「五日目」― 白のざわめき
朝のはじまりを告げる風は、村の角を曲がるたび、白いものの匂いを増していった。
今日は、空気が少し騒がしい。
広場の端──いつもは誰も寄りつかない白布の近くに、人の輪ができている。
輪の中心で、白が重なり合い、抱え込まれた呼吸のかたちだけが濃く見えた。
「白羽様、こちらを」
女たちの手が、澄羽の細い手首に白い帯を結んでいく。
荷を出す日の縄のように、正確で、容赦がない。
結び目が締まるたび、布の奥で息をためる気配がした。
糸のどこかが、わずかに軋む。
「……痛くないか」
声が、思っていたより近くで出た。
「平気」
澄羽は笑った。
笑いは形だけで、視線だけが助けを呼んでいる。
帯の白が肌の色を奪い、亜麻色の髪だけがかろうじて夏を残していた。
手を伸ばそうとした瞬間、老女の指が先に手首を掴む。
乾いた力が、切りつけるように制した。
「触れてはいけませんよ。白羽様は──風に還る方なのです」
「還る……?」
「そうすることで村は守られる。そうできるのは、この子だけ」
祝詞のようで、判決のような響きだった。
「やめてください!」
気づけば声が空を震わせていた。
輪の縁で、いくつもの視線がこちらに落ちる。
「白羽様の役目に、外の者が口を挟むのか」
吐き捨てるような声。拳を握る。
爪が掌に沈み、昨夜の一滴が喉奥で熱を取り戻す。
白へ向かう色は、いつだって速い。
澄羽が、小さく首を振った。
──大丈夫。
震える微笑みがそう告げていた。
その笑みが、どうしようもなく寂しかった。
「行こう」
誰に向けたのか分からない声。
けれど澄羽は、帯の結び目を庇うように片手で押さえたあと、その手をそっと差し出した。
「……うん。少しだけ、逃げよっか」
輪から抜ける。
白い視線が背を刺す。
風が細くなり、影だけが長くついてくる。
畦道を抜け、小さな川辺へ。
ここは風の通りがよく、白の匂いが薄い。
人の波から外れ、布ずれの擦過音が水音に溶けた。
坂の陰まで来て、同じタイミングで息を吐く。
手は離れたのに、指先の温度だけが残る。
「……ごめんね。止めてくれようとしたのに、わたし、何もできなくて」
「悪いのは君じゃない」
澄羽の肩が、羽化前の殻みたいに、小さく震えた。
「ありがとう。まだ、名前で呼べてもいないのに……」
言葉の端が、見えない糸に引っかかって切れる。
呼べないのはこちらも同じだった。
呼ぼうとすれば喉の奥で何かが拒んだ。
声にすることが、彼女の運命を確定させるようで、怖かった。
しばらく、二人で空を見ていた。
白い光の底で、風はあいかわらず細く、どこか遠い。
風の細さだけが、行き先を知っている。
◆
夜。
宿の紙障子がわずかに鳴るたび、耳の奥で針の音が応える。
──カツ
──カツ……
規則と不規則のあいだで、呼吸の形だけが続いている。
目を閉じると、指先に糸の滑りが戻ってくる。
気づけば、機織り小屋の灯が闇の底で淡く揺れている。
扉に掌を載せる。灯の温度が皮膚へ移り、脈の拍と重なる。
澄羽が机に向かい、静かな手つきで糸を送っている。
帯は外され、結び目の跡だけが手首に白く残っていた。
針が上がり、落ち、白の奥で赤の記憶が遠く光る。
昨夜吸い込まれた一滴──
あれはもう、ここで脈打つ一本になっている。
「……大丈夫か」
声にした途端、言葉が間違った形を取った気がして後悔する。
答えを持たない問いは、夜を裂くだけだ。
澄羽は顔だけこちらへ向けた。
月明かりが琥珀の瞳に触れ、涙が光る。
けれど、泣き声はどこにもない。
唇が、ひとつ、形を作った。
──いやだよ。
声にならない言葉。息だけの拒絶。
その一瞬を見てはいけなかった気がして、視線が揺れる。
名前を呼ぼうとして、喉が結ばれる。
呼べば、何かが決まってしまう。
澄羽は震える指で白布を握る。
「……わたし」
風より細い声がこぼれる。
「まだ、ここにいたいの」
それだけで胸の奥が溢れそうになる。
触れれば崩れてしまうと分かっている距離で、掌だけを近くに置く。
触れないことで、ここにいると伝える。
布の向こうで糸が鳴る。
生の音だ。残酷なほど、生々しい。
だからこそ、美しい。
二人の沈黙が夜を埋めていく。
針音が遠のき、風の往復だけになる。
灯が揺れ、世界の白がわずかに薄くなる。
夢はゆっくりと退いていき、目覚めの手前で、澄羽の唇がもう一度だけ動いた。
──いやだよ。
その無声が、いちばん大きな言葉だった。
目を開けると、天井の木目。
指先には昨夜の痛みはなく、耳の奥にだけ糸の余韻が残っている。
窓の外で、夜風がそっと襞を返した。
まだ、風はある。




