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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
二章・澪編
8/16

「第一夜」― 藍に沈む夜

 澄羽が風になったあの朝から、

 世界はずっと、ひとつ息を止めたままだった。

 村の空気は澄んでいるのに、どこか乾いている。

 風鈴は鳴らず、木立は眠ったまま。

 その静けさの奥にだけ、ひと筋の声の記憶が残っている気がした。


 ――大丈夫。あなたは、きっと来てくれるから。


 それが夢の残り香なのか、風の残響なのか分からない。

 ただ、胸の奥で薄く揺れ続けていた。


 夜はやわらかく、川沿いの道を包んでいた。

 白い風が去ったあとに残ったのは、水の匂いだけだった。

 その匂いに導かれるように、足は自然と神社の方へ向かっていく。


 白羽神社は、村の外れにある。

 澄羽を見送った朝にも、その屋根は遠くに見えていた。

 だが今夜は月が薄く、鳥居の輪郭がやけに深い。

 夜の水に沈むように、神社は音もなくそこにあった。


 階段の途中で立ち止まる。

 息を吸うたび、空気は冷たい。

 それは秋の気配ではなく、何か別のもの――記憶の冷たさだった。

 人のぬくもりが失われたあとにだけ残る、透明な寂しさ。


 ――もし、あの風がまだどこかで吹いているなら。

 その先に、もう一度だけ“誰か”がいるのかもしれない。


 そんなことを考えながら、階段を登りきる。


 境内の真ん中に、光を持たない何かが落ちていた。

 一冊の古びた手帳。

 灯籠の火は消えているのに、紙の縁だけがかすかに光を帯びている。


 拾い上げると、掌にひやりとした感触が走る。

 冷たいのに、どこか懐かしい。

 風が吹いたわけでもないのに、頁がひとりでにめくれた。


 ――八月十一日。

  夢を見た。

 白に包まれていく私に、手を伸ばす誰か。


 文字は淡く光を吸っていた。

 墨よりも柔らかく、まるで紙そのものが息をしているようだった。

 読み進めるほど、水底を覗き込むような感覚に落ちていく。

 “夢”という語が胸の内側で震え、指先が次の頁を探した。


 めくる音が、夜気を震わせる。

 そのとき、不意に声が降ってきた。


「こんばんは」


 振り向く。

 境内の灯のない闇の中、ひとりの少女が立っていた。


 白い浴衣が夜の色を吸い、

 黒髪は濡れた糸のように背へ落ちている。

 その瞳は深い藍色――月が差す瞬間だけ、碧の光を帯びた。


「迷ったの?」


 首を横に振る。

 違う――迷っているのは道ではない。

 行く先を見失っているのは、自分の心のほうだ。

 行くあても、帰る場所もない。

 風の止んだ世界で、まだ誰かを探している。


「そう……なら、ちょうどよかった」

 少女は小さくうなずき、微笑んだ。

 それは、水面に落ちた月の光のような笑みだった。


「私、(みお)って言うの」


 名前の響きが、波紋のように空気を揺らした。

 その音を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 どこかで聞いたことのある響き。

 でも思い出せない。

 ただ、名の音が呼吸に溶け、夜の空気が少し柔らかくなった気がした。


 澪が一歩近づくと、空気が変わった。

 冷たいのに、やわらかな湿りを含んでいる。

 それは風ではなく、止まった時のなかでゆっくり流れる何か――

 まるで夢が息をしているような温度だった。


「誰かを、待ってたの。ずっと……」


 そう言って、澪は胸に手帳を抱いた。

 その仕草は祈りではなく、

 まるで“記憶を抱きしめる”ように静かだった。


 ……手帳?

 気づけば、自分の手は空だった。

 ついさっきまで持っていたはずの重みが、どこにもない。

 見上げると、澪の腕の中で――

 その手帳が確かに息をしていた。


 「誰を?」と聞こうとして、声が喉で止まる。

 問いかければ、彼女を壊してしまう気がした。


 澪は頁を撫でながら言う。

「誰を待ってるのか、もう覚えていないの。

 でもね、その人に会えたら――きっと夢が終わる気がするの」


 その言葉に、心が小さく軋んだ。

 “終わる”という響きに、

 どこかで聞いた痛みが重なった気がした。


「迷っているなら……明日もおいで」

 澪はそう言い、藍の瞳を少し細めた。

 その奥に、淡い光が沈んでいく。

「わたしも、またここにいるから」


 その声が、夜気の中で小さく響いた。

 まるで水面に触れた指の波紋のように、いつまでも消えなかった。


 ただ、空気が小さく揺れて、灯籠の影が一度だけ形を変えた。

 彼女の髪がその揺れにほどけ、夜がまた静かに閉じていく。


 気づくと、澪の姿は闇の向こうに薄れていた。

 足もとに残ったのは、露に濡れた草の香り。


 夜の川面に目を向けると、風がわずかに戻っていた。

 水面が、息をしている。

 その波紋の奥で、誰かが笑った気がした。

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