第一話 帰還した勇者
家に帰る途中に深緑に輝く光に包まれ、気づいたら異世界だった。
今から四年前、平凡な少年、桐生和也が中学校一年生の夏休み直前に経験した異常な体験。
知らない世界。
知らない土地。
知らない建造物。
知らない人々。
全てが知らないだらけ。
何故、彼は異世界にいたのか。
理由は単純。
魔王を斃す勇者。
たった七文字で表せるにして、まだ一三歳にも満たない少年にとっては重すぎる役目だ。
異世界――レルービアは元々争いのない平和な世界であった。
だが、その平穏を崩す者たちが現れる。
魔王だ。
正確にはレルービアとは違う世界からやってきた、魔王を名乗る青年率いる異形の軍勢。
彼らは出現するやいなや、あちこちで侵略行為を開始する。
初めは穏便に話し合いで解決しようと試みた。
基本的に争いを嫌う性質がレルービア人にはあった。
たとえ、相手が外の者たちで、暴力を振るう者であっても。
しかし、平和的解決は叶わない。送った使者達を皆殺しにされたのだ。
温和な人々にも限度は存在する。
かつてない脅威と暴力に対して抗戦を決意。
レルービア戦争、終末戦争、最初で最後の戦争、様々に呼称される戦争が始まった。
それから二年。
一進一退の攻防が長き間続くこととなる。
殺されて殺して、殺されて殺して。
終わらない悲劇。
決め手をお互い欠いたまま争いは、さらに長期化すると思われた。
そんな時、ふと、かの世界の王は思いつく。
「全然決着つかないし、勇者様でも試しに召喚してみよ。え? できるとは思ってないわよ? でも、できたら貴重な戦力が手に入るわけだし、やってみて損はないわよね。召喚に必要な道具がない? ならそれっぽい物でいいじゃない。ほらそこの石ころとか」
結果、召喚は成功する。
あらゆる手順が適当にもかかわらず。
かなり軽いノリで、かなり重い理由で、はるばる異世界にまで拉致された和也少年はたまったものではない。
常人だったら裸足で逃げ出すほどだ。
しかし和也は勇者の任を四年の歳月を懸けて成し遂げる。
既に戦争開始から六年の歳月が流れていた。
幾万もの敵を屠り、仲間との絆を育み、あらゆる困難を乗り越え、ついに魔王を斃す。
魔王を斃した王道的勇者。
まさに英雄譚というべき偉業を達成したのだ。
世界を救った英雄は惜しまれながらも、元の世界へと帰還する。
ハッピーエンドを迎えた元勇者。
きっとレルービアの民達は今も、勇者に思いを巡らしているだろう。
希望を見せてくれた、強い逞しいカッコいい彼に。
そして。
勇者だった少年の今はといえば。
「一二四八円になります。こちらは温めますか?」
コンビニでバイトをしていた。
世界を救った勇者は、日本の、ちょっとした街の、コンビニで、お弁当を温めていた。
やや不揃いの黒髪に、温和な目つき。
優しげな雰囲気が全身から溢れ出ている。
「あ、この人優しそうだな」となんとなく思ってしまう感じだ。
身長は一七五センチ。
細身ながら、鍛えられた肉体美が、僅かな仕草からも感じ取れる。
職場から若干浮いた容姿をしているが、同僚からも上司からもお客からも評価は高い。
仕事は真面目で、覚えがいいうえに、愛想もいいのだ。
当然といえば当然である。
客受けがいいので、もっぱらレジ打ちが仕事だ。
今もお金を稼ぐために、懸命に手を動かしていた。
現在は一六歳、今年の七月で一七歳を迎える。
本来ならば、高校に通っている年齢だ。
