これはのじゃロリですか? いいえ、ご先祖様です
いつもの通学路。少しばかり暮れた秋の空。カラスが鳴いて行き過ぎる。そんな日常の僕の帰り道は涼やかな声に阻まれた。
「そのほう、この時代を案内せい。」
聞き覚えのある声だ。だが、言葉遣いがおかしい。おおよそ現代では使わない用法だ。
「誰ですか。」
声の出所を探そうとして僕は辺りを見回した。
「こっちじゃこっち。」
公園の入口の半円型の車止めに少しだけ腰を預けて、こちらを呼ぶように手招きしている黒髪の少女がいた。綺麗な少女だ。そして、よく見知った少女でもある。
前田蛍。僕のクラスメイトだ。その横顔はこれまでずっとそっと見てきた。だけど、こんなに好奇心に溢れて瞳が輝くような顔を見たのも、こんなにまっすぐに彼女の顔を見つめるのも初めてのことだった。訳がわからずに僕の戸惑いは最高潮に達していた。
僕は自分を指差し、首を横に振る。勘違いでもしているのかと思ったからだ。でも彼女は頷くように頭を動かして、それだけには飽き足らず僕の方へふわりという形容詞が似合う様子で近づくと、自然な動作で手をとった。
「どうじゃ? 」
背もそんなに変わらないのに上目遣いでこちらを見つめる姿にはいつもの近づきがたい雰囲気とはまた違った魅力があってドギマギする。
「どうって言われても⋯⋯ 。」
「煮え切らんのう。超絶美少女のこのわしがそなたを誘っておるのじゃぞ。」
同学年女子と比べたら発達しているとはいえやはり薄い胸を誇るかのように強調して彼女は僕の腕を引っ張ってくるりと回る。
いつもの彼女は容姿端麗で口数の少ないクールな子のはずだ。話したことはほとんどないけれど、クラスメイトのことだし、大体はわかる。誰にも言ってないけど、気になってるし。
でも、今の彼女はそんないつもの様子とはまるで違う。
何が起こっているのか本気でわからなくて僕は少しだけ強く彼女の手を握って引きとめようとした。
「⋯⋯ そろそろ時間じゃ。また会おう。」
唐突に焦り気味になって彼女は僕の手の拘束を引き剥がす。そのまま走り出そうとしたところで立ちくらみでも起こしたかのようにふらりと体の力を抜いた。僕は慌てて体を支えに動いた。想像していたより確かな重みがあった。
ほどなくして彼女は再び目を覚ました。よかった。手近に落ち着ける場所がなくてずっと糸の切れた人形のような彼女の体を支えているのはきつかったから。ただ、この状況をどう説明するか。それだけが問題だ。
ううんと唸って、彼女は瞳を開けた。不意打ちで目が合う。美しい目元に吸い寄せられた。そこから動こうとしない目を意志の力で動かす。ようやくなんとか視線を外すことに成功した。
「どういうことなの。」
混乱のあまり泣きそうな彼女のために僕が投げかけることのできた言葉は、恋愛経験のない中学生にふさわしい要領を得ないものだった。そのため彼女の理解を得るのには時間がかかった。
ようやく何が起きたかを見たままに説明することができて僕は安堵の息を吐いた。
「じゃあ、なに。私って乗っ取られてたの。」
僕のたどたどしい説明には彼女を落ち着かせる効果はあったらしくて、彼女の声に力が戻った。
「おそらく⋯⋯ 。」
いつもの彼女は優等生らしくしっかりしてて先ほどの言動とはかけ離れている。さすがにあの状態が演技とは思えない。けど、本当にそんなことってあるのだろうか。
「煮え切らないわね。」
「僕だっていきなりあんなことを君に言われたらどうすればいいかわからなくなるよ。」
「何だっけ。この時代を案内してほしいだったっけ。」
「そんな感じだった。」
「なるほどね。じゃあわかりやすくするために私の体に取り付いたそいつのことを怨霊Xと呼称しましょう。」
「怨霊という決めつけは良くないと思うんだけど。そんなに悪いやつじゃなさそうだったよ。」
「でも現に私の体は乗っ取られてたの。」
