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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
一章・澄羽編
7/16

「七日目」― 風が吹く日に

 夜が紙の縁から静かにほどけていく。

 空はまだ白にも青にもならず、灰の薄布を一枚だけ肩に掛けたようだった。

 風は動かない。川も木々も息を潜め、世界全体が何かを待っている。


 宿の部屋は冷たく、畳の目に夜の匂いが残っている。

 掌を見つめても、昨日までの温度がそこにはない。

 夢の中でも、彼女はもう風の側に立っていた。

 それでも――まだ、呼ばれている気がした。


 大丈夫。あなたは、きっと来てくれるから。


 その声が、耳の奥で小さく呼吸をしていた。

 思い出すたび、胸の奥で痛みと温度が交互に揺れる。


 ――行かなければ。

 でも、行ってしまえば終わってしまう。

 そんな恐怖が足首に絡みつく。


 彼女は、この世界のどこよりも静かな場所へ行こうとしている。

 その小さすぎる願いを、よりによって自分なんかに託してくれた。

 何を返せる? 何を持っていける?


「まだ名前すら、呼べてないじゃないか……!」


 押し殺したつもりの声が、思ったよりも大きく部屋に響いた。

 誰に向けたわけでもない叫びが、畳の上で跳ね返って胸の奥に突き刺さる。


 行けば、きっと何かが変わる。

 でも行かなければ、彼女の信じた「明日」が嘘になる。

 そのどちらも怖かった。

 だから、ただ歩き出した。


 戸を開けると、外の空気はまるで透明な水のようで、

 呼吸するたびに胸の奥が洗われていく気がした。

 影は長く、音はどこにもない。

 風鈴は舌を喪い、屋根の端で息を止めている。


 風がないのに、草がかすかに揺れた。

 誰かが背中を押したような気がして歩みを速める。

 それが彼女の呼吸の名残なのか、自分の罪悪感なのか、もう分からなかった。


 村の角を曲がるたび、白粉の匂いが濃くなる。

 遠くで灯籠が数えるほど、夜明けの手前で名もなく揺れていた。

 足を進めるたび、地面の冷たさが骨へ染みてくる。

 それでも、立ち止まる理由はどこにもなかった。


 ――間に合うだろうか。


 その問いが心の奥で波を打つ。

 けれど答えは、もう知っている気がした。

 彼女はきっと、風の中で微笑んでいる。

 だから、怖くても行くしかなかった。



 広場には、低く張られた白布が朝を待っていた。

 村人たちは口を閉ざし、影を持たず、ただ祈りの形のまま立っている。

 白粉と油の匂いが混ざり、世界がひとつの呼吸をやめていた。


 澄羽は、そこにいた。


 繭のように白を肩にまとい、膝を折って座している。

 光の来処を知っている人の目で、こちらを見上げた。

 手首には、あの日の結び目の跡がうっすらと残っている。


 近づけば触れられそうなのに、

 その距離は、どんな祈りよりも遠かった。


「ほら、やっぱり来てくれた」


 澄羽は微笑んだ。

 その言葉は祝福でも安堵でもなく、確信のかたちをしていた。


「……間に合ったか」


 声にした途端、世界の輪郭が揺れた。

 声が風に先んじてしまうのが、怖かった。


「うん。だって、あなたはいつも見てくれたから」


「飛べるって、信じてくれた……」


 どこまでも――


「……ああ。きっと、飛べる……!」


 あの空を見たときから、ずっと――


 あの日の丘の風景が、胸の奥でほどける。

 地面から目を離せなかった少女が、空だけを見上げていた午後。


 歩み寄る。触れられない距離に掌を置く。

白布の奥で、糸がかすかに鳴る――

 あの夜と同じ、生の音。


 光を吸った糸の目が、朝の色に変わっていく。


「怖くないか」


「ううん。……ちゃんと、ここにいるから」


「一人じゃ、ないから――」


 澄羽は胸の前で布の端を押さえた。

 ほどけないように、でも結び直さないように。

 祈りと現実のあいだに置く手つきだった。


 言葉が喉に集まり、名が形を取りはじめる。


 ――す……


 子音だけが漏れて、立ち上がらない。

 喉の奥で名前のつづきが渦を巻く。

 呼べば、きっと何かが終わってしまう。

 けれど呼ばなければ――


 彼女は本当にここにいたのだと、自分で認められなくなる。


 そのあいだで、息だけが名前の形を真似て、崩れた。


 澄羽はその音を聞いた。

 聞いたというより、胸で受け止めた。

 目尻がやわらかくほどけ、微かに頷く。


「やっと……見つけてくれたね――」


 世界が、ひとつ息をためる。

 風鈴の舌が、触れたか触れないかの短さで震え、

 灯籠の火が同じ高さで並ぶ。


 誰も泣かない。

 泣いたらほどけるから――そう教わったように、村全体が沈黙を抱いた。


 最初の風が、来た。

 白布の端が、羽の記憶を思い出す。

澄羽の髪が光を集め、糸束の一本一本が朝を吸う。


 その瞬間、彼女の輪郭は薄く、やさしく、

 光の繊維へとほどけはじめる。


 伸ばした手が、風の輪郭をなぞるだけで終わった。

 掴めないことが、こんなにも痛いのかと思った。

 けれど、その痛みさえも、彼女が遺してくれた“生”だった。


 ――ありがとう


 唇がそう形を作る。

 声は出ないのに、意味だけがこちらへ届く。


 掌の前を、新しい空気が通り抜け、

 指の隙間にやわらかな温度を置いていく。


 呼びかけようとした名が、風に変わる。

 子音は羽音になり、息は野へ出る道を覚えた。


 白はほどけ、光は上へ。

 澄羽の微笑は、その中に長く残った。


 風鈴が、今度は確かに鳴った。

 短く、澄んだ音。世界の最初の呼吸のように。


 彼女のいた場所に触れる。何も残っていない。

 けれど掌の中心で、糸の記憶がかすかに震えた。

 赤いものの手ざわりが、遠い体温のように。


 空を仰ぐ。白い繊維の光が、山の端へ流れていく。


 呼ぶ代わりに、胸の奥で言葉が結び目を作る。

 声にはしない。けれど、確かに届く言葉として。


 ――また、風が吹く日に。

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