「四日目」― 風は語る
その朝の風は、昨日よりも浅かった。
いつもと同じ朝。けれど、澄羽の針の動きはどこか鈍い。
肩のあたりで小さく息を詰まらせるたび、糸の音が途切れた。
「……少し休もうか」
思わずそう言っていた。
澄羽は糸を押さえたままこちらを見た。
笑顔を作ろうとして、作りきれず、視線を落とす。
「休んじゃ、だめかな?」
「だめじゃ……ないけど」
「そうだね……。
たまには羽を、伸ばさないとね──」
その言葉のあと、糸がほどけるように、彼女の指が力を抜いた。
織り機の上に置かれた布は、まるで生きものの呼吸のようにふくらみ、しぼんだ。
二人で外に出る。
いつもの土手ではなく、村を見下ろす小さな丘の上。
そこだけ風が通り抜け、白布の匂いが薄くなる。
澄羽は座り込み、両膝の上で手を重ねた。
その姿を見ていると、織り手というより、ただの少女に見えた。
「こんなに空、広かったんだね」
「……空、見てなかったんだ?」
「見ちゃいけない気がしてた。
見たら……行きたくなっちゃうから」
「どこへ?」
澄羽は指で空をなぞる。
その動きは、見えない糸を探すようだった。
「……上。
飛んでみたいの。
風になるんじゃなくて──自分の羽で」
言葉に息を混ぜるようにして笑った。
それは夢ではなく、“未来”という言葉を初めて形にした瞬間だった。
「飛べるさ」
「どうして?」
「根拠なんてない。でも……そうだったらいいと思う」
澄羽は俯いて、唇の端を噛んだ。
「ずるいね、その言い方」
そう言いながらも、声には微かな安堵が混じっていた。
風が草の穂を撫でていく。
亜麻色の髪が陽をすくい、その淡さは、まだ羽化しきれない繭の色に似ていた。
──昼はそれだけで終わった。
言葉よりも、風のほうが多くを話していた。
◆
夜。
眠る前に、耳の奥で“針の音”がした。
閉じた瞼の裏で、糸がすべる気配がする。
次に目を開けたとき、宿の天井はもう、どこにもなかった。
風が白い。
光も音も柔らかく歪み、輪郭のない夜が広がっている。
機織り小屋の灯りが、遠くで淡く瞬いていた。
──夢だ、と分かっている。
けれど、歩みを止められなかった。
扉の前に立つと、布越しの光が肌に触れた。
温かい。まるで息づいているようだ。
中に入る。
澄羽がいた。
昼と同じ服装。けれど、髪の先まで夜の光を吸って、輪郭が少し透けて見えた。
「来てくれたんだね」
澄羽は微笑む。
夢の中の声は、やさしいのにどこか遠い。
白布の前で、彼女が針を持ち上げる。
「これ、少し持っててくれる?」
手のひらを差し出される。
反射的に手を伸ばしてしまった。
けれど──触れた瞬間、指先に痛みが走った。
針の先が、ほんのわずかに皮膚を掠めた。
音が消える。息が止まる。
血の珠が、一滴。
落ちる前に、それは糸に吸い込まれた。
白布の奥で、細いひとすじが光った。
「……ごめん」
反射的に謝る。
だが澄羽は首を振らなかった。
彼女の瞳が、赤に吸い寄せられていく。
恐れと驚きと、そして──祈りのような静けさ。
「こんな色、初めて見た」
囁く声が震える。
その震えは、悲しみではなかった。
生きているものだけが持つ温度だった。
「痛くない?」
「……平気」
「でも……血って、こんなに……あたたかいんだね」
澄羽はそっと糸の上に手をかざした。
触れたら消えてしまうと分かっている手つき。
けれど、離せない。
「ねぇ」
澄羽の声が、夜をすくう。
「わたしが……飛べるとしたら、見ててくれる?」
その目には涙も笑みもなく、ただ、確かな“願い”があった。
息が詰まる。言葉が出ない。
だから頷いた。
「ここにいる。見えるところに」
その瞬間、白布の奥で何かが脈打った。
風がひとつ、長く息を吐く。
灯りが揺れて、世界が少しだけ溶ける。
「ありがとう」
澄羽は、微笑んだ。
それが夢の言葉か、現の言葉か、分からなかった。
ただ、胸の奥で何かが結ばれた感触だけが残った。
視界が白く滲む。
風の音が遠くなる。
──目を覚ますと、宿の天井。
右手の指先に、小さな痛み。
布団の上に、赤い染みが一滴。
外では、風が吹いていた。
息をするように。
まるで、誰かの夢がまだ終わっていないみたいに。