「⋯⋯ それもそうだけど。」
「とにかく怨霊Xをどうにかするすべを私は探すわ。そして、あなたはそれを手伝うこと。何でって言い訳はなしね。もうあなたは当事者よ。」
⋯⋯ 随分と強引な論理だ。でも、そうだな。授業中ぼうっと彼女の横顔を見ているだけよりはずっといいのかもしれない。
「あと、怨霊Xが私を乗っ取ったら相手してあげてね。あなたを気に入ってるみたいだから。」
どこか面白くなさそうに彼女は顔をしかめた。
「くれぐれも私が怨霊調伏のことについて調べてるって悟らせないようにね。」
顔をずいっと近づけて、彼女は念を押した。
「善処します。」
その圧力というか顔の造形の妙というか、そんなものに圧倒されて僕は反射的に顔を遠ざけた。
その動作に不満そうに頬を膨らませた彼女は、でもそれ以上の行為を諦めたようで、カバンを掴んで帰って行った。
後ろ姿を赤い夕日が照らし出す。伸びる影はどこからどう見てもいつもと同じだ。
ーーーーーーーーーーーー
こうして僕のおかしな日々は始まった。時代がかった言葉を操る少女の人格は放課後や休日にしょっちゅう現れては僕に街を案内させた。初めは車やらビルやらにいちいち大げさな反応をする様子にこっちが戸惑ったけれど、じきに慣れたらしくて遊園地とか水族館とかデパートとか、いろんなところに行った。
⋯⋯ これっていわゆるデートなんじゃないだろうかと思うととんでもなく恥ずかしい。だから僕はなるべく考えないようにした。無心で一緒に楽しんだ。そう、いつもの彼女とは全然別の振る舞いをしてる彼女は新鮮で、眩しかった。
彼女はからかうようにいたずらっぽく僕を振り回す。いろんなものに興味津々で無邪気に笑って、でも深いところで全てを了解しているような、そんな不思議な彼女に僕は惹かれていたのだと思う。
「そういえば、君の名前ってなんて言うの? 」
蛍って答えが帰ってくることを半ば承知で、それでも知りたくて僕はそう尋ねた。
「わしか。わしは前田星⋯⋯ いや、蛍じゃ。」
何気なしに口を滑らせた彼女は、それでも何もなかったと主張したげに胸を張って僕を見つめた。
「星か⋯⋯ 。」
彼女らしい名前だと思った。キラキラと夜空で輝く星に比するくらい彼女の瞳は眩しさに溢れている。
「綺麗じゃのう。」
自分の名前のことではないと言外に主張して、彼女は暗くなった空をふり仰ぐ。
「そうだね。」
触れて欲しくないというのを察するのが正解なのかそれとも踏み込みべきかわからなくて僕も空を見上げた。
オリオン座が明るくその姿を見せている。彼女と出会ってもう三ヶ月くらいたったのかと驚いた。あっという間だったと言う感想しか出てこない。楽しい日々だった。⋯⋯ 願わくばこのままずっとこういう関係でいれますようにって見上げる星に願った。
ーーーーーーーーーーーーー
楽しそうな雰囲気がその横顔から感じられる。蛍はじっと本を読んでいた。ページをゆっくりめくっては、その中身に一喜一憂するその姿は、滅多に見られないもので、良いなと思ってしまう。
僕の足音を聞いて、顔を輝かせた蛍が顔を上げた。
「こっち! 」
笑顔で手を降ってくる。非常に可愛い。でも、うん。
彼女の機嫌はここが最高潮だ。ほら、何かを思い出したように怒ったような顔になってしまった。
「それで、昨日はあいつとどこに行ってたの。」
深く知り合うと蛍がクールだという印象は間違いだとわかった。彼女は結構感情が表に出やすい性分だ。僕以外に対してはそんなこともないんだけどな。光栄と思うべきなのだろうか。
「映画館に。」
嘘をつくこともできず僕は正直に答えた。
「ふーん。仲いいのね。」
「そうしろって言ったのは蛍じゃん。」
「やりすぎだって言ってるのよ。なんで毎週毎週貴重な休みの日を潰されなくちゃいけないの。」
