の耳の穴から、何か細いものが飛び出してきた。
「何かしら、これ。糸・・・いえ、毛かしら。」
それは、細くて黒い、一本の糸のような毛のようなものだった。
男の子の耳の穴から飛び出してきたそれは、
糸にしては細く、黒い毛のようにも見える。
その若い母親は、その黒い毛のようなものを指で摘もうとした。
すると、男の子がぴくっと反応する。
「・・・痛っ。ママ、痛いよ。」
「あら、ごめんなさいね。
痛いということは、やっぱりこれは糸じゃなくて毛なのかしら。」
その糸のような黒い毛は、耳の穴の奥に向かって続いていて、先が見えない。
服などに糸くずがついているのを見つけると、
それを取ってしまいたくなるのが人情。
その若い母親も、耳の穴から出てきたその毛のようなものを、
取ってしまいたい衝動に駆られた。
そこでふと、有名な怪談を思い出す。
それは、こんな話。
ある女の子が、耳たぶにピアスの穴を開ける。
すると、中から白い糸のようなものが出てくる。
それは視神経で、引っこ抜くと視力を失い、目の前が真っ暗になってしまう。
その女の子は、視力を失ったことを知らず尋ねる。急に電灯を消したのは誰?と。
「・・・そういえば、そういう怪談があったわね。」
その若い母親は、その怪談と今の状況が似ていることに、気味が悪くなった。
「まさか、この耳から出てきた黒い毛が、視神経なわけ無いわよね。
あの怪談と違って、この糸のような毛は、白じゃなくて黒だもの。
ううん、それ以前に、視神経が耳から出てくるわけがない。」
もう一度、男の子の耳の穴から飛び出た毛を、やさしく引っ張ってみる。
「この毛、耳の奥で何かに引っかかって取れないわ。
まさか、怪談の通りになるとは思わないけど、
このまま放っておいて、この子に害がないか心配だわ。」
部屋の壁にかかっている時計を確認する。
もうとっくに病院は終わっている時間だった。
その若い母親は、男の子の頭を撫でて言った。
「耳に何かあるみたいだから、明日病院に行って診てもらいましょうね。
だから今日はもう、大人しくしてるのよ。」
その若い母親は、救急箱から絆創膏を取り出すと、
男の子の耳の穴から飛び出た毛ごと、耳を塞ごうとした。
しかしその時、くすぐったくなったのか、男の子が身動ぎした。
不幸なことに、その拍子に絆創膏のテープに毛が貼り付いて、
耳から出たその毛を、強く引っ張ってしまった。
奥から何かが引っ張り出てくる感触がする。
そうして耳の穴の中から出てきたのは、ふさふさとした小さな毛並みの塊だった。
その塊は、動物の耳毛のように、耳の穴から覗いている。
毛の塊が引っ張り出された代わりに、飛び出ていた毛は切れ落ちてしまった。
その毛が切れるプチっとした感触は、
何か大事なものが切れてしまったような、そんな感触だった。
その時突然、その若い母親の視界が真っ暗になった。
急に目の前が真っ暗になって、その若い母親は慌てて辺りを見回す。
「な、何!?停電?
それともまさか、本当にあの糸は視神経だったの?」
一瞬そんなことを考えたが、すぐに冷静になって気がつく。
切れたのは、子供の耳から出てきた糸のような毛であって、
自分の目とは無関係のはずだ。
落ち着いて考えたら、すぐに冷静さを取り戻すことができた。
膝枕に横になっている男の子の頭を撫でて、無事を確認する。
「びっくりしたでしょう。大丈夫?」
男の子は、黙って手を握り返してくる。
きっとびっくりしたのだろう。
最初こそ慌てたその若い母親だったが、
冷静になって子供の無事を確認して、辺りの様子を確認した。
ほとんど光が射さない闇だが、
それでも部屋の中の様子が薄っすらと浮かび上がってくる。
ということはやはり、あの怪談のように失明したということでは無いようだ。
徐々に目が暗闇に慣れてくる。
家の中に、目立った変化は無い。
不審なことと言えば、電化製品の豆ランプが真っ暗になっていること。
通電していれば、使用中でなくても点灯しているはずだ。
どうやら、本当に停電しただけのようだ。
ただの停電だと分かって、その若い母親は胸を撫で下ろした。
「こんなタイミングで停電だなんて、驚かせないで欲しいわ。
普段だったら、放っておけば停電は直るのだけれど。」
しばらくそのまま待つが、停電は直らない。
「停電、直らないわね。どうしようかしら。
生憎、うちは隣の建物が近くて、外の明かりもほとんど入ってこないのよね。」
すると、膝枕に横になっていた男の子が、顔を向こうに向けたままで尋ねた。
「ママ、どうしたの?」
「ごめんね、びっくりしたわよね。停電したみたいなのよ。
しばらくしたら直ると思うから、もう少し待ってね。」
しかし男の子は、不思議そうに返事をした。
「停電?どこが?」
その若い母親は、ちょっと苦笑いをして応える。
「どこかしらね。
うちだけなのか、それともアパート全部なのかもしれないわね。」
その若い母親の返事は、男の子には要領を得ない返事だったようで、質問は続く。
「そうじゃなくてママ、電灯、消えてないよ?」
「・・・え?」
言われてその若い母親は、頭上の電灯を確認する。
電灯は確かに消えているはずだ。
ぼやっとした残光が見えているので、間違いない。
その若い母親は驚いて、男の子の顔をこちらに向けて確認する。
「どうしたの?
