第十二話 駆ける
「ふぁ、あ……ねむ……」
大きな欠伸をして、目を擦る。本日は晴天。飛行機雲が綺麗なウェーブを描いている。
車道を走る車のエンジン音が耳にうるさい。
月曜日。昨夜は舞と一家の大黒柱こと桐生智也にこってり絞られ、襲撃の場合も想定し、ほとんど起きていたために寝不足だ。
しかし日課の早朝ランニングは欠かさなかった。妖怪達の根城を探索するためだ。
主に地図を片手に街の人通りが少ない場所を中心に探し回るのに、数時間を費やした。
学園長が居場所を意図的に伏せたのなら、つまり和也でも調べられると示しているのだ。
調べられる範囲だとすると、この街の中でしかない。
そして妖怪は日常の裏に潜む影と聞いた。
潜伏できる場所は限られてくる。
感覚的にも身体的にも優れている和也にしても、やや難しい作業ではあるが、できないことではなかった。
影に潜むからと言っても、痕跡は完璧には消せないものだ。さらに二体の手負い。隠せない方が難しい。既におおよその位置も掴んだ。今日のうちに乗り込んで叩き潰す。戦力が小規模なのは発覚している。
千人万人単位ではないのなら一人でも殲滅できる。上位妖怪がうようよいたらいたで対策は考えているが。
(まさかこっちに戻ってきてまで戦う羽目になるとは……)
ため息をつきつつ、重い足で学校に歩いていく。人間を殺すのは未だに抵抗がある。
妖怪だとしてもそれは同じだ。殺す事に何も思わなくなれば、本当に人間ではなくなる。
今日は学園に通わなくともいいと黒い考えがよぎったが、真っ昼間から騒動は起こしにくいし、学校をサボるという行為に、抵抗があった。
「キリューではないか。おはよう」
「ああクルミちゃんか。おはよう」
後ろから声がするので振り向けば、クルミだった。
彼女は寮生活ではないから、登校途中で出会っても不思議ではない。
クルミは朝から尊大な態度だ。もはや日常の風景と化しているので、特に思うことはない。
「寝不足か?」
「そんなとこ」
「ふん、そのような体たらくでは背が伸びんぞ。牛乳も欠かせないな」
「俺は伸びる必要がないからいいの。クルミちゃんこそしっかり寝てる?」
自分とクルミを見比べる。
和也の肩にも届いていない。小柄で可愛らしいのだから無理に伸ばさなくても、世の男に通用する愛らしさがある。小さくて威厳より癒し要素が強いのを気にしているのだろう。
「もちろんだ。いつも九時には就寝している。あとクルミちゃん言うな」
「いやあ、ごめんねクルミちゃん」
「貴様、話を聞いてないな。握り潰すぞ」
寝不足の朝はこうして過ぎていく。
***
後者付近まで来ると、入口に楠が立っていた。
「おはよう桐生君、クルミナレッテさん」
「おはようございます先生」
「ふん、おはよう」
今日も疲れ気味のやつれた顔だ。それでいてスーツは違和感なく着こなしている。和也を発見すると、手招きで呼び寄せる。
クルミは関係ないらしく、そそくさと校舎内に上がらせていた。
楠は辺りに人がいないことを確認し、耳元で告げる。
「昨晩、派手にやってくれたね。おかげで寝不足だよ」
「本当にすいません。なるべく抑えつもりなんですが」
「まあ僕が担当したのは現場周辺の情報操作だけなんだけどね。広場の修復は美術科のハル先生が担当していたから、彼にも一言言っておきなさい。でも今日は休みだから後日にね」
「わかりました」
実際はグロテスクな灰色生物、野槌が食い散らかした結果なのだが、和也も戦っていたわけであり、同罪だ。
美術科担当のハルは今風の茶髪イケメン先生。彼も異能者で楠とよく仕事をするらしい。
カタコト口調が特徴の気さくな性格で、生徒からも人気がある。
学園内で主にE組に関わりがある大人は、楠、ハル、寮監、学園長の四人。
楠の分身で大体の授業はカバーできるため、人数は限りなく少ない。
ただし、美術は別だ。