⋯⋯ それは僕のセリフなんだけど。なにせ土曜日はだいたい星と遊びに行くことになるし、日曜日には蛍の調べ物に付き合って図書館をはしごすることになるし。僕の休日はどこに消えたんだろう。おかしいな。
「ところで、なんかヒントみたいなものは見つかった? 」
話題を変えたくてここに来た目的について聞いてみる。随分探したからさすがにそろそろ手がかりくらい見つかってもいい頃だと思うのだけど。
「全然ダメ。意識を乗っ取る悪霊の話なんて閉架の古文書にも載ってなかったわ。」
そう言って蛍は大きくため息をついた。
慰めを言うべきか逡巡して、余計なお節介と思われようとやる方がいいと判断した。
「そろそろ見つかるって。気にしないで探して行こう。」
僕の言葉に蛍は驚いたようなそぶりを見せたあと顔を背けた。
「慧。付き合ってくれてありがと。」
自分の顔を見せないようにして蛍の言った言葉は思っていた以上に優しく聞こえた。
「でっでも、これからも一緒に調べるんだから。これで終わりってわけじゃないから。勘違いしないでよ。」
「もちろん。」
「⋯⋯ 嬉しそうにしないでよ。全く。」
蛍はそう言って唇を尖らせた。
ーーーーーーーーーーーー
今日の星はなんだか様子が変だった。そわそわと落ち着きがなくてこちらを伺っているようでこっちもなんだか緊張してしまった。
地に足がついていないような感覚の時間が続いて、ようやく彼女の家への道に出た。いつも星を送って帰っているからいい加減覚えてしまった。蛍ともいつか一緒に帰れたらいいなって、そんな幻想を抱いて歩く。
ゆっくりと僕の手に星の手が重ねられた。
「これはでえとというものなのじゃろう? ならこれくらいやってしかるべきじゃ。うん。違いない。」
彼女がよくやる無意識の上目遣いで僕を見上げる。そんな彼女はやっぱりどうしても悪霊なんてものには見えない。彼女の存在がここにあるって確かめたくて、僕はぎゅっとその手を握り返した。
彼女の家の前に着く。いつものようにそれじゃあまたねと挨拶した。そのまま帰ろうとする僕の服の裾を星はそっとつまんだ。
「あの、慧さえよかったら、うちに寄らない? 」
耳まで赤色に染めて彼女は言った。星でもあり蛍でもあるようなそんな少女の言葉だった。
遅くなったらまずいとわかっていたけど、それでも僕に頷く以外の選択肢は存在していなかった。
蛍の家はかなり大きな日本家屋で、昔ながらの家と言うにふさわしい作りだった。でも、中は現代風に改装されていて、普通の家だとしか思えなかった。
「ただいま。」
「お帰りなさい。あら、この子は? 」
「友達じゃ。」
「お邪魔します。」
綺麗なお母さんだ。さすがは蛍を産んだ人だな。
「お名前は? 」
「新川慧です。」
何か気の利いた言葉を言えるわけでもなくてただ聞かれたことをそのまま返す。まだ自分が成熟できていない証のようで恥ずかしかった。
「なるほどね。」
彼女の母親は大きく頷いた。なぜだか相槌以上の意味が込められている気がした。
僕はリビングじゃなくて彼女の部屋に通された。
「ちょっぴり罪悪感もあるのじゃが。」
星はそんなことを言ってベッドに座る。
僕は所在無く見回すしかなかった。暖色系が多くて片付けられた部屋はやっぱり特別な感じがして落ち着かない。女の子の部屋だからだろうか。それとも彼女の部屋だからだろうか。
僕が迷っているのを察したのだろう。星は自分の隣をポンポン叩いた。そこに座れって? 結構ハードル高いんだけど。いつも蛍が眠ってるとこでしょそこ。
でも床に座るのはさすがにあれなので観念してベッドに座った。
「いきなり誘って悪かったの。」
「驚いたよ。何かわけでもあるの?」
「あるといえばあるしないといえばないんじゃが⋯⋯ 。そろそろ年が終わるじゃろ。それで⋯⋯ 」
星はそこで言葉に詰まった。確かに伝えたい何かがあるけど言えないみたいな、そんな苦しさが僕にも感じ取れた。
