−3
翌朝、路旗のグレーのステーションワゴンは、祠のある杜を過ぎて馬湧へ向かう町道を走っていた。
すでに日課になっているコイン精米ボックス横の自販機で、何を買うか会話を交わしたのみ、車内は始終無言だった。
運転席の路旗と後部座席の琥珀の開けた缶コーヒーの匂いが車内に漂う。低めのラジオ番組が天気予報を告げていた。いつもと違うところは、メンバーが増えた事だ。
朝駆けて何かを飲む習慣のない莉子が、暖をとるように両手でココアの缶を握ったまま、無言で助手席に座っている。顔はつんと横を向いたまま、その瞳は流れる景色をじっと見ていた。
いつもは交通量のある町道も、日曜日の朝はどことなく静かだ。
学校と部活が休みの莉子に続いて、勇蔵もこの日の朝ばかりは五十嵐家の朝食に顔を揃えた。馬湧へ行ってみるという路旗の話に、夫人が莉子に同伴を進めたのだ。ぎょっとした表情の莉子だったが、母親の言う事に反抗はしないようで、素直に頷いたのには路旗も琥珀も心外だった。
杜を過ぎると道はなだらかな上り坂になる。稲刈りの終った田園風景ではなく、山の中を切り開いた町道が何度かカーブを繰り返し緩やかに上って行く。
馬湧地区は、杜のある場所からそう遠くはなかった。
五十嵐宅のある田園風景が広がる地域から比べると、さすがに山里という雰囲気はあるものの、馬湧キャンプ場という看板があったり、憩いの森という看板があったり、自然の豊かさを上手く観光に活かそうとしている気配が感じられた。
決して寂れたというイメージはない。
ただどうしても晩秋の山里はどこか侘しさを醸し出していた。
「紅葉シーズンだとよかったな」
路旗の言葉通り、山々は落葉広葉樹を中心とした木立が続いている。キャンプ場の駐車場が予想以上に大きいのはそれなりの需要がある証拠なのだろう。
管理棟は既に冬支度で閉め切られているのが遠くからでも見えた。整列した低木がすでに冬囲いに覆われている。
山に近い場所ゆえに冬への備えも麓よりは幾分早いらしい。
グレーのステーションワゴンは静かに駐車場に停まった。シャツの襟を立ち上げた上からマフラーを首にまいて、路旗はポケットからGPSを取り出した。
「馬湧から麓に通じる古い道は全部で三カ所。どのみち獣道で今は存在すらしないだろうけど、一番古い道が一つだけ残っているんだよ」
奇跡的だろうと、路旗はさも嬉しそうな顔をしている。
「それがそれ?」
フロントウィンドウの向こうに、じっとり湿った遊歩道があった。見ただけで秋の独特の饐えた草木の香りが幻臭まで誘う。ユズリハの大きな落ち葉が、道しるべのように点々と歩道に落ちていた。後部座席から覗き込むようにその遊歩道を見た琥珀が顔を顰める。車外はすごく寒そうだったからだ。
「寒そうですね」
思わず琥珀が唸るように言った。
「そうだね、外気温は5℃。寒い寒い。莉子ちゃんは車で待ってるかい」
車のエンジンを切る前に、路旗は助手席の沈黙する少女を見た。はっとした顔で莉子は路旗の顔を一瞬見上げ、すぐさま目を伏せる。
「寒いから無理にとは言わないけど、散歩がてらにどうかな」
今時の女子中学生だったら、暇つぶしの携帯は常備品なのだということくらい路旗も知っていたが、五十嵐宅から馬湧までの無言の時間、莉子は一度も携帯を取り出していない事をチェックしていた。幾ら尊敬する母親の提案だとしても、興味のない事につきあわされて退屈しないわけではない。彼女はその態度からして、決して捻くれているのではなく、酷く緊張しているのだと勘ぐったのだ。
「熊とか出ないんですかねぇ」
後部座席の琥珀は、前の二人に冷めた声を投げかけた。
莉子の目線が琥珀を捉え、次の瞬間には路旗の顔を一度見るなり俯いた。やはり長い髪が顔を覆って表情が読み取れない。
「この辺りは過去五年、野良熊の出没例がないよ」
「その割にはリュックに熊除けの鈴がついているんですね、うぉっ寒いっ」
ドアを開けた琥珀が秋の朝冷えに身震いする。ふぅと吐く息が白くなるのを確かめて肩をこわばらせた。
「常備品だよ一般的に」
琥珀には相づちを打った程度にして、路旗は助手席で硬くなっている莉子を見て返事を待った。
「一緒に行きます」
ダウンジャケットのジッパーを引き上げた莉子は、返事をするなり早々と車を降りた。それを見届けた路旗が車のエンジンを停めてドアに鍵をかける。
エンジン音が消えたキャンプ場は驚くほど静かだった。耳を澄ませば微かに鳥の声がどこからか聞こえてくる。白い雲が遥か上空に薄い布のように広がり、雨の降る気配もなければ、陽の差し込む兆しも全く感じない。