けれでも毎日のように、彼はレジの前に立っていた。
「もうこんな時間か……」
ふと壁に掛けられた丸っこい時計を見れば、針は七の字を示そうとしている。
和也は、恰幅のいい不毛地帯な店長と軽く会話を交わし、控え室へ。
青のストライプの制服から、白いワイシャツの上に古ぼけた黒いパーカー。使い古されたジーンズに着替え、店を後にする。
今はまだまだ肌寒い二月下旬だ。
息は白く染まり、マフラーや手袋をしている人が目立つ。
それらに比べればかなり軽装ではある。
だが和也にとっては所詮一〇度を若干下回る程度では、気にする寒さではない。
雲一つない満天の星空と、道沿いに一定間隔で並ぶLEDの省エネ街灯の下、冷たいアスファルトの上を一人で帰路につく。
数十分も歩くと右斜めに、天を突く、は言いすぎではあるが、付近の家屋に比べ高すぎる建物が見える。
高級マンションというやつだ。
一度は暮らしてみたいと思わずにはいられないが、残念ながら、和也の家はそっちではない。
首を鳴らしながら、見向きもせず通り過ぎてゆく。
目的はその隣。
マンションの西側に位置し、いつも陽が当たらない暗くジメジメして、木造で蜘蛛の巣が常時張ってあるような、みすぼらしいアパート。
付け足せば、二階の最も東側の部屋だ。
「ただいま。」
「あ、おかえりー。ちょっと待ってて」
ひび割れた木の扉をノックすれば、部屋の奥から和也を迎える声がする。足音は非常にゆったりしており、待たせる気は満々のようだ。
まったく凍えない寒さの中、ようやくノックが回った。
目の前に広がるのは薄い桃色の寝巻きを着崩していた女の子だ。
小柄で健康的に肌を覗かせ、肩に届く綺麗な黒髪をふわふわさせた少女である。
和也の妹の桐生舞。 来年は高校一年生で、色気づく年頃だ。
運動神経抜群、頭脳明晰、容姿も優れた自慢の妹。
でも時々、甘えちゃったりする可愛い女の子の一面も覗かせる。
とにかく、和也からすれば可愛い妹だ。
「父さんは?」
「まだ面接受けに行ってるよ。なんか今回は合格できそうかもって話だよ。あと先にご飯食べてて、だって」
「受かるといいけど……。じゃあ、すぐに作るから待っていて」
父の行く末を頭の片隅に放って、靴を脱ぎ、最近になってようやく慣れてきた日常を、昨日と、一昨日と同じように繰り返す。
照明は悲しくなってくるぐらい朧げな光。
物を踏まないように、綺麗に掃除された台所の前に立つ。
手を石鹸で泡をたてて、入念に手を洗う。
キッチンとリビングは同じ部屋で、あとは六畳の一部屋しかない窮屈な間取りだ。
可愛らしくデフォルメされた熊のワッペンがついた桃色のエプロンを身につける。
古臭い冷蔵庫の中から、昨日の夕食の余りであるコーンスープと、玉ねぎ、冷凍されていた豚肉を取り出す。
作業に取り掛かっていると、既にちゃぶ台の前で正座待機している舞が声を弾ませていた。
「今日はどんなのが出てくるのかな? シェフさん?」
「んー。生姜焼きと味噌汁。ふっふっふっ。楽しみとしているといい」
「はーい。楽しみに待ってまーす。お兄ちゃんの料理はなかなか美味しいし、期待大だよ」
妹の笑顔は癒される。
少々シスコン気味かもしれないが、それが今の心理だ。
ここまで辿り着くまで長い道のりであった。
和也は豚肉の両面に小麦粉を軽く塗りながら、この平和な生活になるまでを走馬灯が如く思い出す。
「もう二ヶ月か……」
「そうだね……もう二ヶ月だよ……」
