第一章・澄羽「二日目」― 白い村
朝。
目覚めた瞬間、胸の奥で一度だけ風が鳴った。
その音だけが夢の名残で、その他の記憶は白く溶けていく。
昨日の足跡をたどるように、村を歩く。
表札に刻まれた苗字はどれも古く、読み方が曖昧なものばかりだった。
家々の前に揺れる布──やはり白。どれも少し重く、光の中で影を孕んでいる。
干された布の端に指を伸ばしかけて、やめる。
「生きてるから」と言われた一言が、皮膚の内側に残っている。
広場では、針を売る老人がまた木箱の前にいた。
今日の針は昨日より少し光って見えた。
錆か光か判別のつかない、曖昧な色。
「これは……特別な針なんですか」
「特別ではない。ただ、その先にいるものが特別なのだよ」
「先?」
「織り重なる命は、糸を選ばん」
老人はそれ以上、口にしなかった。
言葉の意味を測りかねるまま、礼をしてその場を離れる。
村人たちはこちらを見ない。
見ないことで、何かから目を逸らしているように見えた。
土手に着いたとき、胸の鼓動がひとつ跳ねた。
──いた。
昨日と同じ白布を抱え、針を布に通している。
指先は細いのに、動きは迷いがない。
風に揺れる亜麻色が陽を受けて、繊維の束のようにほどけ、また結ばれる。
「昨日の……」
こちらに気づき、澄羽は少しだけ肩を縮めた。
「見に来たの?」
「……いけないかな?」
「ううん。来てくれて……ありがとう」
澄羽の目に、ほっとした色と、怯えの影が同居する。風が布の襞をめくり、裏の暗がりが一瞬だけ形を持った。
それは──羽のかたちに似ていた。
瞬きを挟むと、ただの布に戻る。喉が乾く。
「それ……何のために織ってるんだ」
「祈るため、かな……多分」
曖昧な答え。
しかしその指先は迷いなく布を進める。
“知っている身体”と“知らない心”が乖離しているようだった。
「祈るって……誰のため?」
針が止まり、彼女の視線が布の向こうへ落ちる。
「分からない。でも、織らなきゃいけないの。
みんな、それが“わたし”だって言うから」
“わたし”が、布と同列に置かれる。言葉の手触りが、少し冷たい。
「怖くない?」
「怖いって、何が」
「わたしの……抱えてるもの」
昨日より近い場所から発される問い。
怖いのは自分ではなく、“怖いと言われること”。その差を、今日の声は知っている。
「怖くないよ」
答えると澄羽の目がほどける。でも怯えたように、目を細めた。
「ねぇ……今日も来てくれたんだね」
その言葉は、確認でも、感謝でもなく──
少しの驚きと、少しの期待と、少しの救い。
「名前……まだ、言ってなかったね」
「ううん、いまは……いいの」
針の音が一瞬止まる。
風が草を撫でた音だけが残る。
澄羽は、小さく息を吸った。
「ほんとはね、話したいこといっぱいあるんだよ」
「聞かせてよ」
「でも、全部言ったら──終わっちゃう気がして」
彼女の指は止まらない。言葉だけが躊躇し、針のほうが先に進む。
終わり、という語が胸の中で輪郭を持つ。触れると切れる刃のように、つやつやと光る。
彼女の“終わり”を否定しないことが、いまの慰めだと思った。
「じゃあ……少しずつ教えてくれよ」
「……うん」
澄羽の笑顔が、ほんの少し救われた。
◆
宿に戻ると、女将が湯のみだけを置いていった。
「今日もお疲れさまです」と言う代わりに、湯気が言葉を担っている。
メモ帳を開く。
白布の揺れ。少女の問い。「終わっちゃう」。
記録したい言葉はあるのに、言葉にした途端に嘘となる感触が指にまとわる。
夜風が襖を揺らす。
ほんのわずかな隙間から、涼しさと匂いが忍び込む。
──カツ
──カツ……
乾いた、小さな音。
針が布の目を縫っている音に似ている。
昼間の澄羽の手元と、夜の闇が重なる。
耳を澄ますと、音は寝息のように不規則。
“生きているものの鼓動”に近い。
窓の外では、白い影がひらりと揺れた──気がした。
眠気か、風の悪戯か、それとも。
横になる。
瞼を閉じる前に、胸の奥を小さく掻くような痛みが走った。
──終わりなんて、今は信じたくない。
そう思った瞬間、瞼の裏に光の線が走った。
夢でもなく、現実でもない境界で、
布の影が羽ばたいたように見えた。
風の音が、ほんの少しだけ止まった。