もしかして、目がおかしいの?・・・あっ!」
その若い母親の膝枕で横になっている男の子。
その目が、暗闇の中でギラギラと輝いている。
「その目、どうしたの!?痛くない?」
慌てて男の子に問いただす。
しかし、当の男の子本人は、ケロッとして応える。
「目?なんともないよ。それよりも、ママの方が大丈夫?」
男の子は、上半身だけムクッと起き上がって、
周りをキョロキョロと見渡して言う。
「今、本当に停電してるの?
ぼく、家の中がちゃんと見えるよ。」
家の中を見渡す男の子の目。その瞳孔が、みるみる開いていくのが分かった。
その様子は、暗闇の中でも見える、猫の目のようだった。
男の子は、真っ暗な家の中で何かを見つけて立ち上がった。
「あっ、ブレーカーが落ちてるよ。ぼくが直してくるね。」
「待って!あぶないわよ。」
その若い母親が止める間もなく、
男の子は踏み台を使って、ブレーカーを上げてしまった。
チカチカっと点滅して、部屋の電灯が灯る。
急に明るくなって、その若い母親は目を細めた。
やはり、停電して真っ暗になっていたのは、間違いないようだ。
その若い母親は立ち上がって、踏み台の上に立っている男の子のところに行くと、
男の子の体を抱きかかえた。
「ブレーカーなんて、どこで覚えたの?
ううん、それよりも、本当に大丈夫なの?」
男の子の目を確認する。
男の子の目は、瞳孔が急速にしぼんで、糸のように細くなった。
部屋の明るさに応じて、瞳孔が開いたり閉じたりするその様は、
まるで猫の目のようだった。
男の子は猫の目のまま、得意げな顔で応える。
「ぼくは平気だよ。ちょっと眩しいけど、もう大丈夫。」
男の子は体をくねらせて、スルリとその若い母親の手をすり抜けた。
今までにその男の子がしたことがないような動作だった。
男の子は四本脚で食卓の上に飛び乗って、手を前足のように揃えて座った。
手の甲をペロペロと舐めると、その手で耳の裏をこすり始める。
その耳には、さっき引き出された毛の塊が、
耳の穴を覆う程に生い茂り、まるで猫などの小動物の耳のようだった。
それどころか、いつのまにかその口元には、
長い触角のような猫のヒゲまで生えていた。
その若い母親は、大慌てで男の子を詰問する。
「そんな動物みたいなことは止めて!
どうしたの、その口の毛は。まるで猫みたいじゃない。」
慌てたその若い母親に対して、男の子はのんびりと応える。
「どうしたの、慌てちゃって。ぼくは何ともないよ。
それよりも、ママこそ大丈夫?
耳から何か出てるよ。」
その若い母親は、自分の耳をハッと抑えた。
指先で、恐る恐る耳の穴を探る。
感触でしかわからないが、間違いない。
そこには、糸のようなあの黒い毛が飛び出ているのが、手触りでわかった。
食卓に登って、猫のように掃除をしていた男の子が、
食卓から飛び降り、四本脚でにじり寄ってくる。
「ママ、僕が掃除して取ってあげるよ。」
男の子は、猫のように体を伸ばすと、口を開いた。
口からは、猫のような棘の生えた舌が伸び出てくる。
その若い母親の耳に、棘の舌が迫る。
棘の舌で、猫のようにじょりじょりと舐めて掃除をする。
そうしている内に、その若い母親の耳の穴から飛び出た黒い毛は、
ぷっつりと抜け落ちてしまった。
その若い母親の耳元に、黒い毛が切れた音が響く。
何か大事なものが切れてしまった。
そんな気がした。
ピンポーン。と、玄関のチャイムが鳴る。
しばらくして、ガチャガチャと鍵を開ける音がして、玄関のドアが開いた。
この家の父親らしき、スーツの男が姿を現す。
「ただいまー。ごめんな、仕事が遅くなっちゃって。
お腹が空いてるだろう。さぁ、夕飯にしよう。」
玄関で靴を脱いで、父親が家に上がる。
そうして部屋の中に入ったところで、驚いた父親は持っていた鞄を取り落した。
「・・・どうした、お前たち?」
父親は、目の前の光景に立ち尽くした。
目の前では、その若い母親と男の子が、四本脚で座っていた。
ふたりは、瞳孔が開いた猫のような目をして、
仲睦まじく、お互いの顔を舐めて掃除し合っていたのだった。
終わり。
耳たぶから白い糸が出てきて、それを切ると目が見えなくなる。
有名なあの怪談をモチーフに、糸を切ると逆に目が良くなる話を作りました。
怪奇現象だけど、でも最後は本人たちには幸せな話にしました。
お読み頂きありがとうございました。