楠の美術センスが壊滅しているらしく、代用が必要だったのだ。
そこで抜擢されたのがハルだ。
寮にもE組生徒が暮らしているから、寮住まいの生徒は寮監との接点は多い。
学園長は言わずもがな。
「……すまないね」
「どうしたんですか? 謝るのは自分だと思うんですけど」
楠が目を伏せ、さも自分が悪いように言う。
理由がさっぱりわからない和也は首を傾げる。
「生徒の命が、子どもの命が危険だというのに、私には何もできない。あの鬼畜のゴミカスのくせに無駄に全知全能な学園長が邪魔さえしなければ……分身に爆弾巻きつけて特攻するのだけどね」
「気持ちは嬉しいんですけど、怖いので止めてください。でも生徒が大事なんですね先生は」
楠が学園長を大嫌いなのがよくわかった。教師で和也達が生徒とという立場があるのかもしれないが、 子どもを大切にしている姿勢は感じられる。心から教師の仕事に誇りを持っていることが理解できる。
楠は恥ずかしそうに頬を掻くと、
「これでも子どもは好きでね。少々過保護気味なんて言われるよ」
そこで言葉を一旦切る。今度はやけに殺意がこもった目つきで、
「だから学園長には困っている。何が生徒の成長を促すためだ! 死んだら元も子もないだろうに……!」
「……昔からこんな方針なんですか?」
「そうだね、昔からずっとだ。命懸けなんて滅多にないけどね。だけど事件が起こったら全てE組生徒に解決させていたよ。学園長は」
「よくもまあ、こんな学園が成立するものですね……」
昨夜も思ったが、表向きは普通の学園だとしても、これほどまでに自由なのに存続できている事実がありえない。こうして有り得てしまっているわけだが、学園長の影響力が計り知れない表れだ。
ため息をついて、ちょっと後悔する。
「死人が出なかった事もあるけど、どこの勢力も学園長の行いは黙認状態だよ。あの人の影響力は計り知れないから、出来る限り関わり合いたくないんだろう。近づいてくるのは厄介者だけさ」
「そんな人に目を付けられたのが、運の尽きってとこですかね」
「君がそう思わないように、先生も立ち回ってみるけどね。さあ、もうじきホームルームの時間だからこれで。立花さんの事を頼むよ」
「任せてください」
楠の姿が見えなくなったのを確認し、和也は再び決意を固め、教室へと向かった。
***
教室に入室すると、武蔵が待ち構えていたかのように真ん中に居座っていた。
さながら有名な像である考える人のポーズだ。何がしたいか全くわからない。
入ってきて、困惑中の和也に気づくと、爽やかな笑顔で挨拶してくる。
「ういっす和也」
「……おはよう。ついに頭までおかしくなった?」
「頭までってなんだよ! 他にもおかしいとこあんのかよ!」
一人で騒ぎまくる武蔵を尻目にクルミが目を輝かせる。
「おお! やっと来たかキリュー! こんな塵と二人きりは鳥肌物だったぞ!」
「やっぱ俺はゴミなの!? つかひどくね!」
平常運転のクルミと飲酒運転並みにキャラがぶれまくる武蔵。
主人と奴隷の関係な二人として和也は認識している。
「おっはよう! 今日も朝から爆発しようぜー!」
フリーネが廊下を爆走しながら、教室に飛び込んでくる。スカートは絶妙なバランスで絶対領域を展開。武蔵が悔しがる。それをクルミが蹴飛ばす。
グッと親指を立てて、決めポーズのフリーネ。
いつもの光景。
学園に通いだしてから毎日見る光景。
変わりない日常だ。
彼女達の誰ひとりとして昨日の戦闘は知らない。巻き込んではならない。
誰も――
「みんなおはようございます。ホームルーム始めるよ」
楠が入室する。時計を見ればもうすぐ始業の時間。いつもなら出席を取って、皆で挨拶をして担任による伝達がある。しかし一人だけいない。本来いるはずの人が。
「せんせー! カエデちゃんがいません!」
「あれおかしいな。休むなんて一言もなかったんだけどなぁ」
