1時間目 ユキの憂鬱
日曜日の朝一に響くインターホン。
「ユキー、お母さんから荷物だよー♪」
覗き窓から廊下の様子を見れば、きらきらとした笑顔で段ボールを持つナギと、それについてきたらしいトモの姿があった。
(朝からこいつらは…)
ユキはドアに額をつけて、げんなりと肩を落とした。
トモだけではなく、確実にナギにも経験値を積まれている。この時間帯なら、まだ自分が勉強モードに入っていないと把握されているじゃないか。
「ユキさーん、そこにいるのは分かってるんですよー。」
トモの間抜けた声が苛立ちを誘う。
どこの借金取りだ。
そんな突っ込みはともかく。
「はいはい。出りゃいいんだろ。」
仕方なく、ユキはドアを開けた。
「まったく。なんでお前らが荷物持ってくるんだよ。」
「なんか受付通ったら、どうせユキのとこ行くんでしょって渡されたー。」
ナギの説明に、ユキは大いに眉を寄せる。
ああ、だんだんと自分とナギをセットで扱う人間が増えてきている。
ナギの面倒は自分やトモに任せていた方が都合がいい。
そうなるように仕組んだのは確かに自分なのだが、ここまで皆が自分の狙いを外れないと逆に複雑だ。
どいつもこいつも馬鹿なのだろうか。ちょっとは踊らされていることに気づけ。
「はい、これー。」
こちらがそんな複雑な気持ちになっているとも知らず、ナギは子犬のような無邪気さで段ボールを渡してくる。
お前はお前で、つい先日何をやらかしてたか覚えてるのか?
思わずそう問いかけたくなるような顔だったのだが、そんなことを突っ込めば地雷を踏み抜くのは自分の方。
「……ありがとな。」
結局言いたいことを全部飲み込み、段ボールを受け取るユキだった。
「そういえば、なんか小物とか生活用品とか送るって言ってたな…」
数日前にサヤから電話でそんな話を聞いた気がする。
くるりと後ろを振り向き、部屋に戻るべく一歩廊下へ踏み出す。
「……おい。なんで入ってくる。」
玄関を見ないまま問いかける。
当然のように背後にある気配が邪魔なのだが。
「いーじゃん。三十分だけー。」
きっちりと鍵をかけながらトモが言う。
やはりこうなるか。なんとなく予想していましたとも。
まあ正直、トモがセットなのは助かる。朝っぱらからナギと二人になって、彼に暴走されたら身がもたない。それに今はまだ勉強する前だということもあるし。
「三十分で出てけよ。」
ぶっきらぼうに言い、ユキは頭の中で今日一日の予定を組み直しながら部屋へと戻った。
「ほへー…ユキ、また株とか経済の本増えた?」
ユキの部屋に入ったトモは、本棚を見て口笛を吹いた。
「まあな。ごくたまーに教授んとこに手伝い行くと、結構な量渡されんだよ。」
段ボールを一度机の上に置いて同じように本棚を見上げるユキに、トモがぎょっとして目を見開いた。
「え、ユキ、あれから結局ダニー教授のとこ通ってるの?」
「通ってねぇよ。ごくたまーにって言ったろ。理事長命令の時だけ、仕方なく顔出してる。顔出したっていっても、三、四回くらいだけど。」
「それでこの量になるわけ?」
「だって、一度掃除しに行くと、あの人軽く十冊は本を渡してくるだぜ。」
ユキはうんざりとした顔で溜め息をつく。
「軽くってことは、それ以上なんだ…。でもユキ、そんな顔しながら全部読んでるよね? 付せんだらけじゃん。」
トモが本を一冊取り上げて中身をめくる。
確かに彼が言うように、本棚に収まっている本には漏れなく付せんが大量に貼られていた。しかも何度も読み返されたのか、その付せんも妙にくたくたになっている。
「……だって、あの人のチョイス、絶妙に面白くて、ついつい読んじまうんだよ。」
「それはもう胃袋ってか、頭脳を掴まれてるでしょ。」
「………」
そう言われると反論のしようがない。
「やっぱ、大学は経済行くの?」
本を戻しながらトモが問う。
「そうだな。その予定。」
ユキは迷わずにそう答えた。