「いや、なんでもないわい。」
長髪黒髪少女の蛍の姿を借りて老成した口調で、物憂げに星はため息をついた。いつもよりも顔の位置が近くてどきりとしてしまった。
たわいもないことを話して僕は帰宅の途についた。結局なんで家に呼ばれたのかはよくわからなかったけれど、それでもいいかなって思った。
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
きっかけはなんだったっけ。私は記憶を辿った。
そう。あれは確か一年の時、たまたま通りかかった公園で、小さな男の子が泣いていた。気になったけれど、関わるのも面倒で、私はそれを無視して通り抜けようとした。
そんな私が立ち止まったのは子供の泣き声が聞こえなくなったからだ。やっぱり気になって、公園のフェンスを通して透かして見た。
そこにいたのは一度も話したことのない、クラスメイトの男の子だった。正直、見直した。困っている子に声をかけることのできる人はそんなにいないと思うから。
短い出来事だったけど、多分私が慧のことを意識し始めたのはあれが最初だ。
それから私は慧のことをこっそり観察していた。立ち居振る舞いはあくまで凡庸で、かっこいいとは思わない。だけど、見ているうちに何かを了解した気になった。
彼は多分世話をすることが好きなんだ。少なくともいやとは思っていないだろう。そうじゃなくちゃあんな自然に他人の手助けをすることなんてないはず。
そう。私は慧のことがずっと気になっていた。でも自分から関わり合おうとするような勇気はなかった。結局私のしていたことは最初と同じ、見ていることだけだった。
ーーーーーー
「蛍、ご先祖様はあなたの気になる人との仲を近づけてくれるの。」
「別に私、慧のこと気にしてなんて。」
「この状況を変えたいならあなたが慧くんをこの家まで連れて来なさい。」
「そんなこと言われても。」
「勇気を出さないとなにも変わらないわよ。」
わかってる。そんなことはわかってるから。どうかあと一歩の後押しを私に。ご先祖様。
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
最近、蛍の様子がおかしい。図書館で調べ物をしに行こうと言わなくなったし、なぜか知らないけど、僕のことを遠巻きに観察しているし。おまけに声をかけようとすると真っ赤になって逃げていくし。
原因が全くわからなくて僕は首をひねって星に相談してみた。彼女が蛍のことをどう思っているのか知りたかったっていうのもあるけれど。
「そうじゃの。その時が来たら、黙って蛍の言うとおりにするんじゃ。」
星はそれだけしか言わなかった。でも、なんだかとても寂しそうで、いつもの元気溌剌な彼女を知っている身からすると信じられなかった。
「蛍はの、わかりにくいかも知れぬがとってもいい子じゃ。ただ、素直になれないだけじゃ。」
おばあちゃんの言葉のようにポカポカした優しい語りだった。それだけで星が蛍のことを大切に思っているってわかってしまった。
「蛍のこと、よろしくの。」
でも最後に悲しそうな顔をして星は言葉を終えた。その表情の意味を問いただす前に彼女の気配は消失し、蛍の体がふらりとした。なんだか彼女の時間が短くなってるような気がする。前は家に送るところまでは星でいられたのに。
ううんと唸った彼女は目を開けて、まるで一番最初の再現のように瞳の近さに心が跳ねる。
「今日は、ありがとう。」
星と過ごしていた今日一日の同行に蛍はお礼を言った。今まで星が僕とどこかにいくたびに不満そうな顔をしていた彼女にあるまじき言動に僕は驚いてしまう。
「どうしたの。蛍がそんなこと言うなんて。」
「⋯⋯ 覚悟を、決めたからよ。慧。これからうちにきて。」
耳まで真っ赤になりながらそれでもまっすぐに僕を見て、蛍はとても美しかった。
