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琥珀_石祠編_  作者: 蔦川 岬
6/23

−2

 

 その夜、琥珀こはくは夢を見た。

 傍らで路旗みちはたがパソコンを立ち上げて調べ物をしている。

 そのタイピングの音はさほど気にならなかったにせよ、夢を見たのは浅い眠りの中で漂うように意識が朦朧としていたせいかもしれない。

 夢を見るまでに、琥珀の思考は一日の出来事がゆっくりと断片式に回想されていた。

 莉子が思ったより俊敏で衝動的な少女であったこと。琥珀の中で勝手とはいえ膨らんだ清楚なイメージが、跡形もなく砕け散ったといっても過言ではなかった。そして彼女の行動や言言を含めて、余りにももどかしい不可解さが、琥珀の胸にぬめるような澱みを作っていた。

 おかしな事だ。冴えない青春時代を過ごした琥珀であっても、男女共学の学校を高校まで出た。クラスでは同じ年頃の女子とそれぞれ会話など幾らでもしていた。今更、年頃の女子相手にこんな戸惑いを覚えるものおかしなものだった。それも女子中学生を相手に、自分が感じている言いようのないむしゃくしゃした感情を、処理しきれず持て余しているのだ。

 その澱みから意識的に思考をずらすと、その向こうに青白い世界が広がっていった。考えたくない事から逃れる開放感がその青白い光にはあった。琥珀は意識を当然のようにその光に向けた。

 水の匂いがそこにあった。

 波間に揺らめく水底を覗き見るようなもどかしさがある。水面は神々しいばかりに光を屈折させ、時には白濁とした泡を沸き上がらせて暗い世界へ引きずり込んで行く。

 この感覚はつい先日感じた祠のものだと理解できた。琥珀は一瞬躊躇いをみせたが、その流れに意識を乗せていった。


 光に包まれながら、やがて深い暗闇へ__。


 一瞬の静寂が辺りを包む。鈍色の空間がゆっくり形になってきた。見えるのは透明な水の球体だ。

 葉の上に乗った珠雫が、その球体にくすんだ色を映していた。黴臭さに混じって湿った空気が漂い、無数の雫の音がする。

 弛んでいた景色は、次第に塗り絵のように鮮明になっていった。

 水滴の乗った葉に蛙が飛び乗り、水の球は弾けるように落下する。重々しい雲から幾多の雨が地上に降り注いでいる風景が見えた。雨で白く煙った雨季の山里だ。

 轟々と唸りをあげて巻き上げる水の音が、琥珀の耳に次第に大きくなって聞こえてくる。音の後に来たのはその荒々しいばかりの水流の塊だった。琥珀を飲み込んだのではない。どこか、別の場所のそれを見ているのだ。

 意識は揺らめくように上昇し、雨を降らす雲の間から琥珀はその濁流と化した川を、神のごとく見下ろしていた。

 洪水が獣のように橋にぶち当たり、激しくのたうち赤黒い流れに揉まれながら流れて行く様を見ていると、不安でいたたまらない感情が水のように沁みてきた。


 __あの橋が壊れたら。

 あの橋が壊れたら。あちらへ行けない。


 __あちらへ、馬湧うまうへ行けなくなる。

 馬湧村うまうむらへ。


「琥珀くん」

 揺さぶられて琥珀は我に返った。

「大丈夫か」

 じっとりと汗を掻いた感覚に琥珀は跳ね起きた。心臓が別の生物のように皮膚のすぐ下で鼓動を打っている。思わず胸元を押さえた琥珀は、それでも目の前の見慣れた顔を見て安堵した。眠っていたのはほんの僅かの時間だったようで、路旗はパソコンを開いたままだった。唸り声をあげた琥珀の異常に気づいて揺さぶったのだろう。

「夢を、見たんです」

 夢なのか。祠の記憶の断片なのか。答えをだせぬまま琥珀は自分の手の冷たさを覚えた。

「馬湧へ行けなくなると、そんなふうに感じたんです」

「馬湧へ行けなくなる?」

「馬湧という言葉だけは確かに」

 軽く呼吸を整え、冷えきった両手で顔を覆いそのまま髪を掻き上げる。顔にかかる前髪を全部手で押さえつけて、琥珀は大きくため息をついた。

「夢で見みるようになるなんて」

 琥珀はただただ絶句した。意識を集中していても見れなかったものが、眠りと共に見えてくるなど今まで経験した事がなかったのだ。

「ふーん、なるほど。いいじゃないか」

 はっきりと言い切ったのは路旗だった。

「え?」

「見えてきたんだろう?」

 それは確かに、と納得しそうになって思わず琥珀は上擦った。

「そうなってしまったら、俺はゆっくり寝てもいられないじゃないですか」

 そもそも夢で見れるようになっては、うかうか安眠など出来なくなるのが目に見える。ただでさえ毎日が眠い年頃なのに、寝不足大魔王にはなりたくもなかった。

「この件が解決すれば夢に見なくなるかもしれないしね」

「どこにそういう保証があるんですか」

「解決してみればわかるさ」

「俺の身にもなってくださいよ、路旗さん」

 青ざめた琥珀とは裏腹に、路旗はどこか嬉しそうにパソコンに向き直る。その他人事のような反応の路旗に、大きくため息をついて琥珀はもう一度天井を仰ぎ見た。

 そもそも夢を見るようになって困るのは、路旗でもない琥珀自身なのである。路旗にとっては痛くも痒くもないことなのだ。

 二度目のため息をついて、琥珀はゆっくり目を閉じた。

「琥珀くんの能力のためにも、今日はもう寝ようとしよう」

 シーリングライトのスイッチを切る音がすると、部屋の電気が消える。路旗の動く気配に、琥珀は薄ら目を開けてみた。シャットダウンの準備をしていたディスプレイの青びた光が消えると、朧げに見えた路旗の姿を闇に戻す。琥珀はその暗闇に安堵した。

 何も見えない暗闇が心にこれほど穏やかさを与えるとは、琥珀自身も考えた事がなかった。目を閉じればいつも見えるのは何かの記憶や残像。物の記憶でなくても、つい先ほどまで現実に目に映っていた何かの残像。いつしかそうなっていたのだと、気がつかされたのだ。

「明日馬湧へ行こう」

 琥珀の隣の布団から声がした。

「え?」

「夢でなくても何か見えるかもしれないぞ、そうだな、山里のいい風景が見れるかもしれない」

「……あの、もしかしてワクワクしてます?」

「うん、そうだねワクワクしているよ」


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