「最終詩」― ミヌシロ
――朝が、白くほどけていった。
白いと言っても、陽の白ではない。
夜の終わりを告げる、薄明の白でもない。
夜の残り香が光に溶けきらず、薄い膜になって部屋の輪郭へ貼りついている。
その膜は、布のように軽いのに、肌へ触れるとひどく重い。
繭の内側の白だけが先に目を覚まし、
外側の世界はまだ、眠りの底で息をひそめている――そんな白さだった。
目を開けると、機織り小屋の天井がそこにあった。
木の梁の節目。糸車の影。油皿の縁に残った煤の輪。
床板には、どこかで聞いた鼓動みたいな軋みが残り、
それが遠い針音の残響と重なって、胸の奥へ遅れて届く。
昨夜がここに“あった”ことだけは、いやに丁寧に残されている。
灯芯の焦げは黒い点として白に刺さり、白布のしわは谷になって床を走る。
谷の底にはふたり分の呼吸のずれが、まだ薄い湿り気みたいに沈んでいる。
指先が、無意識にその影をなぞろうとして伸びる。
触れれば確かになる。
確かになった瞬間、針が布を貫くみたいに、失うことが現実へ縫い留められてしまう――
そんな予感がして、指が止まった。
――祈織がいない。
目が受け取るより早く、身体のほうが先に知ってしまう。
夜のあいだ、どこかで重なっていたはずの影が、いまは不揃いに裂けている。
裂け目から冷たい空気が入ってくるのではなく、
祈織がいた場所の温度だけが、ほどけて落ちていった。
視線が小屋の隅へ滑る。
房飾りの白糸が揺れた記憶が、まだそこに残っている――
そう錯覚するほどに。
けれど、空気は動かない。
風のない朝。
動かないものの中で、残り香だけがむしろ鮮やかに“いない”を際立たせる。
夜の名残のぬくもり。
髪の淡い匂い。
白布の重さが引いていったあとの、床板の頼りない軽さ。
それらが、ひとつずつ“ここに居た”という縁を縫ってくる。
縫われるほどに、“いまは居ない”ことが輪郭を持ってしまう。
胸の奥で、小さな引きが生まれる。
引かれた糸は戻り道を忘れる。
どこに結ばれているかは分からない。
皮膚の上ではなく、心の内側――もっと言葉にならない場所に、小さな硬さができている。
ほどけない夜の残骸。
触れれば痛むのに、触れないと消えそうな手応え。
床板が、わずかに軋む。
起き上がった拍子ではない。
小屋のどこかが、遅れて息を吐いたような音だった。
視線が先に探す。
白い布の影。
ふたり分の形を曖昧にしていた呼吸。
けれど、機織り台の上には、空の白だけが横たわっていた。
織りかけの白もない。
白に走っていた、ほのかな赤の筋も。
糸の気配さえ、掬えないほど薄い。
白が消えたのではない。
白の“中心”だけが、先へ運ばれてしまった――そんな感覚が喉の奥に貼りつく。
抜け落ちた場所だけが、まだ息をしているように見えた。
『――大丈夫。あなたは、きっと来てくれるから』
どこか遠い声が、膜の裏から聞こえた気がした。
夢の残り香なのか、記憶の反射なのか分からない。
ただ、その言葉だけが、いまの自分を動かすための糸になってしまう。
これが“夢”なら、覚めなければよかった。
「まだ眠るには、早すぎるだろ……!」
声は、言い切る前に空気へ吸われた。
名が舌先まで滲むたび、口の内に薄い膜が張る。
音にした瞬間、喉の奥で結び目が固くなる。
固くなったものは、いつか誰かの今日を縛ってしまう。
――それでも。
探す理屈が生まれるより早く、足が床を蹴っていた。
戸を開ける。
外気が白い膜のように肺の奥へ落ちてくる。
呼吸の合わない朝だ。
◆
村へ出ると、音が抜けていた。
澄羽が風になった日を思い出す。
空は澄んでいるのに、村のざわめきだけが早く目を覚ましていた朝。
白布が軒先でいっせいに息をし、風鈴が鳴るべき音を忘れ、
誰もが“見送った”ことを、声ではなく沈黙で共有していた。
軒先を見上げる。
――白布が、ない。
昨日まで当たり前のように並んでいた白い影が、ことごとく消えている。
干し竿だけが空を指し、そこへかつて白があったことを示す。
生活の白が抜け落ち、祈りの白だけが先に剥がされたような空。