そんな蛍に逆らう気はもちろんおきなかった。
星に連れられて何度も通った道のりを蛍と一緒に初めて歩く。蛍も星も歩幅は同じで、いつもと同じ調子で歩くことができた。
「お母さん、連れて来たわ。どうすればいいか教えてちょうだい。」
蛍は僕に挨拶する隙も与えてくれなかった。
「慧くん、いらっしゃい。そうね、奥の部屋に行きましょう。」
蛍のお母さんはそう言って先導してくれた。
この前来た時は蛍の部屋に言っただけだから気づかなかったけれど、ある区画を抜けたら昔風の障子が並んでいて歴史を感じさせた。
突き当たりの戸の中の畳が八畳ほど張られた部屋に通された。見回すといわくありげな品物がたっぷりと置いてあって恐ろしい。
自然と僕と蛍は寄り添うような形になった。
「そんなに怖がらなくてもいいのに。」
蛍のお母さんはそんなことを言ってカラカラと笑った。
「それで、慧を連れて来たけど。あいつの正体と封印方法、教えてくれるんでしょうね。」
僕のそばに立った蛍はなんだか喧嘩腰だ。⋯⋯ って言うか蛍のお母さん知ってるの? もっとこう偉いお祓いの先生とかじゃないの? いや、それはそれで高額のお祓い金を取られそうで怖いけど。
「もちろんよ。そして蛍、ご先祖様にあいつなんて言葉を使っちゃだめ。」
「ご先祖様?! 」
驚いたのは僕だけのようで、蛍は平然としている。先に何か聞かされたのかも知れない。
「そう、ご先祖様。我が家は代々そう言う家系なのよ。」
すると何か。星が最初あんなに現代のものに興味津々だったのは昔の人だったからなのか。⋯⋯ いやもっと他にツッコミどころがある気がする。
「すみません、もう少し具体的に教えてくれませんか。」
そうして蛍のお母さんが話してくれたことによると、蛍の家系では10代のある時期にご先祖様が憑依して勝手に出歩く時期があるそうだ。
ある目的のためにご先祖様はその体をフル活用するらしい。どんな目的なのかは聞いても教えてくれなかった。⋯⋯ この時代の見聞を深めるとかかなあ。よくわからない。でも、その状態のまま歳を越すとご先祖様が悪霊に変わって好き放題悪さをするらしい。⋯⋯ そういえば星がもうそろそろ今年も終わりじゃのうって言ってた。ひょっとしてこれのことか。
「だから、その前にこの家に伝わる方法でご先祖様に帰っていただく必要があるの。あの人たちは、優しい人だから悪い霊になんてさせないわ。」
そう言った蛍のお母さんが悲しそうな表情だったのは昔を思い出しているからかも知れない。彼女にも星のようなご先祖様が取り憑いたことがあるのだろう。そしてそれは、得難い経験だったのだろうと、そう思えた。
「そんな御託はいいから、早くどうやったら封じられるか教えてよ。」
そう急かす蛍にそんな感情は芽生えるのだろうか。望みは薄そうだ。
「そうね。明日は日曜だったわね。地図を渡すからこの山の上の石に登りなさい。」
歳を経た細長い四角の木箱の中から蛍のお母さんは古色蒼然とした地図を取り出した。⋯⋯ これ、そろそろ新しいものに更新した方がいい気がする。次代に残ってるかは五分五分だ。
「そんなに遠くはないわ。この近くの山だもの。」
確かによく見たら、夏祭りで行く神社の名前が地図の中に書いてあった。
やり方はあなたに渡しとくからって蛍のお母さんはなぜか僕に手紙をくれた。
「蛍に渡したら色々とまずい気がするから。」
「私の信用が慧くんよりないってどう言うこと。」
蛍は文句たらたらだったけれど、さすがに経験の違いからお母さんに丸め込まれた。
「着くまで見ないようにね。」
そう念押しされて渡されたのは封筒だった。⋯⋯ 本格的に書類か何かが入ってそうな。
明日の計画を立てて、僕は蛍の家を辞した。宵闇に紛れた平たい家を振り返って見る。さっき聞いたような不思議な現象が起こってもおかしくないような印象がした。星と蛍。二人の女の子のことが頭を離れなかった。