返事を期待していたわけではなかったが、舞が相槌を打つ。
どこか懐かしむような、悲しむような、そんな声だった。
勇者こと桐生和也が、日本に帰還してから、既に二ヶ月の月日が流れている。
今ではバイトと勉強尽くしの日々が続いていた。
なぜなら魔王を斃して帰ってくれば、家族が貧乏と化していたからだ。
和也が召喚されてレルービアにいる間に、家庭はゆっくりと崩壊していったという。
母はストレスで疲れ気味、父も励ましていたが、あまり効果はなかったようだ。舞はできるだけ迷惑をかけないように心がけていたらしい。
さらに不況の煽りで、父の働いていた会社も潰れ、収入もなくなる。
それが半年前の話だ。以前住んでいた家も売り払い、ボロアパートに引っ越した。
父は現在進行形で、就活に励んでいる。
母も必死に働いたが、必死さが災いし、過労で倒れてしまう始末。
お金はないので、家での療養生活だ。
それだけではない。
学力の低下もひどく響いていた。
中学一年の一学期分の知識、しかも時間が経過してひどく劣化してしまっている。
学校に通えるわけがなかった。
「二ヶ月前と言えば、あのマスコミの熱はすごかったね」
「そうだね。俺もあそこまで話が拡大するとは全く思ってなかったよ」
思い出すだけでも苦笑いがこぼれてくる。
それは舞も同じだったようだ。
あの最悪の状況の中、一つだけ良いことはあった。
長年行方不明だった少年がひょっこり帰ってきたという、格好の獲物にマスコミが食いついたのだ。
散々テレビ番組で報道され、連日連夜報道陣が押しかける。
そこで映された桐生一家の哀れさに全国のお茶の間が同情した。
これは流石に可哀想だ、と。
報道のおかげで全国から寄付が集まり、生活もある程度持ち直す。
母もちゃんとした医療施設へ入院することができた。
だからといって、寄付金に頼り切るわけにもいかないので、せっせとバイトをしているのだ。
お金もたまって、もっと余裕がでてきたら高校に通うために勉学に励んでいる。
中学校をまともに通えていない馬鹿にある職などない。
危ない系列はそもそも選択外。
脅威が飛び交う戦場を生き抜いたのに、こっちでも就く理由はない。
わざわざ物騒なことに関わる意味など、もうないのだ。
それが、勇者の桐生和也の現在だった。
「…………」
「どうかした?」
舞の無言の圧力に、首だけ軽く後ろを見る。
さっきまで、ウキウキしていたのはどこへやら。
半眼で和也をじっと見据えている。
何のことだかわかっていない兄に、妹はさらに氷のように冷たい目を細めた。
「四年間の事。いつもはぐらかして教えてくれないじゃない。なんか危ない事になっていたらしいのは教えてくれたけど、結局それだけ。マスコミには記憶喪失で押し通すし」
「まあ、そのうちね」
「私は早く知りたいの! いつもそうやってはぐらかす! いい加減教えてくれたっていいじゃない!」
「まあまあ落ち着いて」
語気を荒げ、まくし立ててくる。
顔をリンゴのように真っ赤にし、怒り心頭といった様子だ。
実は異世界について云々は何も話していない。
話したところで信じるわけがないのだ。
信じてしまったらしまったで神経を疑う。
結果的にはぐらかす方向となった。
家族も渋々ながら深くは、突っ込むこともなく、平穏に暮らしている。
以前はそれでもよかった。
生活にも多少の余裕が出てきた今は違う。
結局四年間この子は何をしていたのだろう?
