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午前中のうちに、祠のある杜を切り上げた琥珀たちは、早々に五十嵐宅に戻った。
祠からは車で十五分もかからない距離だ。琥珀の体調は五十嵐宅に着いても回復していなかった。車酔いのような悪心に絶えながら車庫の二階へ上がろうとしたが、いったん階段の二段目に腰を下ろす。
「夫人に挨拶をしてくる、ちょっと待っていれるかい」
路旗は帰宅した報告を夫人にするために、介抱していた手を離した。
琥珀は青白い顔のまま無言で頷く。
スタスタと文字通りの足音をたてた路旗が、母屋に行く気配を聞きながら、琥珀は絶え間ない感情の波に溺れそうになっていた。
祠の持っていた少女の記憶。
琥珀が経験したことのない、嬉しさと哀しみと喜びの感情の渦。
少女の体験した感情の波が、ほんの数分といわぬ刹那の間に、琥珀の脳裏に様々と深い矢じりを突きつけていた。
(なんでこんな急に−−)
見えるようになったのだろうと、琥珀は別の思考で考えていた。
今まで見えていたような、朧げな映像や文字ではない。まるで映画の中にそのまま入っているかのような、それよりも、その少女自身であるかのような。それほどのリアリティだった。
莉子のストラップに触れてから、余計に敏感になっている。
(何故だろう)
ストラップから流れて来た莉子の女子特有の想いと、祠に刻まれた少女の記憶がリンクしたのは、おおよその同世代だからだろうか。
琥珀は閉じていた目をゆっくりあけてみた。目を閉じたままでは、今自分が置かれている場所が、祠の持っていた記憶の世界なのか、現実なのか判らなくなるからだ。
「琥珀さん?」
ふと、声がした。琥珀はその声の持ち主が誰であるのか悟ると同時に、目の前の黒い物体を見て驚愕した。
黒猫である。
「琥珀さん? どうしたの、具合でも悪い?」
喋っているのは猫ではない。その横に莉子が居た。
学校は午前中で終わりだったのだろうか、すでに家着姿の莉子は、黒猫をそのまま抱き上げてあやしながら琥珀に声をかけた。
「路旗さんが玄関に居たの、ママと話をしていたんだけど。琥珀さんはどうしたの? 具合、悪そうだけど」
黒猫を追っているうちに、車庫の二階へ続く階段にへたり込んでいる琥珀を見つけたのだという。
「その、黒猫−−」
莉子の質問にはそっちのけで、琥珀は莉子の抱いている黒猫を見つめている。
「あ、この子はうちの子。名前はクロっていうの」
そんな事はどうでもいいと、琥珀の微睡んでいた意識が一気に覚めた。
「その猫、フェイスブックの……」
区長達の会合が会った夜に、路旗に見せられた〔でまかせフェイスブック−−その時はそう思った−−〕の莉子のページのプロフィール画像の黒猫によく似ていたのだ。
あれは路旗のでまかせではなかったのか。
狐につままれたような気分のまま、琥珀は一度思考を停止した。
「やだ! それママから聞いたんでしょ?」
一方、莉子の方は驚いた様子で目を見開いた。
「ママったら、SNSやっているとかステータスみたいな感じで勘違いしてて、始めた頃にママに教えたんだけど、勝手にママが気に入った人に教えちゃうのよね。私はあんまり興味ないから、ほとんど書き込みもしていないし、個人情報もほとんど載せてないからいいようなものだけど」
爆竹のように話す莉子の言葉も上の空で、琥珀はぽっかり口をあけたままフリーズしていた。
琥珀が正気に返ったのは、母屋から氷嚢を持って戻って来た路旗に、脇を抱えられたときだった。
「すまないが、莉子ちゃん。上のドアを開けてくれるかい」
路旗が琥珀を抱えて階段を上ると、莉子はうやうやしく頷いて部屋のドアを開けて待っていた。
「琥珀さんは一体どうしたんですか?」
路旗には相変わらず敬語である。
「ちょっと、祠の持つ気に毒されてしまったみたいだね」
まるで医者が患者の家族に「ちょっと風邪を引いたみたいだね」という軽いニュアンスで路旗はゆっくりソファに琥珀を座らせた。
「それって、その祠の呪いとか怨霊とか悪霊とか、よくないものなんですか?」
興味と恐怖が入り交じった表情で、莉子は首を竦めるように目の前の二人を交互に見つめた。
「そんな怖いものじゃないよ」
路旗のその声が、琥珀の耳にも優しさを帯びて聞こえた。
怖いものじゃないよ。
そうであってほしいと一番に願うのは、琥珀だ。
「気になるかい? それならそこに座って」
路旗の勧めに、莉子は正直に頷いて向かい合った座椅子に腰を下ろした。抱いていた黒猫は、莉子の腕からすり抜けて思い思いのまま部屋を散策している。一番興味を示したのは路旗のバックだ。その匂いを興味深そうに嗅いでる。飼い猫を横目で見ていた莉子は、少し改まって路旗に目線を向け直した。
