解釈という枠の中に我々は生きている
そもそもなんで妄想が問題になるのかというと
現実とそぐわない要素があって
それを絶対真実として行動することによっておこる
社会的な迷惑状態
迷惑にならなければそれは妄想とはならず
単なる奇妙な行動でしかないし
はたまたそれは個性と尊ばれることもあるだろう
妄想とは行動的なものだから厄介なんだろう
たとえばマスコミの一方的な価値観は
一種の妄想となるケースもあり
それは集団をある種の考えに誘導すらする
空恐ろしいものになることさえある
これらは気を付けないとおこることだし
またよくよく注意しておかないと知らない間に
そのワクの中に入っている井の中の蛙になり兼ねない
井の中の蛙を批判しながら実は自分もある種の妄想の
価値観の中の蛙になっているという
最悪な事態になっていたりしかねない
本質を見抜くというのは難しい作業であるのは確か
それは解釈は解釈としてその先にあるものを見つけ出すことではある
そして解釈の出発点さえ見ていこうとするものであって
提示された解釈の中に何かをみつけだそうとするなら
それは解釈の範囲でしかないので
本質をみることはできやしない
結構それを理解していないで私たちは行動していたり
またそういう情報に知らずに踊らされてしまっていたりもする
妄想から解放されるということは
解釈のただなかから抜け出すということを意味する
それもすべての解釈という解釈の何もかもだ
いや本当の意味では不可能なことかもしれない