風は、村からやわらかく退いていった。
広場へ出る。
――人影が、ない。
空っぽの広場は、白い朝に晒されているのに影だけが濃い。
ここにあった畏れの声も、崇敬の濁りも、
すべてが引き潮みたいに去っている。
胸骨の内側は、まだ昨夜の密度を持っているのに、
外の世界だけが、一足先に現実の顔をしている。
そのずれは、
こちらと向こうを繋いでいた薄い支えを、
そっと抜き取ってしまった。
風鈴はぶら下がっているのに、舌が触れ合わない。
まるで誰かの“導き”を待っているかのように――
――カツ
――カツ……
◆
音を追いかけるように走り出す。
鼓動は早いのに、世界の方が遅れている。
針が布を数える音。
村の白を縫い留めてきた手つきの残響。
音はあるのに、針はどこにもない。
代わりに、胸の中の焦りが、行き先のない布を探している。
白羽神社の石段が見える。
先に向かうべき場所が分からないとき、脚は知っている場所へ向かっていく。
違う――迷っているのは道ではない。
行く先を見失っているのは、自分の心のほうだ。
還る場所が見つかった今も、風の止んだ世界で、まだ誰かを探している。
『あなたが覚えていてくれるなら――それでいいかな』
“明日”を知ってしまった夜の残響。
「約束、したんじゃないのか……!」
叫びは、石段の途中で薄く割れた。
境内の空気は冷たい。
記憶の冷たさ――失われたあとの透明な寂しさ。
鳥居は、いつもより赤くない。
赤は朝に溶け、輪郭だけが残る。
ふっと水の匂いが混じる。
藍に沈んだ余白の匂い。
澪の呼吸が、こんなときだけ遠くから戻ってくる。
境内には、何もない。
灯籠も、影も、祈りの痕も。
ただ一度、草の先だけが、同じ方角へ僅かに傾いた。
◆
地図は鞄の底で眠らせた。
足は、調査のためではなく──会いに行くための道を覚えはじめている。
走るほどに、村の輪郭が薄くなる。
白布が消えた分だけ空は広い。
それなのに、息は詰まる。
胸の内側にだけ、昨夜の白がまだ張りついているからだ。
雲が低い。
陽はあるのに、輪郭が曖昧だ。
繭の内側みたいな白が、まだ外へ破れきらない。
『飛んでみたいの。
風になるんじゃなくて──自分の羽で』
手を伸ばせば届きそうな空。
届かないことを知っている空。
「……怖がりなくせに」
呟きは誰に向けたものか分からないまま落ちる。
風が拾わない言葉は、土に染みて、遅れて胸へ戻ってくる。
◆
丘へ出た瞬間――風がひとつ、ゆっくり息を吐いた。
強い風ではない。
木々を揺らすほどでも、雲を追い立てるほどでもない。
ただ、空気の層が一枚、静かに入れ替わったような感覚だった。
澄羽がかつて空を指さした場所。
「飛んでみたい」と言葉をほどいた場所。
その記憶が、地面の傾斜や草の踏み心地にまで染み込んでいる。
丘の先端に、ひとつの白があった。
淡い桃色の髪が、朝の白に溶けている。
房飾りの白糸だけが、風のわずかな動きに応じて、遅れて揺れた。
背中は小さい。
けれど、その背中が背負っているものは、丘の空気よりも深い。
「起きてしまったんですね」
祈織は振り返らずに言った。
責める声でも、驚く声でもない。
丘の先――空の白い縁を見たまま、ゆっくり言葉を結ぶ。
「……間に合ったか」
言葉は、喉の奥で一度絡まり、ようやく外へ出た。
声にした途端、胸の内側の糸が、ひとつ張る。
「ええ。約束――してくれましたから。
飛べるって、信じてくれましたから……」
祈織が振り返る。
その瞳には、空の白だけではないものが映っていた。
澄羽を照らした陽の光。澪が沈んだ水の藍。
そして、それらを包んできた白の中心。
三つが境目なく、けれど確かに重なっている。
「……ああ。飛べるさ、必ず」
丘の記憶が、胸の奥で静かにほどけた。
足もとをすり抜けた風が、視線だけをそっと空へ押し上げる。
風はまだ、名前のないものを運ぶ。
「最後に、お伝えしたいのです」
祈織の指先が、懐へ触れる。
そこには見えない布がある――とでも言うみたいに。
「白羽がもつ……本当の名を」
風が、遠くの谷を撫でる。
見えないはずの水面が、呼吸する気配だけを運んでくる。
