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その年の梅雨は、長く暗く深かった。
妖雲が山裾に厚く低く纏い付き、魔物がほうほうと啼くような風が吹き渡っていた。風が止んだかと思うと、今度は叩き付けるような大雨が大地を洗い流さんばかりに降る。
容赦なく降り続ける大雨と、秋が来たかのような寒い大気が集落一帯を包んだ。ほとんど一時もやむ事のない雨が随分長い間続き、村人は誰もがその自然の驚異に震えた。
幸いにも集落から離れた場所に大きな川がある。村やその集落界隈に降り落ちた大雨はその大きな川を氾濫させんばかりに、赤黒く怒りに満ちた大蛇の如く地鳴りの音を響かせていた。
その長引く梅雨の陰の気を受けてか、少年の体調が悪くなっていた。
その知らせを受けて、少女は隣村の自宅で静かに神仏に祈りをする毎日を送っていた。
「馬湧村の長男の体調が随分よくないらしい、来月式をあげるというのに」
少女の父親はこの辺り一帯の豪農だ。長女、次女、三女とも女子に恵まれ、十八になる長女は婿養子を貰って同居している。長女は今年、待望の一人目の子供を出産していた。
赤ん坊の鳴き声に混じって、雨の音が一層高まった。長女の出産祝いに戻った次女があやすように子守唄を歌っている。
次女もまた、雨天の合間を見て一日ばかりの里帰りの予定だったのだが、二日ほどの激しい降雨に足止めを食らっていた。次女は隣村に輿入れして三年程になる。
「馬湧には川の氾濫で行けないのでしょう。雨さえあがってくれればいいのにね」
子守唄の途中で、次女が思い詰めたように妹に声をかけた。
少女は仏壇の前で必死に手を合わせていた。姉の声が聞こえたのかどうなのか定かではない。
「姉様」
ふと、思い立ったように少女は次女を見た。
「もし、このまま雨が上がらなかったらどうしよう」
合掌した手が小刻みに震えている。当たり前だと思っていた幸せが、この怒涛のような雨と一緒に洗いざらい流されてしまったら。
「__お前は幸運だよ、好いた人と夫婦になれるのだから」
次女は自分が嫁いだ時から、口癖のようにそう言って聞かせていた。
「上の姉様は婿を入れたから、嫁の苦労は半分ね。どんなに立派なお家に嫁いだとしても嫁は所詮は嫁なの。お前のように、せめて愛おしい人と夫婦になれたらどんな苦労も惜しくはないのにね」
何があったのかその深い内容は聞かずとも、少女は嫁ぐ事の大変さを感じていた。
__愛しい人と夫婦になれる。
そして、自分の身の上の有り難さを痛感するのだ。
「だから気を強く持ちなさい」
こくりと少女は頷いた。
「この雨は不吉な雨だな、病を運び災いをもたらす。こんなことなら春にでもお咲を嫁がせておけばよかった。そうしたら今頃、馬湧の跡継ぎをもうけていたかもしれない」
囲炉裏を囲んだ席で父親が忌々しげに項垂れる声を聞きながら、少女は心の底から沸き上がるような不気味な悪寒に耐えていた。
「五月の半ばにもなったのに囲炉裏に火を焼べるなんて、本当にどうしたものかしら。春先は夏のように暑かったのにねぇ」
母親も厚めの半天を肩にかけ、静かに囲炉裏を火箸でつついていた。
雨戸が閉め切られ、屋敷の中は暗く冷たい冷気が漂っている。滲んだような僅かな青白い光が土間の方から見え、まだ日は暮れていない事だけが判った。
雨の音は今朝に比べれば随分静かになったようだ。
「お前も、囲炉裏に当たりなさい。身体が冷えてしまってはよくないよ」
母親に言われるままに少女は頷き、仏壇の間から這いずるように出た。長い時間寒い室内で座っていた足腰が言う事をきかない。まるで自分の身体ではないような違和感を、歯を食いしばって払いのけながら、少女はゆっくり板間までたどり着いた。囲炉裏のある板間と仏壇のある部屋は、縁を跨いだ僅か数尺の距離だったが、家族が居るその囲炉裏までの間すら、少女には遥か遠い場所に思えたのだ。
板間に手をつくと、その冷たさに顔を歪める。ただでさえ寒い部屋の中で一心に願っていたのだ。手足も冷えきって冷たくなっていたのに、その板間の木面の冷たさには背筋が凍る程の恐怖を覚えた。
__この冷たさに、全て吸われてしまうような。
少女はきつく唇を結んで囲炉裏の側に正座した。
パチリと炭の弾ける音がして少女は顔を上げた。囲炉裏の向こうでは長女が赤ん坊に乳を与えていた。次女はその隣に座って、その様子を朧げな顔つきで見ている。両親は目を閉じて動かなかった。
木戸が開く音がして一同そちらに目を向けると、義兄が滝にでも打たれたような姿で土間に転がり込んできた。
背負った蓑から滴った雨水が、桶をひっくり返したように土間を黒く湿らせた。墨汁のように黒々と広がったその中心で、義兄は濡れて重くなった蓑を脱ぎ捨てた。
「聞いてくれ」
荒く息をついて喘ぐように、義兄は囲炉裏を囲んでいる全員を見た。
「何があったのです、あんた、そんな」
長女がすかさずその腰をあげる寸前、義兄は重々しく続きを吐き出した。
「馬湧村の長男が亡くなったそうだ」
パチリとまた炭が割れて、赤い火の粉が僅かに舞った。
その赤々と熱を帯びた小さな火の粉が、静かに黒く冷やされ囲炉裏に落ちる様を、少女はただじっと見つめていた。




