第十三話 楓の過去
ぬらりひょんという妖怪がいる。
言い伝えでは、後頭部が突き出た袈裟を着用した小柄な老人の姿をしている。
一昔前までは弱小妖怪に名を連ねていたが、昨今は漫画などで急速に知名度を上げ、妖怪の総大将とも呼ばれるようになった。
妖怪の力の源は知名度。当然、彼の実力は妖怪内でも随一のものとなる。
人の影に潜んで、堂々と家が入るなんて小さい悪戯しかできなかったのが、『透過』というどんな障害物もすり抜けられる能力へと昇華した。
人格も長らく弱小時代を送っていたため、誰にでも優しく、分け隔てなく接することができる。
それでいて自分に厳しい。名実ともに妖怪の大将として相応しい存在だ。
そんな彼であったのだが、ある時、一目惚れをしてしまったのだ。
相手は紅葉伝説で有名な鬼女紅葉。才色兼備のこれぞ大和撫子な美女。
伝説通り、『極めて本物に近い偽物を創る能力』の持ち主で、危険人物として周囲に認知されていたのだが、ぬらりひょんには全く関係なかった。初めは相手にされず、無視され続ける。
しかし、そこでめげる妖怪の総大将ではなかった。
家に押しかけるが門前払い。あくる日もアタック。無視されてもアタック。罠を設置されてもアタック。罵倒されてもアタック。刀で斬られようともアタック。
そうした努力が実り、ついにまともな会話をすることに成功し、大きな壁も小さな壁も乗り越え、ついに二人は結ばれる。
違う妖怪同士の婚姻は珍しい事例ではない。むしろよくある事だ。鬼と天狗は同族同士ではないといけない、かなり厳しい決まりがあるが、鬼でも異端だった紅葉には関係なかったのだ。
厄介払いができて好都合な面が大きかったのもある。
それでも異を唱える者は、ぬらりひょんにベタ惚れになっていた紅葉により、殲滅。
そんなわけで二人は結ばれ、仲睦まじく暮らすこととなった。
数年が経ったある日、紅葉は子宝を授かる。
妖怪でも子を産む事はできる。彼らの存在上いらない機能ではあるのだが、人間から強い影響を受けた副産物というのが有力な説だ。
そして二人は生まれた子に、母の紅葉に由来した名前を、楓と名付けた。
「ここまではバカップルが如何にしてくっついたかの話だけど……。でも立花さんはお母さんの方の血を強く受け継いだんだね」
じっと話を聞いていた和也が呆れながら言った。
ぬらりひょんが一途とか鬼女紅葉がはっちゃけてるとかツッコミどころが多かったからだ。
楓も呆れ半分恥ずかしさ半分の感じの苦笑い。でも彼女はそんな両親を誇りに思っている。
自分には到底できない行動力を尊敬しているのだ。
「ここまではね、順調だったんだ全部……私がどういった存在かわかるまでは……」
種族が違う妖怪でも、子どもが引き継ぐのは片方の性質だけだ。
例えば河童と雪女の夫婦が子を宿したとする。
外見が河童でも、雪女の特徴を継ぐなんて事はない。逆も然りだ。
どちらか片方の特性しか子には発現しない。
なぜそうなるのか。
これに関しては決着がついている。
妖怪は知名度が物を言う。有名であればあるほど力が強大になり、人間に聞き覚えがなければないほど力は弱い。そのため妖怪達は知名度を上げようと躍起になっている。
妖怪の根底は多くの人に記憶されているかどうかなのだ。
それが妖怪をこの世に役目を与え、形を与え、存在させている。
つまり、妖怪が生きるためには人間に覚えてもらう必要があるということだ。
結局は人間の勝手な想像が創り上げた偶像。人間なしでは生きられない。
突き詰めれば、誰ひとり認知していなければ存在できない。
だから二つの種族が混ざり合うなんて荒唐無稽な子は決して生まれない。そんな妖怪はいるはずがないのだから。
なのに。
楓はぬらりひょんと紅葉の性質をどちらも受け継いでいた。
妖怪達には彼女が二つの性質を持った事実が重要となった。人外である彼らの中でも特殊で異端で初の混合妖怪。通称を『混じり』とされた。どっちの力も保持しておいて、どっちでもない中途半端な存在だということだ。
ある者は新しい妖怪の形と考え、静観。
ある者はいずれ脅威となるとして排除を訴える。
またある者は、これを好機と行動を起こした。
その中でも楓に大きく接触を図ってきたのが、上位妖怪でも有数の怪物、牛鬼。
彼曰く、「楓は闘争の火種」だ。
上位妖怪二体の能力を受け継いだ特別な存在。前例のない異質な現象。
どの妖怪勢力も緊張状態になるのは必然だったといえよう。
牛鬼はいつ戦いが起こってもおかしくない状況を心の底から楽しんでいた。
危険な牛鬼から楓を遠ざけるために、一家は秘境に居を構えた。
人間どころか妖怪さえもいない世界の隅のような森の奥の、奥の、奥の場所に。