なんだか上手い感じにダニーとレードルに操られている節はあるものの、こういった方向に自分の興味が向いているのは事実だ。ここでつまらぬ意地を張って、その分野に進まないというのは違うだろう。
「えーっ! ユキ、経済行っちゃうの⁉」
ふとナギが不満そうな声をあげた。
「こればっかは仕方ないだろ。」
ユキはにべもなく正論を返す。
これまでの功績を見るに、言うまでもなくナギは理工学を専攻するだろう。
大学の専攻分野は、将来に繋がる大事な選択だ。興味関心も得意分野も違う以上、来年から違う道に進むことは避けられない。
「そうそ。さすがに大学は仲良しってだけで同じとこは選べないからねー。かくいうおれも情報技術専攻だし。」
こればかりはトモも困り顔でそう言うだけだ。
「みんな分かれちゃうの…」
ナギがしょんぼりと眉を下げる。
「まあまあ! 専攻は分かれるけど、キャンパスは一緒だし! 都合合わせればお昼くらい一緒に食べれるって。」
トモが明るく笑い、次にまた本棚を見上げてうーんと唸った。
「それにしても、ユキが経済かぁ…。いや、すごく合ってると思うよ。性格的に。」
「そうか?」
トモができるだけ落ち込みかけた空気を変えようとしているのが分かったので、ユキはひとまず話に乗っかってやることにした。
「あなたの先見の明はすごいよ。それに、人動かすの上手すぎるもん。経済行って正解。いつか経済界を牛耳ってそう。」
「そこまで言うか。」
「言うね。」
大真面目なトモに、ユキは苦笑いを返すしかなかった。
きっとこうすれば、誰がどう動いてこうなる。
こういう状況にあるなら、いずれ誰がこう動く。
昔からなんとなく、そんなことを予想するのが癖みたいなもので、距離感を第一に色んな人と関わるようになってからは、その癖を意識して使うようにもなった。
この高校生活を経て、個人の予想から集団の予想へ、そしてさらに経済という大きな流れの予想へと、興味のスケールが大きくなっているのは分かる。
エヴィンの言ったとおり、もしかしたら自分は凝り性なのかもしれない。
好きだなと自覚したら、なんだか進めるところまで進んでみたくなる。料理の腕だってそうやって磨いてきた。
でも…
ユキはふと目を伏せる。
楽しいことには楽しい。それは認める。
だが楽しさを優先して進めるところまで進んだとして、その先に何があるのか分からない。
確実で作り上げた安定か。
興味が向かう不安定か。
はっきりとどちらを優先すると決められていない今は、トモの評価を素直に受け取れない自分がいる。
自分にとっての大学生活は、今までの理想を覆すか否かの判断時期。判断を誤らないためには、あまりのめり込み過ぎないようにしなければ。
そんなことを無意識が己に言い聞かせた。
その時。
「おー、なんか色々入ってるー。」
ふと後ろから、がさごそと物音が聞こえてきた。
「あー、ナギ! 何勝手に開けてんだよ! ひとが考え事してる間に‼」
そちらを見ると、段ボールの蓋を開いたナギが興味津々といった様子でその中を探っていた。
「あ!」
ナギの表情がパッと輝く。
「見て見て! こんなの入ってたよ!」
そうして差し出されたのは一枚の写真だ。
写っているのは、生まれたばかりのルキアを抱く幼い自分。
「あー…母さん、またアルバム見ながら荷造りしたな。」
別に珍しいことじゃない。
サヤはアルバムを見るのが趣味みたいなものだ。家でもよく机の上にアルバムや写真が出しっぱなしになっている。
「あら、可愛い。この時はまだ顔きつくなかったのね。」
「うるせーわ。」
ふざけた調子でそんなことを言ってくるトモをあしらっていると。
「ユキ! これちょうだい!」
何故か突然、ナギがそんなことを言ってきた。
「な、なんで…?」
「欲しいから。俺が知らない昔のユキの写真だもん。余計に欲しくなるじゃん。」
「ええ…」
ユキは渋い顔をする。
すると、今度はナギが逆に黙り込んだ。
「………」
あの、口で敵わないからって目で訴えるのはやめてもらえません?