楓がいない。右隅の席でいつも静かに座っていた彼女が。
ようやく人と話すのに慣れてきて、楽しそうに笑い始めた少女だ。体調が悪かったなら昨日の夜に気配があったはずだ。昨夜は随分と元気そうだった。友達ができてはしゃいでいたぐらいだ。得体のしれない悪い予感がする。
楠とフリーネの会話に耳を傾ける。
「同じ寮のドラゴニックさんは知らないかい?」
「一緒に行こうって誘ったんだけど、断られちゃったんだよー! カエデちゃんと一緒に走りたかったのに残念無念!」
「ふーむ……寮にはいたんだね」
楠の眼鏡の奥の目に陰りが映る。楓が朝帰りするような性格ではないのは、短い付き合いでもわかる。 時に大胆な行動をとることもあるが、それとこれは違う。
担任の楠は学園関係者で異能者。昨夜の戦闘の後始末も任されている。事情も伝えられているはずだ。和也も楠も同じ事を考えている。学園内にある寮を抜け出して、外の妖怪と会っているのではないか、と。
ただ楓を狙う妖怪と接点はあっても接触はできていない。最初から接触できていたのならこんな間取りくどい真似はしない。直接楓を誘拐した方がリスクは圧倒的に低くなる。
どうして誘拐しなかったのかなど腑に落ちない点もあるが、今は関係ない。
その時、武蔵がおもむろに口を開いた。
「そういや和也の無理がある理由で突然帰ったの心配して楓ちゃんが追っかけてたなぁ。マジでお前はずるいぜ。あんな美少女に追いかけられてよ」
「え? 立花さんとはあれから会ってないよ」
「おっかしいな。和也がいなくなってすぐに走ってたから追いつくはずだろ? 何せ妖怪だしな。俺たちとは持って生まれたもんが違う」
武蔵が自虐するように言った。
人外の肉体を持つ和也ではあるが、常に怪物染みた力を発揮しているわけではない。
なら楓と合流しても不思議ではないのだが、ここで一つの憶測が浮かんだ。
和也は立ち上がった。
クラスメイトが呆気にとられている。
予測が正しいのなら、現在最悪の状況に陥っていると見ていいだろう。
授業を受けている場合ではない。
時間は限られている。
迅速に行動しなくてはならない。
楓の居場所については見当がついていた。
「桐生君、これを」
楠がスマートフォンらしき機器を、和也に手渡した。
そして耳元で囁く。
「先生のコレは、君達の居場所が分かるようになってる。何が発信しているかは見当はつくだろう?」
和也は咄嗟にポケットに入っているスマートフォンを握りしめた。
楠が扉を開けて促す。
教師も介入することは禁止されているのだ。自分の手で生徒を助けられない悔しさが声にも表れている。
全く状況を把握できていない武蔵達はどういった話かわからないだろう。だがそれでいい。
わからないままでいいのだ。
和也のやるべきことは一つだ。
一言、行ってきます。そして教室を飛び出していく。
和也と楓が初めて友人として会話した場所へ。
***
学園を出て、道なりに走る、駆ける。
通学、通勤時間はとっくに過ぎているから人目は少ない。
時折、人とすれ違う。
制服であるせいで不審な目で見られるが関係ない。
楓の元に行かなくてはならないからだ。
ようやく目的の場所に到着する。
入口付近に自動販売機。真ん中には立派な噴水。
学園側が行った『後始末』のおかげで、抉れた地面も飛び散った血も、処理されていた。
和也が目を向けたのは、噴水の向こうだ。
そこにはベンチがある。
ベンチには独りでセーラー服の黒髪の少女が俯いて座っていた。今にも崩れ落ちて砕けてしまいそうな弱々しさ。
楓だ。
彼女の姿を確認すると、胸を撫で下ろす。まだ妖怪の手に落ちていない。
ほっとした和也はゆっくりと楓に近づいていく。
「立花さん」
「…………」
「立花さん」
「……桐生君」
一度聞き直して、やっと呼びかけに応じる。
顔を上げた楓の様相はとてもひどい。初めて会ったときのように冷たく凍っている。
