4時間目 事件発生
「まったく…」
窓を閉めたユキは大きな溜め息を一つ。
「ユキはいつも気を回しまくりだね。疲れないのかい?」
演劇部の衣装を手直ししていた少女が、ユキを見ないまま問いかける。
「もうげっそりだよ。」
「やっぱり。そんな中悪いね、手伝ってもらっちゃって。」
「いや、別に手伝うの自体は全然苦じゃないんだよな。ハーシュはこざっぱりしてるから気楽だし。」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。」
ハーシュはやはり、顔を上げないままくすくすと笑った。
どこもかしこも賑やかな校舎内で、珍しく静かなこの室内。その上一緒にいるのがこのハーシュだ。気楽だと言ったのは根っからの本音だった。
「悪い、ちょっと休憩ー。」
椅子にどかっと腰を落とし、ユキは辟易として体中から力を抜いた。
「ふふ。お姫様方のお相手にさぞ手を焼いているようだね。」
「おー…お前、よく毎日あれで耐えられるな。」
「私にとってはみんな、可愛いお姫様だからね。」
「理解できねー…」
はっきりと言い、ユキはまた大きく息を吐き出した。
さすが、女子演劇部の花方兼部長。毎日のようにファンに囲まれているだけあって、女子の扱いはお手のものといったところか。
「あと、私はあくまでも同じ女性だからね。お姫様方もさして本気ではないのさ。その点、男性のユキは大変かなと同情するよ。」
「オレにそういうことを言ってくれんのはお前だけだよ。」
これだから彼女といるのは気楽なのだ。たまたま駆り出された演劇部で彼女と意気投合しなければ、今得ているささやかな休息もなかったことだろう。彼女は時たまこうして、部外者立ち入り禁止の準備室にそれとなく避難させてくれる。この配慮にはただただ感謝するばかりだ。
「しっかし…理事長の名は伊達じゃねぇな。」
去年までとは周囲の反応が雲泥の差だ。周りが騒がしくて敵わない。
「それについてはノーとは言わないが……あえてイエスとも言わないでおくよ。」
「なんで?」
「それ、言わせるかい? ユキ、まさか自分の顔を過小評価していないだろうね?」
「………」
そこまではっきり言われると…
ユキは複雑そうな表情で自分の頬に手をやった。
「オレ、そんな目立つ顔してる?」
自分でも気になっていたことを、思い切って訊いてみた。
ハーシュは特に悩む様子もなくすぐに口を開く。
「何故今の今まで息をひそめていられたのか、甚だ疑問に思うレベルだよ。だから密かに君をマークしていたお姫様は少なくはなかったさ。理事長の名前は、悩めるお姫様方の背中を押したに過ぎない。」
「押しすぎだっての。」
ユキはいまひとつ納得がいかないと言いたげにしかめっ面をする。
いや、さすがに自覚が全くのゼロというわけではないのだ。トモやルズには定期的に顔がいいとは言われているし、買い物に出かけるとなんだかんだ二、三人には声をかけられる。
だが自分にとってこの顔は毎日見ているものであるわけだし、見慣れすぎているせいか、女子たちが騒ぐ理由があまり理解できないのである。
「自分が納得できなくても、評価というのは得てして他人が決めるものなのさ。ユキ、実行委員の打診は来なかったのかい?」
ふとハーシュがそんなことを訊いてくる。
「あー、まあ来はしたよ。事務員総出で断ったわ。」
あの時は空気を読まずに事務室に押しかけてきてくれて助かった。ナミが圧倒的なまくし立てで実行委員を黙らせてくれたおかげで、とてもスムーズに断ることができたのだから。
「ふむ。ならその時点で、君はシャルのお眼鏡に敵っているわけだろう。あの子が指名したってことは、相当整った顔をしているってことだよ。」
「な、なるほど…。」
まさか、そんな変化球で自分の顔を肯定されるとは。
トップモデルであるシャルロット率いる今年の実行委員は、見事に美男美女の巣窟だ。顔だけで選んだのかと思いきや、案外仕事も手堅くできる面子を揃えていたことには驚いた記憶がある。
とはいえ、散々事務に無茶な要求をしてきた恨みは忘れなどしないが。
「まあ、断って正解だったんじゃないかな。シャルは決して悪い子ではないんだけど、多少押しつけが過ぎるところがあってね。自分の理想の美しさを追求するあまり、勝手に他人の見た目を変えてしまうこともあるんだ。」
「ああ…そういえば、実行委員の中にそういう奴もいるって話だな。」
あんな冴えなかった奴に何があった?
