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キャンプ場から牧場に着く頃には、空を覆っていた薄い雲が晴れて青空が広がっていた。
秋のよく澄んだ高い空だ。
観光用の牧場と言っていただけあって、広めの駐車場とそこそこの施設がなだらかな稜線の丘の麓に見える。向こうには風力発電が三基、そのうち一基だけが静かに回っていた。
家族連れの姿が多いのは休日だからだろう。馬ばかりではなく、羊や山羊の姿もあった。
昼時も近いとあって、バーベキューの匂いもしてくる。路旗はせっかくだからとソフトクリームを三つ買って来た。家族連れが乗馬体験を楽しむ姿やはしゃぐ声を聞きながら、三人は徐ろにソフトクリームを味わう。朝と打って変わって気温が上がった日中に、火照った身体には心地よかった。
目の前には馬場があって、乗馬クラブらしいメンバーが障害物を真剣に練習していた。馬の揺れる鬣を眺めながら、琥珀はソフトクリームのコーンの最後のひと齧りを平らげた。少し隣にいる莉子のシャクシャクという音が自然と耳に入る。風向きによって、空腹を促す美味しそうなバーベキューの匂いだったり、馬の干し草の匂いだったりが香ってくる。
そんな中、柔らかなフローラルの香りが僅かに心地よく鼻孔をくすぐり、それが莉子の艶やかな髪から漂うものだということも自ずと想像できた。
(女の子とデートをすればこんな感じなのか)
などと思っているとは感づかせない素振りで、莉子の向こうに居る路旗を見やる。
「乗馬体験したければしてきていいですよ」
何気なくそんな事を琥珀は口走っていた。そうすると路旗は二人の顔を交互に眺めて「君たちは?」と聞いてくる。
「私はいいです、高いところが怖かったので」
莉子は首を竦めて俯いた。何度か課外授業で来た事があるのだから、乗馬は体験した事があるのだと言う。馬の背は思った以上に高かったらしい。
「俺は動物自体がちょっと苦手なのはわかっていますよね、路旗さん」
咎めるように琥珀はつっけんどんに言い放って再度馬場を見た。
サラブレッドの細く筋肉質な身体が柔軟に動き、その残像を残すように琥珀の視野を横切る。琥珀の記憶でない何かがその残像を「懐かしい」と認識していた。
「久々に乗馬もいいかもな、でも乗れるかなぁ、ちょっと見に行ってくるよ」
「路旗さん、乗馬したことあるんですか?」
恭しく莉子が路旗を見上げていた。
「うん、学生の頃、友人の家で馬を飼っていてね。サラブレッドには毎週のように乗ってたよ」
手をひらつかせた路旗は、いつになく楽しそうな足取りで馬場の方へ歩いて行った。その姿を琥珀と莉子は無言のまましばらく見つめていたが、莉子が窮屈そうに琥珀に話しかけた。
「なんか、意外で面白い」
クスリと小さく笑った雰囲気を横で感じて、琥珀は莉子の方を向いた。頑なに俯いたかと思えば、恥じらうように躊躇ったり、かと思えばこうやって自然な笑みを見せる彼女がそこに居る。一体どれが本当の莉子なのだろうと、琥珀は思考の狭間で考えた。
「路旗さんが馬に乗ってる姿って想像つかない」
独り言のように莉子はコロコロと笑みを浮かべた。
「そりゃ確かに。自転車に乗っているとこも見た事ないな」
「琥珀さんは路旗さんと長い付き合いなの?」
ふわりと風が吹き、莉子のシャンプーの匂いが舞った。その方向を見ると、莉子が真っ向に琥珀を見ている顔がある。
思えば、莉子の顔をこんなにハッキリと見るのは、琥珀は初めてだったように思えた。
やはり夫人によく似た大きな眼と、勇蔵譲りの混じる顔立ちだ。それは前にも思った事だったが、こんなにも華やかな表情をする少女だったのかと息を飲む程だった。
「あ、うん。まぁね」
曖昧な返事をして、少しつれなかったかと反省してみたが、当の莉子は、そのつれない返事に気を止めることもなく、あっさりとした反応のまま少し考えるような素振りをしている。
