因果応報に振り回されないで妄想からの解放
因果応報とあるけど
何に対して因をつくったから
それに応じて報いがくるという考え方だ
仏教での用語になっているが
西洋でも原因結果の理論は科学とかで
一般的とはなっているもの
例えばモノやヒトを大切にしない場合
それに応じた報いが必ずやってくる
同じ形かどうかはわからないが
何かがやってくるということ
報いといっても報復というのを思い浮かべてしまうが
実際はいい報いももちろんある
よく報われないなとかぼやいたりするのも
その発想からきているのだろう
結構日々の生活では気にしてはいるものだ
ただ明確に形がどうなるかはわからないから
なんか何となく報いかなとか
思うだけかもしれない
日常的にはそうなんだけど
さらにいうと以下のことにも適用できるとも
推測できる
つまり善をしようと思っていても
その道に忠実でない中途半端な場合
報いが来なかったり
悪の場合も同じ
悪の道に忠実でないというのはおかしな話だが
便宜的に使うと忠実でなく中途半端なら
裁かれたりしないという
ちょっと不公平な感じもするんだが
どうやらそうなっているらしい
たぶんこれは根本的に重要な因となる部分があるために
起こる現象かなとは思う
つまり大きな善の前においては
それよりも小さな次元での善悪は
行き過ぎなければ評価といっていいのか
裁定されないという感じなのか
ある程度猶予というかそういうものがあるみたいなのだ
まあそれもあって悪行も横行し
善業は報われなかったりするのだろう
因果応報に惑わされずに妄想という病に
かからないためには
あまり厳密に考えてはいけないという態度は
必要なのだろう
報いがこないと妄想の原因になる
これは悪業においても同じ
報いがこないから大丈夫というのも妄想の始まり
このように妄想の引き金となるものは
前提が何かによってそれに対する結果を
すぐに求めてしまうところからもくる
ある意味善業は自己満足で報いが来なくても
いいのかもしれない
報いというのが変なら結果といってもいいが
そこから変な想像や懐疑を生むならそういう
結果は求めないでただ行いを続けるしかないのだろうか
まあ人はそんなにできたものでないから
それは難しいだろうけどね