自分の部屋に戻った僕は透かし見ようとしてやめようと首を振った。でもやっぱり気になって、明日の朝、約束の時間に間に合うどころか余裕があったらのぞいて見ようと決めた。
ーーーーーーーーーーーー
フラグか何かでも立てていたかのように僕は見事に早起きをした。こうなると俄然、気になってくるのが封筒の中身だ。⋯⋯ 時間は、ある。気にならないわけがない。
僕は、封筒を目の前に持って、息をはいた。封はしてあるけれど、破れないほどじゃない。慎重に開ければ問題ないはず。
結構苦労したけれど、早起きしたぶん時間はたっぷり余っていた。ついに中身を取り出す。データ管理でもされていそうなまさしく書類だ。なぜか男これを甲と称し、女これを乙と称すから始まって以下甲乙に詳しく指示がなされていた。ほとんどは何にも意味もないような動作で、本当にこれでいいのか不安になった。だけど、それは最後の一文を見たら吹き飛んだ。
「甲は乙に接吻をすること。」
シンプルに何気なく書かれたその言葉で、指示は終わっていた。いやあの。接吻ってあれですよね。有り体に言ってキスのことですよね。僕が、蛍に、キスを迫るの? ⋯⋯ 何も見なかったことにしよう。蛍のお母さんが決して開けないようにと言ってたのはこういうことだったのか。開けた僕が悪かったです。
悶々としながらも、約束の時間は来て、僕と蛍は神社の境内で顔を合わせた。⋯⋯ 忘れることにしたはずの封筒の中身のことがちらついて顔もまともに見れない。そんな僕に不審そうな目を送った蛍だったが、彼女にも突っ込む余裕はなかったようで、地図を取り出して確認すると挨拶もそこそこに神社の後ろの森へ入っていった。
神社の後ろの森はこんもりと生い茂っていて光が地面に届かない。冬だから下草はあんまり生えてなくて歩きやすいけれど、どう考えてもこんなところに道はないと思う。本当にここを登っていいのかって心細い。
時折不安そうに地図を眺めて、蛍は道を進んでいく。僕も手伝おうかなと少しだけ考えたけれど、僕は方向音痴だと自覚しているから、彼女の選ぶ方向に従ったほうがいいだろう。
水のチョロチョロ流れる溝のようなところを登る。足を滑らせそうでヒヤリとする。いつも靴がおしゃれな蛍は大丈夫かなって確認して見たけど、お母さんの準備に手抜かりはなかったようで動きやすそうな靴だ。服も長袖に長ズボンで、しっかりしている。それでも色の選び方が絶妙で、やっぱり蛍は可愛いなと考えてしまう。そして誘爆するように封筒の中身のことに思考が連鎖し、僕は慌てて首を降った。
随分長いこと歩いている。一旦は小高い場所に登って街を見下ろすことができたんだけど、そこから下るとさらに深い森の中。獣道のように細い大昔の道が何本もあって、迷ってしまいそうだ。⋯⋯ そして、多分、現に迷っている。なんだか地図を握る蛍の顔が泣きそうに見える。
「蛍、ちょっと休憩しよう。」
僕は彼女にそう提案した。
文句を言いたそうに唇を尖らせる蛍だったけれど、僕が重ねて言うと折れてくれた。
「お弁当持って来たんだけど。」
「へ? 」
「もしもの時のためにね。」
そう。あの文を読んでからどうも落ち着かなくて僕はおにぎりを握っていたのだ。偶然ご飯を作りすぎたと嘆くお母さんの声が耳に入ったから、何もしないよりはいいやと言うことでお昼ご飯になるくらいは持って来ていた。
「あむ。」
おにぎりを頬張って咀嚼する蛍の姿は新鮮だ。星と食事にいくことは多かったけど、蛍とは調べ物をするだけだったから。
「美味しい。」
蛍は驚きで目を見張る。うん。やっぱり蛍も星と同じくらい表情豊かだ。
「なら良かった。」
⋯⋯ おにぎりは誰が握ってもある程度の味になると思うがそれはそれ。下手と思われるよりは上手と思われていたい。