楓は親元で保護されていたのだが、虎視眈々と彼女を狙う輩は決していなくなることはなかった。楓を守るため居住地周辺は、結界で厳重に警備され、常日頃、ぬらりひょんか紅葉が傍にいた。
それは親として当たり前の行動だったのだろう。実際、しばらくはそれでうまくいっていた。
***
五年が経った。
楓は紅葉の美貌を継ぎ、美しく成長していた。とは言っても、まだまだあどけなさが残る可愛らしい子どもだ。花柄の着物を好み、虫が大嫌いで、両親が大好きな、そんな少女に。
けれでも、一つだけ不満があった。
彼女は一歩も屋敷から出たことがなかったのだ。三人で暮らすには十分すぎるほどの広さがあったが、 冒険心溢れる少女の前では意味を為さなかった。
興味の対象が外へと変わる。
好奇心が抑えられない楓は母に外へ出たいと言った。
「おかあさまー。かえではおそとにでたいです!」
すると母は困ったようにして、楓を抱き上げた。だっこされるのは好きだから抵抗しない。
「ごめんね。楓ちゃんがお外に出るにはまだ早いの」
「じゃあすぐにでれる?」
「そうねぇ、楓ちゃんが大きくなったらね」
「えー! いますぐおおきくなる!」
「ダメよ。楓ちゃんの成長録を書いてるんだから。まだまだ小さくなくちゃ」
「むぅ」
「膨れちゃって可愛いわ! もう大好きよ! 食べちゃいたいくらい!」
文句を垂れながらも、楓はしぶしぶ頷く。
大人しく大好きな両親の言いつけを守って、大きくなるまで待つことにした。
時折、両親の知人が家を訪ねてくる。ぬらりひょんが信頼できると判断した妖怪だ。
滅多に人が来ないので、興味深々の楓だったが、両親以外とは話したことがない。興味はあるけど、話しかける勇気がない。だから母親の背に隠れて、じっと見つめていた。
その妖怪は来るたびに楓にお土産をくれた。毎回違う品で、男と男があんな事をする漫画をくれたりした。当時の楓にはさっぱりだったが、ぬらりひょんが斬りかかっていた覚えがある。
それでも本ばかり読んでいた楓には新鮮で嬉しくてたまらなかった。外の世界への憧れは日増しに強くなった。
楓には友達がいない。
隔絶した場所に居を構えているのもあるが、彼女が妖怪からも異常扱いされている部分が大きい。
力が操れないわけではない。褒めてもらいたくて必死に練習したぐらいだ。
両親は褒めて、喜んでくれた。
でも家族だけしか褒めてくれなかった。
一緒に喜んでくれる人は家族以外に、誰もいなかった。
それから五年後。
楓は一〇歳になった。読み書きも完璧に習得して、ぬらりひょんに剣術の指導もしてもらっている。紅葉は編み物を教えてくれた。手袋を作ってプレゼントしたり、肩叩きをしたり、家族思いの少女に育った。
成長した少女は再び母に例の質問はしなかった。
「お母様、着物を織ってみた。どうかな?」
「さっすが私の娘! 私なんて超えられちゃったかな?」
楽しそうに笑い合う親子。
別に楓は外の世界を見て回る事を諦めていない。知恵と知識を身につけた少女は水面下で計画中の作戦を考案していたのだ。
決行前に作戦内容が漏れてはまずい。気取らないよう、外に関しての話題は一切触れなくした。あたかも興味がなくなったかのように。
楓は自身がどういう存在か教えられている。このような辺鄙な森で暮らしている理由も。
自分がいかに妖怪情勢で重要な位置づけで、危険性も聞かされていた。
そう。聞かされていただけなのだ。
彼女は聞かされただけで、知識として頭に収納しただけで、真の意味では理解していなかった。
仕方のないことだ。生まれてこの方、実害は被っていない。両親にも愛されていた。
少女の幼き日から続く想いを留めるには、あまりにも平和だったのだ。
ある日。楓は親の目を盗み、屋敷から外へ出た。
紅葉が張った結界が張り巡らされていたが、ずっと内部から見ていたせいもあって、難なく突破する。罪悪感もあったが、未知なる世界を探検したい冒険心と好奇心にあっという間にかき消された。
澄んだ空気に青く茂った神秘的な森。昔から住んでいたのに楓は知らなかった。
鳥はさえずり、花は楓を歓迎するように咲き誇っていた。どれもこれも本でしか読んだことしかないものばかりだ。
見るもの全てが新鮮で、たまらなく嬉しくてしょうがなかった。
花を摘んで、花飾りを作ったり、虫と遭遇して逃げたりして、屋敷では体験できない事を目一杯やった。
ひとしきり遊ぶと、すっかり日は傾いていた。夕暮れの景色を外で眺めるのも楓には初めてだ。一面の花畑に寝転がりながら、じっと目を閉じた。
できれば両親と遊びたかったが、絶対に許してくれないだろう。
何だか悲しい気持ちになって、そろそろ戻らないと怒られちゃうな、と楓が起き上がると、空気が一変する。
鳥は飛び去り、花は溶けるように枯れていく。