ナギの魂胆なんてお見通しだったのだが、無言で「だめ?」と問いかけてくる上目遣いが謎の罪悪感を煽ってくるったらもう…。
「……分かったよ。持ってけ。」
どうせ自分が持っていても、サヤに送り返すか捨てるだけだ。
結局折れた。
「やった♪」
心から嬉しそうなナギに、ユキは額を押さえて息をつく。
あざといって、こういうことをいうのだろう。ここでも確実に経験値を積まれていると思い知らされる。
(昔のオレ、ね…)
写真を見て喜色満面といった様子のナギに、心中は複雑になる。
正直、自分は過去のことなど好き好んで思い返したくはない。心底そう思っているからか、高校入学前までの記憶なんてほとんどが抹消されている。
微かに残るのは、過去に対する苦い気持ちだけ。
サヤもナギも、やたらと昔を懐かしんだり気にしたりするは何故なのだろう。
(いいじゃん。今のオレがオレでさ……)
ざわついた心が、そんなことを呟いた。
「この時のユキ、髪短かったんだねー。」
「そうだな。見てのとおりだよ。」
こちらの複雑な気持ちにも気づかず、暢気でいいことだ。
多少そんな不満があって、ユキは適当にぞんざいな言葉を投げる。
だが言葉に仕込んだささやかな刺を、ナギが気にするはずもないわけで。
「いいなー。髪短いユキってのも見てみたいかも。」
ご機嫌でそう言われ、胸中はますます複雑になるばかりだった。
★
さて、季節は四月も半ばに差しかかった頃。
少しずつ慣れてきた新しい教室で、彼らはぐるりと額を突き合わせていた。
「来たな。」
「ついに来たな。」
「待ちわびたぜ…」
彼らの視線の先には、今日配られたプリントが一枚。
それは、六月頭に開催される創立祭の日程告知だった。
「待ちに待った創立祭シーズン。」
「これがほんとのラストチャンス!」
「そう、今年こそ!」
くわっと目を見開く彼らは、次に高々と拳を掲げた。
「今年こそ、女の子とお近づきになるぞー!」
「アホか。」
何を意気込んでいるのかと思いきや。思わず突っ込んでしまったではないか。
それまで無言で彼らの様子を窺っていたユキは呆れ果てる。
「ええ⁉ ユキ、女の子に興味ないの⁉」
「どうでもいいわ。大体、女子となんて大学に進めばいくらでも話せるだろうが。」
「何言ってるの! 高校生の青春は今しか味わえないんだよ⁉」
「青春以前に、オレたちは今年受験生だけどな。」
「やめて! 現実を叩きつけないで!」
やれやれ、無駄にうるさい奴らだ。
耳を塞いでぶんぶんと首を振る馬鹿どもに息をつき、ユキは彼らの中心から創立祭告知のプリントを取り上げる。
毎年六月頭に開催される創立祭。
普段は男女ともに異性の校舎に立ち入ることができないのだが、創立祭の準備期間だけはその規制が解除される。女子は力仕事で男子が必要になるし、男子も繊細な部分で女子の手助けが欲しいからだ。
つまりこの時期は年に一回の出会いの季節。
浮かれる奴が浮かれるのは無理もないが……
「オレ、創立祭嫌いなんだよな。はしゃげるお前らが羨ましいわ。」
もうあらかた頭に叩き込んだ創立祭の概要を眺め、眉をひそめるユキ。
「華やかな美しさって……今年の創立祭テーマ、何なんだよ。概要でもやたらめったら華やかにとか美しくって書いてあるけど、何? 語彙力皆無の馬鹿が作ったプリント? それとも何かの宗教活動入ってる? めんどくせぇ感じしかしないんだけど。」
「さすがユキ。今日もキレッキレですね…。」
今日も至って平常運転。ユキの手厳しい物言いに苦笑せざるを得ない一同であった。
「まあうちの創立祭って、その年の実行委員長によってガラッと変わるからね~。」
「誰だっけ? 今年の委員長。」
「シャルロット様だよ。俺、ファンなんだよねー。」
一人がにやにやと頬を緩める。
シャルロットといえば、女子生徒一の有名人だ。
親が経営するブランドのトップモデルとして活躍し、そのスタイリッシュな出で立ちと高貴な態度で世を席巻しているんだったか。
華やかな美しさ……なるほど。確かに脚光を浴びている彼女が求めそうなことだ。今年の創立祭、色々と面倒なことが控えていそうである。
そんなユキの予想は早くも的中する。
「なあ、知ってる? 今年の創立祭、シャルロット様がかなりの金突っ込んでるらしいぜ。」
「マジで?」
「マジもマジよ。うちの創立祭って、テレビカメラ入ったりすんじゃん? この私がいるってのに、去年までのダサい創立祭なんかにさせてたまるかって、大分力入ってるって話よ。」
「そうそう。だから今年の実行委員って、全員シャルロットのご指名なんだろ? クラスの出し物や飾りつけも、実行委員の美的センスをクリアしないとヤバそうって噂になってるよ。」
「うへぇ…。女子はともかく、男子の方にそれを求められてもなぁ。」
ほら見ろ。やはり面倒しか待ち受けてないじゃないか。
頭が痛くなってきたユキは、思わず乱暴な手つきでプリントを机の上に叩きつけた。
「……ユキ、ほんとに創立祭嫌いなんだ、ね…?」
突っ込まずとも、ユキの背後で陽炎のように漂うオーラが全てを物語っている。
「ああ、嫌いだ。大っ嫌いだよ。お前らは女子とお近づきになりたいんだか知らんが、オレにはそんな暇ねぇんだよ。ったく……めんどくせぇ無茶ぶりしてきたら、どんなトップモデルだろうと、どんだけ金突っ込んでようとぶっ飛ばしてやるからな…っ」
何かを腹に決めたらしいユキは低くそう告げる。
一体何故そんなにユキがピリピリしているのか。
この時は、ユキにそんなことを訊ねられる猛者はいなかった。