「あ、でも、馬に乗っている頃の路旗さんの事はわからないよ。路旗さんが学生の頃ったら俺はまだランドセルのガキだっただろうから」
我ながらうまく話を繋げる事ができたと、内心ガッツポーズをする琥珀の雰囲気を悟ってか、莉子はいままでになく朗らかに笑った。
「路旗さんって歳幾つなの?」
「三十歳かな、その辺りだったと思うよ」
定かではない。ただ、初めて琥珀が路旗と逢った日の事を思い出せば、自分と一回りは歳が違っていていいはずだと思った。
「そっかぁ。琥珀さんにとってはお兄さんみたいな感じなんだね」
いいなぁとため息のように莉子は呟いた。
「あんなふうなお兄さん居たらよかったなぁ」
莉子はすごく可愛げの篭った声色で呟いた。その女子特有の雰囲気を、色で表せばピンク色というのかもしれない。それ自体は至極可愛らしくて、聞いている周りまで幸せにしてくれそうな雰囲気だったのだが、莉子のその言葉が琥珀の胸をざわりと抉った。
「兄弟が居ればよかったって思う?」
「うん」
莉子が小首を傾げた仕草で小さく頷いた。
「クラスの子がね、お姉さんを名前に〔ちゃん〕付けで呼んでいるの。すごく仲が良くて羨ましいの。本当に仲が良くなければお姉さんをそんな風に呼べないよね。
私は学校でも〔五十嵐さん〕って呼ばれているし、近所にも〔五十嵐さんのお嬢さん〕って言われてるの。きっと兄弟がいたら名前に〔ちゃん〕付けで呼んでもらえるような気がしてたの」
うずうずと莉子は小さくなって「今考えればおかしな話だよね」と付け加えた。
「だけど、路旗さんや琥珀さんに〔ちゃん〕付けで名前を呼んでもらっていたら、なんか満足しちゃった」
おどけた仕草で莉子は肩を竦めた。
その姿があまりにも普通の女子らしく見えて、琥珀は少し戸惑った。五十嵐莉子という人物は、もっと謎めいた不思議な少女だとばかり思い込んでいたからだ。
「高校とか行ったら、名前で呼ぶ人なんてすぐ出てくると思うけどなぁ」
琥珀は上の空でそんな言葉を口走っていた。
「でも高校に行ったらきっとみんなは私を〔莉子さん〕って呼ぶわ」
「どうしてそんな風に思うのさ」
琥珀が眉を顰めて莉子を見た。
「友達がね、私の見た目が〔ちゃん〕では似合わないって。そんなかわいらしいイメージがないんだって」
少し拗ねたような、それでもそれも満更でもないような表情の莉子が琥珀の目に映った。
(女子の心境は、本当にわからない)
「あ、路旗さんだ」
馬場の方から出て来た眼鏡の男の姿を見て、莉子は楽しそうに路旗の方に駆け寄って行った。
「なんだ、乗馬できなかったのかな」
微笑して琥珀は莉子の後を追おうとした。ふと、足下に妙な物が落ちているのに気がついた。瞬時に莉子がポケットに入れていた携帯のストラップだと、琥珀の記憶が結合する。
何だかよく判らない布製の、風変わりな小さな人形のストラップだ。巷では願いが叶うというお守り的なストラップなのだったが、当面琥珀にその詳細などは判るはずもない。
ターコイズブルーとピンクの摩訶不思議な色合いの布を、チグハグに張り合わせて作られたそれを拾ってみる。頭と身体の配当が実に不現実で不気味だったが、それなりに愛嬌があった。小さなビーズを縫い付けられただけのつぶらな瞳が愛らしい。その愛らしさに気が緩んだ時だった。
琥珀の鼻を突き抜けて、脳裏に風が吹いたような衝撃があった。
琥珀はその衝撃に生唾を飲んだ。
そして、路旗と莉子の方に目線だけ泳がす。
「莉子ちゃん……」
莉子の儚い想いが、ストラップを通じて琥珀の中に入って来ていた。
(こんなつまらないものまで見えるようになっている)
苦々しく琥珀は顔を歪めた。自分の中で無意識に莉子の事を知ろうとする意識が働いていたのか、それとも能力が開花しだしているのを制御できないだけなのだろうか。そのどちらであっても、琥珀にとっては厄介な問題なのだ。
いずれにせよ少しの間、路旗には内緒にしておいたほうがいいのだと、琥珀は苦虫を噛む想いをした。