何かがいる。すぐ近くに。
強烈な圧迫感が胸を締め付ける。逃げようとしても体がうまく動かせない。
涙が止まらないまま、何かがいる方向に首を曲げた。
「楓だな。一人とは好都合だ。こちらに来い」
楓の何倍もある筋肉質の大きな肉体。
頭は牛。鋭い眼光で緑の体色。
首から下は鬼。楓なんて簡単に潰せそうな豪腕。腰には赤色の布を巻いている。
一目見た瞬間、一気に血の気が引いていった。纏っている雰囲気が気持ち悪い。
吐き気がする。近づくな。あっちに行け。心の中で唱えるだけで口には出せない。
念の為に持ってきた刀を抜こうなんて考えにもならなかった。
うまく動かせなかった体は、恐怖で全く動かせなくなる。
一歩、また一歩と距離を確実に詰めてくる牛鬼。
「長らく探していたが、まさか自分から出てきてくれるとはな。俺も運がいい。ようやく他の上位妖怪どもも動く。闘争の日々が戻ると思うと体が疼くな」
牛鬼が何を言っているかなんてわからない。わかりたくもない。
とにかく今はここから逃げ出す事が先決だ。多少の冷静さを取り戻した楓は屋敷を目指して走る。
しかし、歩幅が違ううえに恐怖感が全身を包んでいる。一〇メートルも逃げられないまま先回りされた。
「逃げても無駄だ。大人しく捕まれ。しばらくは丁重に扱ってやる。大事な火種だからな」
しばらくは、大事な火種。不穏な単語に楓の恐怖心が加速度的に増していく。
近い未来に起こるであろう戦に胸を馳せる牛鬼は口を歪ませ、実に楽しそうに笑うのだ。
楓は泣き叫ぶように、
「帰る! 私は家に帰る!」
「家、か。あるといいがな」
牛鬼は屋敷がある方角を指差す。
木々に隠れて姿は確認できない。
だがもうもうと煙が立っているのが見えた。連なって大気が揺れる爆音。衝撃で楓の体が揺らぐ。呆然とその光景を見つめる楓に牛鬼は言う。
「見えるか? 親がお前を探しに出てきたようだぞ。まあ俺の仲間と遭遇したようだな。お前が抜け出してすぐに位置を特定できていれば、こんなことにはならなかっただろうに。奴らは強いが無事で切り抜けられるほど甘い妖怪は連れてきていない。死ぬかもな」
嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
死ぬ? 誰が? 家族が? 嫌だ。そんなのは嫌だ。死ぬなんて嫌だ。
誰のせい? 自分だ。楓が好奇心を優先して言い付けを破ったからだ。
ぐるぐると視界が回って、足元がおぼつく。
牛鬼が楓に、岩をも握りつぶす手を伸ばしてくる。
しかし、ぬらりひょんの能力『透過』で牛鬼の手は摺り抜けていった。
「後悔しているのか? ぬらりひょん共からしたらお前が生まれた事自体が全ての間違いだったのかもな」
「……私のせい?」
「間違いなくそうだな。お前のような化け物は平和を生きる者達には必要がないのだからな。俺にとっては天から舞い降りた幸運だ。こんなにも都合のいい存在はなかなかいない」
「……私は化け物?」
両親は化物だなんて一言も言わなかった。そんな事一度も言わなかった。
自分は普通よりちょっと違うだけ。そう思っていた。両親の知り合いとまともに話せないのは自分が口下手なだけ。そう思っていた。
でも違う。
楓は怪物。楓は化け物。
「ああ。だが俺は感謝しているぞ? お礼を言わなくてわな」
牛鬼は心底楽しんだ顔で、
「気味の悪い化け物に生まれてきてくれて、どうもありがとう」
瞬間。楓の意識は暗転する。
最後に見たのは未だ爆音が鳴り響く森と、脳裏に映る愛しい家族の姿だった。
***
「…………」
和也はただただ、じっと楓の過去に耳を傾けていた。
何も言わないで聞いてくれるクラスメイトに感謝し、できれば楓を見捨てて逃げて欲しいと思いながら、明確に意思を告げようとする。
楓は化け物だ。暴走する可能性はない。でも異常だ。これ以上関わってしまえば、どんなに命があっても足りやしない。
学園に来たのは清条ヶ峰学園の学園長が計り知れない影響力を妖怪に持っているからだ。
でも無意味だった。牛鬼の闘争における執念の前に、そんなものは効果なんてなかった。
自分勝手で化け物の楓に幻滅したであろう和也に一言、ありがとうと伝え、立ち去ろうとする。
だが。
「……化物なんかじゃない。立花さんは化け物なんかじゃないよ」
「え?」
立ち上がった楓の腕を掴む。
楓は抵抗しない。ただただ呆然と和也の手を見ていた。そんな事、考えつかなくて、息をすることも忘れていた。
少年の黒い瞳に吸い込まれそうになる。彼の目はとても力強かった。
楓は誤解している。
なぜなら、桐生和也は、楓の初めての友達は、妖怪なんかに目を付けられようと、死にかけようとも、大事な友を見捨てるなんて絶対にしないのだから。