お腹がふくれたところで改めて出発ということになった。蛍は先ほどまでの不安そうな顔が嘘のように、自信満々で案内する。僕のおにぎりが彼女の助けになったのだとしたら、嬉しい。
緩やかに下る道が終わりを告げたあたりにそれはあった。巨岩だ。苔むした大きな岩が、盆地の底に蓋をするように鎮座していた。見ているだけで圧迫感を感じる恐ろしげな岩だった。
「これね。これが目的地。この岩の上に登って儀式を始めるの。」
どこから登るのだろうと思ったけれど、岩に刻み付けられた段のようなものが存在していて、思っていたより簡単にその頂に立てた。
日が少し傾きかけている。周りは木々がぐるりと取り囲み、徐々に高くなってこの岩から外を眺めるのを阻害しているかのようだった。
「あまり遅くならないうちに帰らないと。」
蛍の言葉に僕も頷いた。夜にあの道を帰るとか冗談じゃない。
「じゃあ、僕が指示を出すよ。」
「わかったわ。」
何も抵抗なく頷かれると、最後のあれの時にどういう風にしていいかわからないんだけど。こう、自然な流れでいける。いけるよね。いけるはずだ。信じてる。
儀式は万事滞りなく進んだ。ただ、接吻の時が近づいているのを知っている僕は気が気じゃなかった。
「じゃあ、これが最後。甲は乙に接吻すること。」
「ん? 接吻って何? 」
蛍にも知らないことってあるんだ。⋯⋯ このまま黙ってやった方が僕としては恥ずかしくない。でも、キスっていうものは、特別なものだ。女の子にとっては特に。なら、言うべきだ。納得ずくでやるべきだ。少なくとも僕はそう思う。
「キスのこと。」
瞬間、蛍の体が警戒態勢に入った。僕が近づいたらすぐに逃げられるような姿勢だ。うん。まあ、そうなるよね。
「複雑なのはわかる。でも、これをやらないと、星を封印することはできないんだよ。」
「わかってるわよ!!! 」
蛍の顔は赤い。多分僕の顔もそうだろう。中学生にはこのイベントは恥ずかしすぎる。
「その⋯⋯ 、慧はどうなの? 私とキスしても平気なの? 私、あなたにひどいことをし続けてたのに。」
確かに彼女は僕を理不尽に連れ出して、調べ物をさせた。いくら憧れていた子と一緒でも面白くない気持ちはあった。でも、振り返ってみるとどうだろう。あの蛍と過ごした調べ続ける日々もそれほど悪くはなかったような気がしてる。
「僕は、楽しかったよ。」
蛍は僕の言葉に撃たれたように身を震わせた。
「本当に? 」
恐る恐る聞いてくる。
「本当の本当。」
僕は大きく頷いた。
「そう。」
彼女はそう言うと沈黙した。長い間が空く。その間にいかなる心の働きがあったのか、僕にはわからない。
でも、顔を上げて僕をまっすぐに見つめる彼女の瞳には確かな覚悟が宿っていた。
「慧。私にキスをして。」
「わかった。」
野暮なことは聞かない。彼女の意思を大事にしなくちゃいけないだろう。
でも、僕もキスをしたことのない男子中学生な訳で。彼女に近づく一歩一歩が僕の行動する力を縛っていくような心持ちになった。
なけなしの勇気を振り絞って、僕は、彼女に顔を近づける。今までで一番近い距離だ。自分の心臓の音がうるさい。
「ん 」
僕は軽く彼女の唇に自分の唇を押し当てる。蛍は薄眼を開けて、それに応える。初めてのキスの味は、とても甘やかだった。
彼女の体が崩れ落ちた。デジャブを感じてすぐに抱きかかえる。
すぐに意識を取り戻して目を開けた彼女は、もはや別人だった。
「やっと、ここまでたどり着いたんじゃのう。偉かった。」
僕の頭を撫でる彼女は優しさに溢れていて、これがなんのための儀式だったのか、僕はもう、意識していなかった。目を背けていたのかもしれない。
「わしは蛍のために黄泉の国から戻ってきた亡霊じゃが、それを抜きにしてお主と過ごした時間は本当に幸せじゃった。」
