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琥珀_石祠編_  作者: 蔦川 岬
17/23

−2

 

 村の景色は彩りを深い緑から次第に秋色に変えていた。

「嫌!」

 琥珀こはくの意識は、甲高い声に突然衝撃を受けたかのように大きく連動した。

「どうしてなのですか」

 悲痛なまでに憤激の色を露にした少女の記憶が、琥珀の心を掻きむしった。

「父様! 私は白椿しろつばきと二度と離れたくありません、お分かりいただけないのですか。私達はお互いを必要とし合っているのです」

 少女の切なさは、怒りを孕んで琥珀の意識に振動する。

 何度も鳩尾を押し挙げられるような、息苦しい衝撃だ。

 馬は連れてきてはいけない、と嫁ぎ先から言い渡されたのだ。向こうは馬湧村に続く有数の馬の産地であって、他の産地の馬は受け入れてはならないという掟があるらしい。

 嫁入り道具を運ぶのに必要な馬は、嫁ぎ先が派遣するとも申し出があり、いずれにせよ白椿とは村と村の中間点のどこかで荷を積み替える方法がとられるだろうと父親は言った。

 つまり、そこがどこであろうが、白椿との別れは決まっているのだ。

 少女は憤って父親の言葉を否定した。

「白椿と離ればなれになるくらいなら、嫁になど行きたくありません!」

「あの馬が馬湧うまうの長男の生まれ変わりだとでも思っているのか、お前は」

 禍々しく父親は呟いた。

 その様が余りにも不気味な声色に響く。

 馬湧の長男の生まれ変わりである白椿を、心の底から慈しんでいる自分に対する侮辱に感じて、少女は唇をきつく噛んだ。

「……そうです、そうでなければ何だとおっしゃるの」

 自分達を引き離そうとする、黒い邪念に包まれた物の怪がそこに渦を巻いたように見えた。

 浅黒い瘴気が地面から這い上がり、親愛なる父親を魔物に変える。

 剥き出しの狂気が地面から滲み出るかの如く、ぬめりのある悪寒が少女を襲った。

「お前の幸せを願っているというのに」

 父親の声はもう既に、地響きに似た呻きに変わっていた。 

 その途端、恐怖心に掻き立てられた少女の神経を、陰陰と逆なでする冷たさを琥珀の意識は感じ取った。

「私の幸せは、白椿と共に以外ありません!」

 叫びは悲鳴を含んで秋の空に響いた。

「おのれ、お前というやつは!」

 止めに入った家人を押しのけて父親は土間を裸足で降りた。そのまま母屋を出て行くや、斧を手に握りしめ馬屋に向かったのを見て少女は目を剥いた。

「何をするのですか、父様!」

 転がるように母屋から後を追った少女の目に映る父親は、大きな角の生えた鬼の姿に映る。

 走りながら少女は叫んだ。


(何がどうしてこうなったの。私はただ、幸せになりたいだけなの。ただ、それだなの)


 言葉になったのかは判らなかった。

 僅かの間に、幾億の過去が脳裏を巡り、音のない世界が、静かにゆっくり目の前を過ぎる。

 少女の手が、父親の背中に届こうとした、その時。

 大きな音と共に、視野に色が広がり、そして音が耳に届いた。

 何かが落ちる音。

 父親の右手からずるりと斧の柄が滑り落ち、斧の切っ先が地面に当たった音だった。鋼色のはずの斧の色が黒く見えたそのすぐ向こうに、同じ色の漆黒の水たまりが見えた。それは次第にゆっくりと大きくなっていく−−血溜まり。