路旗を先頭にして三人は遊歩道を歩いた。間伐材のチップを敷き締めて舗装した歩道が、柔らかなクッション性を足に感じさせる。同時に踏みしめた落ち葉がカサカサと対照的な音を立てた。
「この遊歩道は全長二キロ。ぐるりと小山を回って管理棟の後ろ辺りに出るコースになっているけども、麓に通じる道はこのコース上から南に外れて下るようだな」
「まさか、麓までトレッキングするつもりですか」
熊除けの鈴の音を聞きながら、琥珀が驚いて路旗の背中に問いかけた。琥珀の横で莉子も小さく肩で反応する。
「トレッキングじゃなくて散歩と言っただろう。もっとこう朝の空気を味わってみたらどうだ」
「腐った草の匂いしかしませんけど」
「土に還ると表現した方がよほど爽やだと思わないかい」
「あの、……私どっちでもいいですよ、麓まで歩いても」
突然の声に二人が振り返ると、俯かせた顔のまま上目遣いの莉子が頬を紅潮させて立っていた。その頬の赤らみは、寒さのせいなのかそれとも少し歩いたせいなのか分からない。
「さすがに麓までは歩く予定はなかったから安心していいよ、莉子ちゃん」
莉子の投げかけを面白そうな顔で応えた路旗は、またゆっくり歩みを進めた。次に路旗が歩みを止めたのは、遊歩道のコースを三分の一程歩いた辺りだろうか。右手に葦の茂った小さな沼があり、その手前に新しい看板が立っていた。琥珀が首を傾げてその文字を読み上げる。
「古道、馬通いの路って書いているけど、これですか」
杉の木板に浮き彫りしたその文字は、黒くペンキ塗りされ堂々とその威厳を表現していた。その先にはかつては砂利が敷かれていただろう小道が、沼を迂回するような形で木立の奥に続いている。小道の両側は秋がくる前に手入れされた跡があり、刈られて放置された草が所々束になって枯れていた。所々にあるぬかるみに人の足跡が見える。早くて昨日か、近いうちに人が立ち入った形跡だ。山菜採りも終盤に控え、日頃の散歩道としてここを使う人もいるのだろう。
木立の向こうに何軒かの屋根が見えた。雑木林ひとつ超えて下ると民家があるらしい。三人の足取りは軽くなり、あっという間に屋根が見えた民家の麓まで辿り着いた。
目の前に広がるのは何の変哲もない普通の山里である。比較的新しい家が二軒、古道の出口に至った三人を迎えた。民家横の畑には食用菊の並びがあり、その辺りを小型犬の散歩をしている初老の男性がゆっくり歩いている。
「馬通いの路は距離にして二百メートルくらいでしたね」
最初に口を開いたのは琥珀だった。
「うむ」
顎に手を当てて路旗も呻いた。それから躊躇いもなく初老の男性に手を挙げて声を掛ける。
「すいません、少しお尋ねしてもいいですか」
返って来たのはけたたましい小型犬の威嚇だったが、それでも構わずに男性もこちらに歩み寄って来た。
「馬通いの路の事かい」
しごく当たり前のように男性ははにかんだ。
「巷じゃ古道やら奥の細道やらブームらしくてな、よくキャンプ場から来た観光客が馬通いの路を訪ねてくるからな。あんたさんら役場でパンフレットとか貰ったのか?」
いいえと頭を振って路旗は微笑んだ。
「観光課に何度言ったらいいんだか、馬通いの路はそこで終ってると地図に載せておけとな」
三人の出て来た小道に顎をやって男性は苦笑いした。
「昔は麓まで続いていたんですよね?」
怯まずに路旗は男性に問う。気がつけば小型犬の唸りはなくなって、その代わりに莉子がしゃがんで小型犬を撫でていた。
「相当の昔の話だろう」
愛犬がおとなしくなった事に、男性も幾分気持ちを落ち着かせたのだろう。小型犬をあやす少女を見下ろしながらやや口調が穏やかになった。
「あの家の奥に森が見えるだろう。昔は麓まで道が続いてたと、ばあさんが言ってたな。戦前までは麓に通じる路だったので使っていたと。なにぶん昔の話だ、今の町道が出来たのも昭和の中頃だしな。町道が出来てからは獣だって通らない。今は薮だよ、マムシだって出る」
そうですかと、路旗は続けて礼を述べた。
「お引き止めしてすいませんでした。古道は残念でしたが、せっかくなのでどこか観光できるような場所はないでしょうか」
「馬湧の観光ねぇ、今の時期はなんもないな。ああそうだ、乗馬体験くらいならできるぞ」
「乗馬ですか?」
「今はほとんどやってないが、ここの地名の〔馬が湧く〕という通りに大昔は馬を育てている家が多かったらしい。地名にあやかって今は観光用の牧場が一軒ある。乗馬体験ができるぞ、時間があったら行ってみたらいい」
「私知ってます」
莉子が見上げて声を上げた。
「小学校の課外授業で行った事あるもの」