クラスの連中がそうざわついていたこともあった気がする。
「よく言えば原石を見つけるのが上手い……ってことなのかね。まあ、変えられた本人がそれで自信をつけて活躍できるなら、その強引さも決して悪くはないんだろうけどな。オレにとっちゃ、ありがた迷惑な上にうぜぇけど。」
「ユキのその、認めるところは認めつつきっちり落とすところ、嫌いじゃないよ。」
「どーも。」
ユキの容赦ない物言いに微笑み、ハーシュはふいに「ただ……」と声のトーンを落とした。
「まだ油断はしない方がいい、と忠告はしておこう。少なくとも、創立祭が終わるまでは。」
「何? まさか、そのシャルロット様がまだオレを諦めてないとでも?」
「うん。そういうことだ。」
「え……」
すみません。今の、完全に冗談だったんですけど。
ぎょっとするユキに、ハーシュは優雅な仕草でほう、と息をついた。
「白状すると、ユキってわりとシャルの好みのど真ん中なんだよね。長身で細身なのが最低条件。どちらかというと可愛いよりはかっこいい方が好き。それに加えて色白で短髪ならなおよし。それがあの子の好み。」
「うわ、なんでハーシュが親友なのかすっげぇ分かりやすい。」
「だろう?」
演劇部の花方だけあって、ハーシュは女性にしては長身だ。体の線も細いし、王子様と称される甘いマスクにショートカットの黒髪がとてもよく似合っている。肌は色白というわけではないが、逆に黒すぎるというわけでもないので許容範囲だろう。
「私が男性だったら、逃げ場がなかったと思うよ。」
「女でも逃げ場ねぇじゃん。」
「まあ、友人としてなら可愛げもあるからいいんだ。」
「さらっと貶したな?」
「愛故の苦言と言ってくれ。」
こほんと咳払いをしたハーシュは、ちらりとユキを横目に一瞥する。
「ともかくユキの場合、あとは髪さえ短ければシャルの理想そのまんまということになってしまう。」
「なるほどな。それは、縛り上げられて刈られないようにしないとな。」
ここまで言われれば、ハーシュが何を気にして油断するなと忠告してくれているかは明らかだ。
まさかこれが三本目のフラグとは夢にも思っていないユキは、一ヶ所でも自分の容姿がシャルロットの好みを外れていることに心底安心する。
そんな時だ。
「うわあぁぁぁっ! ナギーッ⁉」
そんな悲鳴の大合唱が聞こえてきたのは。
「はっ⁉」
完全に気を抜いていたユキは、危うく椅子から落ちかけてしまう。
慌てて窓から入場門の様子を窺うと、ナギが入場門の足場を掴んで体操の大車輪ばりの回転を披露していた。かと思えば、くるりと細い足場に着地してその上でバク転なんかを始める始末。
「だあぁぁぁぁっ、もおぉぉぉぉっ‼」
さっき自分はなんと言いましたっけ⁉
ユキは髪を掻きむしり、次の瞬間大慌てで準備室を出ていく。
「……ふむ。なんとなく胸騒ぎがするんだが、気のせいかな?」
残されたハーシュがぽつりと不穏な一言を呟いた。
★
そこはもう、悲鳴とパニックでてんやわんやだった。
「ナ、ナギ! ストップ! もうやめてー‼」
「あははははっ! 大丈夫、大丈夫! 結構丈夫だからー!」
「おれたちの神経は大丈夫じゃなーい‼」
トモが叫ぶも、当のナギはとても楽しそうに細い足場で曲芸紛いのことをしている。
ナギがいるそこは地上三メートル。落ちたらひとたまりもない。丈夫だからと本人に笑われても、ギャラリーは全然笑えない。
「こんの大馬鹿野郎ーっ‼」
と、その時、昇降口から猛ダッシュで向かってくるユキの姿が見えた。
「あ、ユキー♪」
「ユキーッ‼」
ナギが瞬く間に表情を明るくし、トモたちが救世主を見つけたかのような必死さで彼に飛びついた。
「ユキ! ナギをどうにかしてーっ‼」
「分かってる!」
集まってきた生徒たちを押し退けて一番前に進み出たユキは、怒りと焦りがない交ぜになった表情でナギを見上げた。
「お前なあ! あれほど人に心配かけることはやるなって言っただろうが‼」
「だってぇ~…」
「だってもくそもねぇよ! さっさと降りろ! そんでみんなに謝れ‼」
「だって、こうしないとユキ来ないじゃーん!」
まったく悪いと思っていないらしく、不満げに唇を尖らせたナギは足場に腰かけた体勢のまま、ぐるぐると体を縦に回転させる。
「馬鹿! それ以上揺らしたら―――」
いち早く何かに気づいていたらしいユキが焦る。
彼の視線の先にあったのは、ナギが回る足場の一段下。資材の間を橋渡しする板の上に乗っていた工具入れだ。
ナギが足場を揺らしたことで、工具入れが最後のバランスを失い空中へと。
「あ…」
それに気づいたナギがほとんど無意識でそちらへ手を伸ばした。
「取るな‼」
ユキが叫ぶも遅く。
「わわっ」
体勢を大きく崩したナギの体が、工具たちと一緒に空中へと放り出されてしまった。
「ナギ‼」
その場をつんざく悲鳴。
バラバラと工具の雨が降る音。
「―――……」
しん、と静まり返る現場。
とっさに目を覆った生徒たちは、おそるおそるその目を開いた。
「う、ん……いたた…」
ナギがゆっくりと体を起こす。
その下で。
「あっ…ぶねー……」
ナギを受け止めつつ、器用に彼を工具たちから庇っていたユキが緊張の面持ちで息をついた。
「ユキ…!」
最悪の事態を免れたことを理解した皆が、それぞれ安堵して全身から力を抜く。中には地面にへたりこむ者もいた。
「お前…この後説教だからな……いって!」
身動ぎした瞬間耳に痛みが走り、ユキはとっさにそこへ手をやった。
「あー……避けきれなかったか。」
地面には、刃が剥き出しだった太いカッターが突き刺さっている。
誰だ、こんな危ない状態でカッターを放置した馬鹿は。ナギと合わせてそいつにも説教をしなければ。
「ユ、ユキ! それ…っ⁉」
ナギが顔を真っ青にする。
彼が指差すのはちょうど自分が押さえている耳辺りだ。
「ああ? 別に大した怪我じゃねぇだろ。」
触ってみた感じ、カッターは奇跡的に耳をかすっていっただけのような気がするが。
「ち、ちが……そうじゃなくて!」
ナギはぶんぶんと頭を振った。
「か、かかかかっ…」
「あ?」
不可解そうに首を捻るしかないユキ。
一方のナギは、何度もどもりながらこう叫んだ。
「か、髪! 髪が…っ‼」