「三日目」― 探す理由
陽の色が少し淡くなった気がした。
道端の白は昨日より増えている。洗い晒しの布が風を拾い、影だけが細く伸びる。
地図は鞄の底で眠らせた。
足は、調査のためではなく──会いに行くための道を覚えはじめている。
土手に向かう途中、小さな社の軒先に人だかりができていた。
長老と若い神職が古い木箱を出している。錠のかかった引き出し。祭具庫の鍵、と誰かが言った。
「見学、させてもらえますか」
長老はこちらの顔を長く見つめ、それからゆっくり首を傾けた。
「見るのは自由だ。ただ、白糸に巻かれすぎんことじゃな……」
返事の形をした拒絶。それでも瞳が、それを受け入れたがっていた。
中は暗く、埃の匂いがした。白い巻物がいくつも立てかけられ、古い杼が布に包まれていた。
触れない距離で目を凝らすと、巻物の端に薄い墨の跡がある。
読めるようで読めない字。名前に似ていて、名ではない。
意味は分からない。
けれど、全身を覆い尽くす圧迫感に耐えきれず、その場を立ち去ることにした。
出口でふと振り返ると、巻物の端が風のない室内でわずかにめくれた。
畦の角で、年老いた女が立ち止まらせる。
「白羽様、今日もよう働くわ」
耳に残る呼び名。
「白羽様って」
「……あの子のことよ」
女はそこまで言って口を閉じた。続きの形だけが唇に残り、風がさらっていく。
「会わんほうがええ」
続きを飲み込んだ口元が、まるで罪を黙っている人の形だった。
土手の先へ、風が視界をひらく。
草の穂が笑うみたいに頭を振る。
「こんにちは」
「……来てくれたんだ」
澄羽がいた。
白い布を肩から下げ、空に背を向けて座っている。
光に透けて、背中の輪郭が淡く震えている。
「昨日、言ってたよね……終わるって、どういうこと?」
「うまく言えないんだけど」
澄羽は白布の端をそっと押さえた。
「糸だった頃のことを、全部忘れちゃうみたいに……
自分がどこから来たのか、分からなくなるのかも」
寂しさを滲ませながら、彼女は微笑む。
その笑みはどこにも寄りかからない──
少しの風でも崩れてしまいそうだった。
冗談にしては、あまりにも切なかった。
風が通る。
布がふわりと浮き、
影が一瞬、何かの形を思い出そうとした。
瞬きをしたら、ただの布だった。
影は消えて、風だけが残った。
「……あなたは、どこから来たの?」
「大学の卒論のために、取材に来たんだ」
澄羽は「大学」という単語が分からないように首を傾げた。
世界が狭いのではない。
知る必要もないのだろう。
「もし、織らなくていい日があれば、何がしたい?」
「うーん……」
澄羽は言葉に詰まった。
考えたことすら、ないのだろう。
「……ほんとはね。
空、飛んでみたいの」
地面は、まだ手放せないままだった。
外の世界を知らない少女──
その夢は、あまりにも、
残酷なほどに純粋だった。
◆
夜。
宿は静かで、湯呑の湯気だけが言葉を持っている。
手帳を開く。行間が広い。文字は少ない。今日の“見たいもの”はページを拒む。
襖の隙間を風が撫で、紙がわずかに鳴った。
──カツ
乾いた小さな音。
針が布目を数える音に似ている。ひと呼吸遅れて、胸が鳴る。
音のほうが、先に知っている。
目を閉じる。暗さの質が変わり、土の匂いが近づく。
気づけば、土手の気配がある。風は弱く、世界は白に淡く縁取られている。
「来たんだね」
声。昼と同じ高さだが、夜の重さが少し混じる。
振り向くと、澄羽が草の上に膝を折り、布を抱えている。月の光が薄い繊維を透かし、影が形を思い出そうとして、すぐ忘れた。
「どうして、ここに」
言葉に出して、胸の奥がざわつく。訊く必要のない問いを、訊かずにいられない。
「わたしは、あなたが呼んだのだと思ってた」
「……呼んだ?」
「ううん。違うのかな」
彼女は何かに気づきかけ、その先を言わない。
“呼ぶ/呼ばれる”が足もとで交差する。踏む場所を間違えると、崩れてしまう橋の上。
「こんなこと、だめなのにね」
自分に言い聞かせる声。
白布が淡く揺れた。
夜の底で、細い糸が呼吸している。
その鼓動は、確かに、いまここにある生だった。
視界が、ひととき白で途切れる。
瞼の裏で、風が止まりかけ、すぐまた動いた。
目を開けると、天井の木目が戻っている。
針音だけが、耳の奥で続いていた。
明日も、行く。
──終わりを知らないふりを、まだ続けたい。
そう思った。