当たり前の疑問。
考えるだけの余裕が出てきてしまったのだ。
そんなわけであの手この手でありもしない真実を探ろうと躍起となってしまっている。
和也はこの状況を楽しむようになった。
何を言っても嘘扱いなのだから、永久にそのままでもいいんではないだろうか、と。
「ミステリアスなのもいいだろう? もしかしたら悪の組織に改造されたりしたかもね」
嘘つき勇者は楽しそうに口を緩ませる。
目は明らかにからかっているよう。
完全に悪乗りである。
「ええ! もしかして変身できたりするの!?」
「いや冗談だから」
妹が想像以上に食いついて、苦笑いに深刻さが加えられたが、そこも含めて舞だな、と勝手に納得する。
爛々と輝いていた瞳を暗くしていく妹の浮き沈んでいく。
それが見なくとも分かって、なんだか面白かった。
(平和だな……本当に……)
年寄りくさいが、しみじみ思う。
家族の存在は偉大。間違いなくこの世の真理だろう。
わけもなく悟りを開きそうになっていると、
「あ、そうだ。さっき手紙が届いてたよ。お兄ちゃん宛てに」
そういえばと、舞が玄関からやけに綺麗に包装されている小さい手紙を手にしてきた。
慌てて取りに行った勢いのまま和也の胸に押し付ける。
「俺宛てに? 取材ならとっくに押しかけているだろうし……。もしかして昔の友達?」
「残念だけど全然違う」
ちょっと期待しただけに、落ち込んでしまう。
目が緩み、涙が流れそうになってきた。
四年の空白により、友達と呼べる存在はすっかりいなくなってしまっている。
引越しの関係で昔住んでいた場所からも離れているので、帰ってきてから以前の友達とは、誰ひとりとして会っていない。
かつての友人たちにとって和也が印象に残っておらず、大した興味を惹かれなかったせいかもしれないが。
キャベツを手馴れた包丁捌きでみじん切りにしながら、続けて問う。
「じゃあ誰? 全く心当たりないんだけど」
「私立清条ヶ峰学園」
「は?」
普段なら、絶対出さないような間の抜けた顔になる。
本当に心当たりがないのだ。
疑問に思って一旦、包丁を手放し、差し出された手紙を受け取る。
裏を見れば墨で書かれたらしく、光沢のある文字で『私立清条ヶ峰学園』の名が。
何度見直そうが、ひっくり返そうが、『私立清条ヶ峰学園』と書いてあった。
しかも『桐生和也様へ』と完全にご指名されている。
「なんで俺宛て? いやそもそもからして、どこの学校?」
「え? 知らないの? かなり有名な……って行方知らずだったんだからしょうがないか」
すぐに詳しく話を聞きたかったが、料理を手放すわけにもいかなかったので、神速で行程を済ませ、ご飯が炊けるまでに作業を終わらせた。
エプロンを椅子に掛け、向かい合う。
ついでに、お茶も用紙して準備万端である。
「ここらへんじゃあ、一番頭のいい学校でね。競争率も高いし……」
舞の説明によれば、清条ヶ峰学園というのは、一クラス四〇名五クラスで編成されている。進学校で風紀もよく、
家族が安心して子どもを送られる評判のいい学校らしい。
だとすれば、ますますわからなくなってくる。時期を考えれば、舞の方に届くのが自然だ。
「……それでね。今私合格待ちなんだ。この学園の」
最後の言葉で確信する。
絶対に自分ではない。
「やっぱりこれ、舞宛てじゃないのかな? どう考えても俺なのはおかしいよ。まだまだ勉強中だし、学校の関係者に知り合いなんていないしさ。きっと学校が間違えたんだろう」
「そうかもしれないけど、一度中を確認したらどう? 一応お兄ちゃん宛てなんだし」
「……じゃあ一応見てみるかな」
舞が勧めるので、仕方なく封を切る。
和也としては完全に妹宛てで、間違いだと確信していた。
「これは……」
「え? 何かあったの?」
好奇心から覗き込むように顔を近づけてくる舞。
特に気にするまでもなく、内容を読み始める。
その時、顔を見られなかったのは幸いかもしれない。
きっと顔はひどく狼狽して見れたものではなかっただろう。
『桐生和也様。ご帰還おめでとうございます。早速ですが本題に入らせてもらいましょう。あなたは清条ヶ峰学園の審査に合格いたしました。我々はあなたを歓迎します――』
文をたどっていくと最後に。
おまけのように。
添えたように。
なんでもないように。
誰も知らないはずの。
――勇者様。