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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
一章・澄羽編
4/16

「四日目」― 風は語る

 その朝の風は、昨日よりも浅かった。

 いつもと同じ朝。けれど、澄羽の針の動きはどこか鈍い。

 肩のあたりで小さく息を詰まらせるたび、糸の音が途切れた。


「……少し休もうか」

 思わずそう言っていた。


 澄羽は糸を押さえたままこちらを見た。

 笑顔を作ろうとして、作りきれず、視線を落とす。


「休んじゃ、だめかな?」

「だめじゃ……ないけど」


「そうだね……。

 たまには羽を、伸ばさないとね──」


 その言葉のあと、糸がほどけるように、彼女の指が力を抜いた。

 織り機の上に置かれた布は、まるで生きものの呼吸のようにふくらみ、しぼんだ。


 二人で外に出る。

 いつもの土手ではなく、村を見下ろす小さな丘の上。

 そこだけ風が通り抜け、白布の匂いが薄くなる。


 澄羽は座り込み、両膝の上で手を重ねた。

 その姿を見ていると、織り手というより、ただの少女に見えた。


「こんなに空、広かったんだね」

「……空、見てなかったんだ?」

「見ちゃいけない気がしてた。

 見たら……行きたくなっちゃうから」


「どこへ?」

 澄羽は指で空をなぞる。

 その動きは、見えない糸を探すようだった。


「……上。

 飛んでみたいの。

 風になるんじゃなくて──自分の羽で」


 言葉に息を混ぜるようにして笑った。

 それは夢ではなく、“未来”という言葉を初めて形にした瞬間だった。


「飛べるさ」

「どうして?」

「根拠なんてない。でも……そうだったらいいと思う」


 澄羽は俯いて、唇の端を噛んだ。


「ずるいね、その言い方」

 そう言いながらも、声には微かな安堵が混じっていた。


 風が草の穂を撫でていく。

 亜麻色の髪が陽をすくい、その淡さは、まだ羽化しきれない繭の色に似ていた。


 ──昼はそれだけで終わった。

 言葉よりも、風のほうが多くを話していた。



 夜。

 眠る前に、耳の奥で“針の音”がした。

 閉じた瞼の裏で、糸がすべる気配がする。

 次に目を開けたとき、宿の天井はもう、どこにもなかった。


 風が白い。

 光も音も柔らかく歪み、輪郭のない夜が広がっている。

 機織り小屋の灯りが、遠くで淡く瞬いていた。


 ──夢だ、と分かっている。

 けれど、歩みを止められなかった。


 扉の前に立つと、布越しの光が肌に触れた。

 温かい。まるで息づいているようだ。


 中に入る。

 澄羽がいた。

 昼と同じ服装。けれど、髪の先まで夜の光を吸って、輪郭が少し透けて見えた。


「来てくれたんだね」

 澄羽は微笑む。

 夢の中の声は、やさしいのにどこか遠い。


 白布の前で、彼女が針を持ち上げる。

「これ、少し持っててくれる?」

 手のひらを差し出される。

 反射的に手を伸ばしてしまった。


 けれど──触れた瞬間、指先に痛みが走った。


 針の先が、ほんのわずかに皮膚を掠めた。

 音が消える。息が止まる。

 血の珠が、一滴。


 落ちる前に、それは糸に吸い込まれた。

 白布の奥で、細いひとすじが光った。


「……ごめん」

 反射的に謝る。

 だが澄羽は首を振らなかった。


 彼女の瞳が、赤に吸い寄せられていく。

 恐れと驚きと、そして──祈りのような静けさ。


「こんな色、初めて見た」

 囁く声が震える。

 その震えは、悲しみではなかった。

 生きているものだけが持つ温度だった。


「痛くない?」

「……平気」

「でも……血って、こんなに……あたたかいんだね」


 澄羽はそっと糸の上に手をかざした。

 触れたら消えてしまうと分かっている手つき。

 けれど、離せない。


「ねぇ」

 澄羽の声が、夜をすくう。

「わたしが……飛べるとしたら、見ててくれる?」


 その目には涙も笑みもなく、ただ、確かな“願い”があった。


 息が詰まる。言葉が出ない。

 だから頷いた。


「ここにいる。見えるところに」


 その瞬間、白布の奥で何かが脈打った。

 風がひとつ、長く息を吐く。

 灯りが揺れて、世界が少しだけ溶ける。


「ありがとう」

 澄羽は、微笑んだ。


 それが夢の言葉か、現の言葉か、分からなかった。

 ただ、胸の奥で何かが結ばれた感触だけが残った。


 視界が白く滲む。

 風の音が遠くなる。


 ──目を覚ますと、宿の天井。

 右手の指先に、小さな痛み。

 布団の上に、赤い染みが一滴。


 外では、風が吹いていた。

 息をするように。

 まるで、誰かの夢がまだ終わっていないみたいに。

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