応じてはくれている。
しかし声色も表情も、氷のように脆く、弱弱しい。
あんなに友達が出来たことに喜んでいた楓が、クラスメイトに話しかけられても、上の空だ。
いつもの楓ではないと、はっきりと理解した。
他者を気遣い、周りをよく見ている彼女が、和也の接近にも問い掛けにも、曖昧な返事しかしない。
それにあの目。怖くて怖くて、大切な物を失うが怖くてどうしようもない目だ。
一点を見つめ、ひたすら固まっている。
(昔の俺と同じ……)
和也がかつてそうだったからだ。
異世界に放り出され、わけもわからないまま時代の濁流に飲み込まれた。
たくさんのことを知って、たくさんの物を失った。
だからわかる。今の楓を放ってはおけない。
「……学校はどうしたの?」
「それはこっちの台詞。立花さんが心配で抜け出して来たんだよ」
「……どうしてここってわかったの?」
「うーん、直感的にかな」
「……相変わらずだね」
暗い。どこまでも暗い。眼中にすら入っていない。認識されているかどうかも疑問だ。
これでは埒があかない。隣に座って和也は沈みきっている楓に核心をつく。
「昨日、俺が妖怪と戦ってたのを見てたんだよね?」
「――――!」
楓の体が大きく揺れる。目を見開いて驚き、動転する。
手をぎゅっと握って、隠しきれない事を悟ったのか、諦めたように、
「……うん、見てた」
ぼそりと呟いた。そして全てを吐き出す勢いで続けた。溜め込んだ物を止めどなく。
「桐生君が変な理由で帰っちゃうから心配で追いかけたら、広場で妖怪と戦ってて、死んじゃうかもしれないって思ったけど私怖くて動けなくて、そうしたら牛鬼がいてどうしたらいいか分からなくなっちゃって……謝りたくても見捨てた事が知られたら嫌われちゃうと思って、また一人になっちゃうと思って、それで逃げて……学校で会うなんてできなくて……そんな自分の事しか考えられない私がもっと嫌で……」
どうしようもなく自分を自分で追い詰めていたのだろう。
今の楓には鬼気迫る何かを感じた。
和也を見捨てた罪悪感と無力感で苛まれて。
誰にも相談できず、一日ずっと一人で。
不安と罪悪感で押しつぶされそうな少女に、和也はそっと語りかける。
「誰だってそんな状況なら逃げ出すよ。少なくとも俺の事で気に病む必要はないさ。聞いた今でも友達だと思ってる」
「だからって……私が逃げ出した事実は変わらない……」
「そうだね。でもほら、そんな細かいことはいいんだよ」
「え……?」
「過ぎた過去はどうしようもないけどさ。それを教訓に、これからは気をつければいいんだよ。……自分で言ってて恥ずかしいなこれ」
「でも……」
いつまでも、煮え切らない態度の楓に、和也はさらに畳み掛ける。
顔と顔を近づけ、逃げられないようにした。顔が赤くなっているが知ったことではない。
友達を助けるためだと思えばクサイ台詞だって言ってやる。
「立花さんは考えすぎなんだよ。もっとシンプルに考えよう。今はできなかった。次は頑張ろうってさ」
「いくらなんでも……」
「これでいいんだよ。難しく考えたところで余計悩んじゃうからね。次があって良かったって思える余裕があると、なおいいね」
「ええ……」
「これでいいの」
「でも」
「いいの」
「で――」
「いいの!」
半ば強引に話を決着させる。楓には強く攻めるのが効果的だ。
若干渋っていても、どこか納得した様子。和也も言いたい事を言えてスッキリした。
それでも沈んだままの楓は自分から、こう切り出す。
「ありがとう桐生君。私を気にかけてくれて。凄い嬉しい。だから私の問題にこれ以上巻き込めない……」
「俺としてはもう巻き込まれてるんだし、今更って感じだけど」
「……桐生君は優しいよ。でもだからこそ、関わって欲しくないの。だって私は化け物だから」
楓は語る。
彼女の過去に何があったかを。彼女の正体を。