僕だって同じだ。彼女の、星の天真爛漫な振る舞いに、その年齢不相応で相応の思慮深さに、振り回されっぱなしだったけれど、幸せだった。彼女と遊んだ思い出は全て輝く星のようで、鮮明に思い出せる。
「本当に、いなくなっちゃうの。」
頑是ない子供のように不安を隠せない、震える声で僕は言う。
「残念ながらその通りじゃ。」
「いやだよ。」
「わしじゃって同じじゃ。でもの、わしは一過性の風邪のようなものじゃ。過ぎれば何も残さぬし、残してはいかん。」
「それでも僕は星には現世にいてほしい。」
そう、僕は考えないようにしていた。星を封印すると言うことがどういうことなのか。わかっていたはずなのに、考えたくなかった。だって、僕は、星も蛍も両方大好きだったから。
「蛍のためにどうすればいいか、ずっと考えておった。」
ポツリと星は呟いた。
「あやつは素直じゃないが、いい女じゃ。先祖としての贔屓目もあるがの。これからも蛍のことをよろしく頼むぞ。」
「じゃあ、星はどうなるんだよ。そんな全部終わりみたいなこと言わないでよ。頼むよ。」
悲しかった。悔しかった。心が痛かった。とっくの昔に彼女は僕の大切なものだった。
星はそんな僕を見て全てを察したように微笑んで嬉しいのうと呟いた。そして、幼い幼子を諭すように僕を慰めた。
「そろそろ時間じゃ。」
星は上を見上げた。僕もつられて空を見る。もう暗くなり始めた夜に満天の星がきらめいていた。目線を戻すと星明かりに照らされて彼女の姿が幻想的に浮かび上がった。
「最後に一つだけ、わしの願いを聞いてはくれぬか。」
「なに? 」
「わしにも⋯⋯ キスをしてほしいのじゃ。」
星は恥じらいながらそう言った。
「ダメかのう? 」
不安そうな上目遣いで彼女は僕を見つめてくる。いやと言えるはずもなかった。
二人で一歩ずつ近づいて、僕と星はキスをした。不思議と高揚感はなくて、でも確かに特別なキスだった。
「じゃあ、の。」
唇を離して、僕に体を預けて、星はそう言った。
「うん。今までありがとう、星。」
幸せそうに笑顔を浮かべて、彼女の体は崩れ落ちた。無意識のうちに支える。
見渡した夜空に星がひときわ強く瞬いた。
「ねえ、泣いてるの? 」
意識を取り戻した蛍が不思議そうに聞いてきた。
「わからないよ、僕には。」
そう。僕にはこの流れる水が何なのかわからなかったし知りたくなかった。わかったら僕のこれまでの生活の意味が変わってしまう気がした。過去への哀惜の情に囚われて何もできなくなってしまいそうで。そんなのは星も望んじゃいない。
「なんでもないんだ。」
「私はね。あの子のこと、嫌いだったの。」
蛍だけの呟きのような声だった。
「だって、あなたをとられてしまう気がしたから。」
「本当は、私だって彼女と同じようにあなたと遊びたかった。」
星の明かりがハイライトのように彼女だけを闇から浮かび上がらせている気がした。
「でも、私には遊びに誘う勇気なんてなかった。」
色々な感情を乗せた蛍の言葉は一言ずつでゆっくりだった。
「あの子はもういない。」
僕は相槌を挟むことなく耳を傾ける。
「これからは私があの子のぶんまで遊んであげる。」
「だから泣かないの。あなたが泣くと、私も悲しいから。」
蛍は僕を真っ正面から見つめて、小さく息を吸った。
「好きよ、慧。」
その言葉は囁くようで、吐息に近かったけれど、はっきりと僕の耳に届いた。星明かりで照らされる肌には朱色がさしてすごく恥ずかしそうで、でも彼女は目をそらさなかった。
いつのまにか僕の涙は止まっていた。涙を涙だと認めたのに、僕の心は死ななかった。
「ありがとう、蛍。」
心からお礼を言った。喪失の痛みはまだ胸の中にある。だけど、彼女の勇気には答えたいと思ったから。
蛍は帰りましょうと僕の手をとった。
僕は静かに頷いた。
帰りの道はなぜか全然迷わなかった。まるで、星の明かりが帰るべき道を照らしてくれているようだった。