「祠の事はパパから少し聞いています。私が口を挟む事じゃないけど、そういうのにとても興味があります」
まるで面接でもしているかのようなかしこまった口調で、莉子は少し俯き加減に喋った。
「特別な感じがして」
そう付け足して、莉子はソファで氷嚢を額に乗せている琥珀に目をやった。
「特別だと思うかい」
路旗が面白そうな声色で莉子の前に腰を下ろした。
「はい、私にはそういうものが見えないので、琥珀さんは特別だと思います」
ハッキリと莉子はそう言い切って、それから路旗の目をじっと見た。
「サイコメトリーという言葉は、本やドラマとかで聞いた事があるだろう。簡単に言うと残留思念を読み取る事で、そこにある過去などを見ることができる能力なのだけど。ひっくるめてESP、超感覚的視覚とも言われる超心理学の用語なんだよ」
ここまで言い終えて、路旗はちらりとソファに横になっている琥珀に目をやった。琥珀は氷嚢を額に当てたまま、こちらの会話にはほとんど反応を示さない。
莉子に自分の能力をあまり深く知られたくないなら、今の段階で琥珀からのNGサインがあるのだが、どうやらその気配はなかった。
自分以外の人に、自身の深くを探られたくない。
琥珀は昔からそういう自閉的な感情を持ち合わせてるのを、路旗はよく知っている。
莉子に目線を戻し、路旗は少し椅子に深く腰を掛け直した。
「そういう意味では、琥珀くんは普通の人より少し特別なのかもしれないね」
「少し、ですか?」
戸惑いを微妙に含めたニュアンスで、莉子は静かに返す。
「路旗さんは琥珀さんみたいに見えたり聞こえたりするんですか?」
「いいや」
伏せ目がちに路旗は莉子の質問に答えた。
「そういう能力が自分にもあったら、少しは琥珀くんの苦労も判り得ただろうね」
「優しいんですね」
熱を帯びた莉子の視線に今一度向き合い、路旗はいつになく真剣な口調で否定した。
「いいや」
莉子は釈然としないながらも、黙って路旗を見つめていた。
「常識的な見解で説明するには、なかなか難しいものだと思うからね」
「琥珀さんは辛いと、思っていると思いますか?」
当の琥珀はソファに埋もれたまま微動だにしていない。
「本人じゃないからそうだとは言い切れないけど、辛いんじゃないかな。自分だったら、だいぶ辛くて仕方がないだろうね」
疲労感からやがて眠りに落ちた様子の琥珀を、莉子と路旗は眺めた。どこか顔色が悪く、汗で湿ったのか氷嚢で湿ったのか、前髪が額に張り付いている。
「なんか不思議です」
莉子は小さく呟いた。
「最初は特殊な力がある人ってすごく特別でかっこいいと思っていたんですけど。なんだかそんな事ばかりじゃないなって、思えてきました」
思い立ったように立ち上がって莉子は部屋の奥を見た。一段上がって畳の間になっている二人が寝床にしている場所だ。
「お布団、敷いておきますか」
「そうだね、お願いしていいかな?」
「はい」
路旗の笑みを浮かべた顔をみて、軽くお辞儀のように俯いて、莉子は畳の間に歩いて行った。
畳んで二つな並べられている布団の上には、各々に新しいシーツと毛布が几帳面に置かれている。午前中のうちに、莉子の母親である五十嵐夫人が用意して行ったのだろう。莉子はそれを順番に丁寧に横に置き、それからシーツを広げて手際よくふたつの布団を敷き終えた。
「おや、これは?」
路旗が自分の足下を見て声を上げた。莉子もその方を見る。
黒猫のクロが路旗の足元で何かにじゃれていたのだ。よく見るとそれはピンク色をした歪な小さい塊だった。路旗がそっと拾い上げてみると、クロが名残惜しそうにそれを見上げる。
よく見ると、ピンク色とターコイズ色の布をチグハグに縫い合わせて作ったような、不思議な人形だった。親指くらいの大きさのストラップだ。
「あ、それ、私の携帯のストラップです」
莉子がはっとしたようにお尻のポケットを手でまさぐった。
「最近落としてばっかりなんです。この間も、農場で落としてしまって琥珀さんに拾ってもらったんです」
路旗からそのストラップを受け取りながら、莉子は恥ずかしげに頬を赤らめた。
「面白い形のストラップだね、それは何かのまじない?」
「わかりますか?」
「詳しくはわからないけど、世界各地のネイティブな民族間でよく見られるまじないのヒトガタに似ているね」
にこりと路旗は微笑んだ。
「まじないが外れやすいということは、近々に心願成就かな」
「そうだといいんですけど」
俯いて莉子は肩をすくめた。
「これ、今、流行っているんですよ」
俯き顔を少し挙げた上目遣いで、莉子は真っ赤になって路旗に微笑み返した。