 日の射さない馬屋に入って行くと、その漆黒の染みは毒々しい程の赤い色をしていた。

 少女は生唾を何度飲み込んでも癒されない身体の渇きを覚えた。

 脳内に激しい警鐘が木霊している。

 ごーんごーんと、意識が身体から飛び出しそうほどの大きな衝撃だ。

 知ってはならないものが、そこにある。しかし、知らなければならないものが、そこにある。

 心臓が破られるような激しい鼓動と、どこからともなく吹き出る汗。少女は耳鳴りを伴う目眩にも似た視界を探るように、父親の後ろからそれを見た。

 [彼]は後ろ足を数回痙攣させた後、引きつらせた両足を静かに床に落とした。

 それっきり、大きな身体は盛り土のように静かに地面と同化している。

 声にならない声を張り上げて少女は吠えた。

「何故、二度も!」

 衝撃と驚愕の果てから色を失ったその瞳に瞬時に宿ったのは、陰惨な紅の炎だった。

 その年の異常なまでの寒暖差がもたらした艶やかな紅葉をその眼に移し、まるで鬼火の如く少女の瞳に紅の光を宿した。

「二度も」

 燃えるは狂気の炎。

 その赤は、山の木々を守る葉たちの、閑々たる冬を迎える命の覚悟の色彩。

 そして、足下に染まる愛する者の絶える事のない流血の色。 

 跪いた着物の裾から熱い血の色が染み上がってくるのが見えた。思えば少女には覚えのある熱だった。少年の手に触れた時の、あの衝動的なまでの激しい命の温もりだった。

 恐怖を見た身体の震えはとうに存在しなかった。ただひとつの愛しき者の為に差しのばした自分の腕に感じた温もりが誘う感情に、素直に少女は従った。

 倒れた巨体から流れる血は、空気に触れて金気臭さを一層引き立てた。側にいた者はその臭気に目を細めてたじろんだ。膝をついたまま、少女はその大きな体躯にすり寄った。

 恐ろしさも哀しみも。

 全て失われてしまった今、燃えるは狂気の炎。

「どうして抗わなかったのですか、白椿?」

 彼は自分を殺生しようとする存在を認識していたはずだ。たとえ、彼がかの少年の生まれ変わりでなくとも。動物はその生死には純粋なほど敏感なのだ。

 彼は馬だ。それもこの村一番の駿馬だ。その身の軽さを少女は誰よりも知っていた。家人も父親も蹴り倒し、逃げる事もできたはずなのに。

 あの瞳は全てを悟って、それをも受け入れようとした感情を宿していた。

 それを少女は見ていた。

 鬼人のように斧を振り上げる父親の、その後ろに見えた白椿。陽の射さない馬屋の中だろうと、白椿の表情は少女には見えた。

 妥協でも迂闊でもない、悟りの瞳だったと。

 今はもう硬く閉じたその瞼に手を置いて、やがて少女は自らの瞼を添うように閉じた。

 

 −−栗毛の額に白椿の花の馬になろう。


 あの日の少年の瞳を、今も少女は決して忘れてはいない。

 あの、瞳だった。

 争いを好まず常に平和的な思考を抱き、誰よりも村を愛し何より村人全ての幸せを願っていた少年。

 抗わなかったのは、この馬が少年であったから。栗毛の額に白椿の花の模様のあるこの馬は、争いを好まない賢明な、かの少年であった証なのだからと、少女は確信した。

(あの方らしい)

「それならば、わたしも抗いません」

 少女は血まみれになった自分の手を見つめた。

 此の手がずっと求め続けたのは、かの少年の手だった。白く細くはあるけれど、少女にとっては大きく雄々しいその手だった。愛する人の熱を焦れ求めた此の手に伝うのは、生きていた生命の流すおびただしい血液の確かな温もりだった。

 彼の体温は生命なき今もまだ、その毛皮の奥から脈々と少女に希望を与えていた。あの時触れた、少年の手の温もりそのものの熱を持っていた。

 叫びたい程に欲した熱。熱く滾る熱に、少女はどれだけ恋いこがれ、そして生き甲斐に思っていたのか。

 少女自身も今、自分のその心に気がついた。

(あの人がそうであるのなら、わたしも受け入れましょう)

 抗わぬ事を。彼が受け入れた現実を。

(だけども−−)

 少女はゆるりと立った。

 血潮を吸い上げた着物の重さが、身体の中心に鉛を埋めたように怠さを誘う。まるで自分の身体が刻まれたような血の量を、両手から滴らせて少女はゆっくり振り向いた。

 目の前には、尻餅をついたままの家人数人と、少女から滴る同じ血を吸った斧を地に降ろしている父親が居る。その背後には似つかわしくない程の赤い紅葉の山肌が見えた。

(だけども−−わたしはそれほど聡くない)

 燃えるは狂気の炎。

 里山の紅葉いろどりに勝ると劣らない程に燃えたぎり。

 それでもやがては散りゆく定め。

(聡くない故に、何の罪もない白椿を死に追いやってしまった−−)

 自分が何をしたのか、何をさせられたのか。過去と現在がぐるぐると少女の記憶をまさぐり廻って行った。

「父様はわたしを愛しておられましたか」

 馬小屋の中から入り口に居る人物は皆、光を背負った黒い影法師に見えた。

「……私はお前の幸せだけを願って、ここまでしてやったのだ」

 掠れた父親の声は低く小さかったが、妙に大きく耳に届いた。

「お前の苦しみは私の苦しみだ。悪く思わないでくれ、全てはお前のためなのだよ」

 いつか正気に戻ってくれたら。だが、時間は決して待ってはくれない。年頃を迎えた娘一人を抱えて、またいつかのような災厄が起こる前に。

 父親は急いでいた。馬湧の長男が死亡したと聞いた時に、身が引き裂かれる程に感じた後悔。もっと早く嫁に出していれば。

「ならば父様」

 ずるりと少女の身体が歩み寄る。着物に染み付いた血が少女の動きに纏わりつき、ぬるりと物体となって動いたような錯覚を覚えさせた。

「わたしと同じ苦しみを」

 少女は血溜りの中から血塗れた両手を、自分の重く湿った着物の裾に回し、思い切りそれを引き裂いた。引き裂かれた着物の間から幾つもの赤い飛沫が飛び、白い両足が露になる。こびり付いた血糊が禍々しい程鮮やかに浮かび上がった。

「何をする気だ」

 驚愕した父親の横をすり抜けて少女は表に駆け出した。

 ひぃと戦いた家人の声に、父親は娘の姿を眼で追った。

「同じ苦しみを、父様」

 歩みを一旦停めて、少女は肩越しに父親を僅かに振り返る。

 白昼の日差しに当てられたその顔を見て、父親は絶句した。

 青白いその顔には沁み込んだような深紅の血糊がついて、それの上を静かな涙が一粒流れ落ちた。全身という全身を血の赤に染めて、愛したはずの無垢な娘が鬼のような硬質の気を纏っている。

「さようなら父様」

 少女は駆け出した。例年にないほど赤く紅葉した山々に溶け込むように。

 まるで燃えるような彩りを迎えた里山が、少女の融合を歓迎しているかのように。

 血の如く炎の如く赤々と色づいた山々が、血を浴びた少女をその色に纏い包んで包容した。




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