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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
一章・澄羽編
3/16

「三日目」― 探す理由

 陽の色が少し淡くなった気がした。

 道端の白は昨日より増えている。洗い晒しの布が風を拾い、影だけが細く伸びる。

 地図は鞄の底で眠らせた。

 足は、調査のためではなく──会いに行くための道を覚えはじめている。


 土手に向かう途中、小さな社の軒先に人だかりができていた。

 長老と若い神職が古い木箱を出している。錠のかかった引き出し。祭具庫の鍵、と誰かが言った。


「見学、させてもらえますか」

 長老はこちらの顔を長く見つめ、それからゆっくり首を傾けた。


「見るのは自由だ。ただ、白糸に巻かれすぎんことじゃな……」

 返事の形をした拒絶。それでも瞳が、それを受け入れたがっていた。


 中は暗く、埃の匂いがした。白い巻物がいくつも立てかけられ、古い()が布に包まれていた。

 触れない距離で目を凝らすと、巻物の端に薄い墨の跡がある。

 読めるようで読めない字。名前に似ていて、名ではない。


 意味は分からない。

 けれど、全身を覆い尽くす圧迫感に耐えきれず、その場を立ち去ることにした。

 出口でふと振り返ると、巻物の端が風のない室内でわずかにめくれた。


 畦の角で、年老いた女が立ち止まらせる。


白羽(しらは)様、今日もよう働くわ」

 耳に残る呼び名。


「白羽様って」

「……あの子のことよ」


 女はそこまで言って口を閉じた。続きの形だけが唇に残り、風がさらっていく。


「会わんほうがええ」

 続きを飲み込んだ口元が、まるで罪を黙っている人の形だった。


 土手の先へ、風が視界をひらく。

 草の穂が笑うみたいに頭を振る。


「こんにちは」

「……来てくれたんだ」


 澄羽がいた。

 白い布を肩から下げ、空に背を向けて座っている。

 光に透けて、背中の輪郭が淡く震えている。


「昨日、言ってたよね……終わるって、どういうこと?」

「うまく言えないんだけど」

 澄羽は白布の端をそっと押さえた。


「糸だった頃のことを、全部忘れちゃうみたいに……

 自分がどこから来たのか、分からなくなるのかも」


 寂しさを滲ませながら、彼女は微笑む。

 その笑みはどこにも寄りかからない──

 少しの風でも崩れてしまいそうだった。

 冗談にしては、あまりにも切なかった。


 風が通る。

 布がふわりと浮き、

 影が一瞬、何かの形を思い出そうとした。


 瞬きをしたら、ただの布だった。

 影は消えて、風だけが残った。


「……あなたは、どこから来たの?」

「大学の卒論のために、取材に来たんだ」


 澄羽は「大学」という単語が分からないように首を傾げた。

 世界が狭いのではない。

 知る必要もないのだろう。


「もし、織らなくていい日があれば、何がしたい?」

「うーん……」


 澄羽は言葉に詰まった。

 考えたことすら、ないのだろう。


「……ほんとはね。

 空、飛んでみたいの」


 地面は、まだ手放せないままだった。


 外の世界を知らない少女──

 その夢は、あまりにも、

 残酷なほどに純粋だった。



 夜。

 宿は静かで、湯呑の湯気だけが言葉を持っている。

 手帳を開く。行間が広い。文字は少ない。今日の“見たいもの”はページを拒む。

 襖の隙間を風が撫で、紙がわずかに鳴った。


 ──カツ


 乾いた小さな音。

 針が布目を数える音に似ている。ひと呼吸遅れて、胸が鳴る。

 音のほうが、先に知っている。

 目を閉じる。暗さの質が変わり、土の匂いが近づく。


 気づけば、土手の気配がある。風は弱く、世界は白に淡く縁取られている。


「来たんだね」


 声。昼と同じ高さだが、夜の重さが少し混じる。

 振り向くと、澄羽が草の上に膝を折り、布を抱えている。月の光が薄い繊維を透かし、影が形を思い出そうとして、すぐ忘れた。


「どうして、ここに」

 言葉に出して、胸の奥がざわつく。訊く必要のない問いを、訊かずにいられない。


「わたしは、あなたが呼んだのだと思ってた」

「……呼んだ?」


「ううん。違うのかな」


 彼女は何かに気づきかけ、その先を言わない。

 “呼ぶ/呼ばれる”が足もとで交差する。踏む場所を間違えると、崩れてしまう橋の上。


「こんなこと、だめなのにね」


 自分に言い聞かせる声。

 白布が淡く揺れた。

 夜の底で、細い糸が呼吸している。

 その鼓動は、確かに、いまここにある生だった。


 視界が、ひととき白で途切れる。

 瞼の裏で、風が止まりかけ、すぐまた動いた。

 目を開けると、天井の木目が戻っている。

 針音だけが、耳の奥で続いていた。


 明日も、行く。

 ──終わりを知らないふりを、まだ続けたい。


 そう思った。

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