風だけが、祈織の白に触れて、また離れる。
「身代りの白。
それは、命を繭にして、この村の夢を支えるための器。
祈りも記憶も、ほどけないよう繭の内側へ閉じ込める。
その天命の翼となる存在――それが“白羽”」
言葉の端が、糸の端みたいに細く震える。
震えは恐れではなく、ほどけないための揺れだ。
「そして……」
祈織は静かに息を吸う。
白い朝の中で、その吸気だけがひとつの儀のように整っていく。
針に糸を通す前の、あの一拍の静けさ。
「――ミヌシロ」
名は、朝の白の中でいっそう白く響いた。
白い膜を破るのではなく、膜の内側から、ゆっくりと染み出してくる音。
まだ名もない何かが、居場所を見つけた音。
「いつしか忘れられた、本当の名。
白羽も、白織も……その衣を着せられた姿」
祈織は、丘の端へ一歩だけ近づく。
足もとで草が擦れた。
音は小さいのに、村の底へ針を落としたみたいに、遅れて深く響く。
空は白い。
けれど、その白は“始まりの白”ではなく、
繭がほどける直前の白――終わりの入口にある白だった。
「この村は……ずっと、夢に留まっていました」
白羽の庭の静けさが蘇る。
切り株の輪。眠っている白。触れた指先に残った、木の年輪の冷え。
あそこは“場所”ではなく、積み重なった呼吸の層だった。
「夢は、やさしい。
やさしいから……人は、そこで眠ってしまう」
祈織の声は責めていない。
救っているわけでもない。
ただ、針が布の中心へ向かうように、避けられない線を示していく。
「村が夢に留まったのは……怖かったからです。
外の時間へ……戻るのが」
風がまたひとつ、吐かれる。
吐かれた風は村へ降りず、祈織の房飾りの白糸だけを揺らして消えた。
――風は、まだ彼女にだけ反応する。
「村の人々は、糸を信じました。
糸は切れても……結び直せる。
でも命は、いちど終わると戻らない」
丘の上で、言葉が薄く震える。
震えは恐れではなく、重さを測っている揺れだった。
持ち上げた白を、落とさないための。
「だから、命を糸にして――布に、残したのです」
祈織の指が、胸元の見えない結び目を確かめる。
そこにあるのは、布の端ではなく、これまでの“誰かの端”。
結ばれた端はほどけない。
ほどけない端があるから、村はまだここにある――老人の言葉が、ようやく意味の中心へ落ちる。
「白羽様――
それは、この村でいちばん清らかな娘に、白い役目を与えました」
清らか、という言葉が、喉に刺さる。
清らかであることが、救いではなく、選別の刃になる村。
その刃は血を流さず、ただ“順番”だけを刻む。
「……澄羽様と澪様がいて、わたしがいる。
そして、わたしがいるから――あなたがいる」
「えっ……」
その言葉が、風のない朝に針を落とす。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
痛みは血の記憶に似ていて、血は糸の記憶に似ていた。
「あなたは、夢の外から来た方……。
わたしたちが、風になった“証”」
――証。
何の、ための……。
命を、つなぐための……?
問いが言葉になる前に、祈織が微笑んだ。
それは達観ではなく、縫い留めの笑みだった。
「じゃあ、君たちはもう……」
「ええ。望んだことですから」
触れないのに触れてしまう距離で、白の向こうから一拍ずつ届いてくる。
その鼓動は、確かに、いまここにある生だった。
「わたしにとって……。
“天命”ではなく“使命”であると、信じているのです」
「――だから」
祈織は、懐へ手を差し入れる。
取り出したのは布ではない。
白い布の“中心”から抜き出されたような、細い赤。
「……返します」
糸だった。
赤い糸は光を吸い、
赤であることを、ゆっくり忘れていく。
血の色でもなく、繭へ戻りかけた白い色。
“軽い”のに、“重い”。
祈織の指先が、糸の端をそっと持ち上げる。
針穴へ通す前の、あの慎重さ。
糸は震えない。
震えているのは、丘の空気のほうだった。
「あなたの、命の糸を……」
糸が、こちらへ差し出される。
祈織の声は優しいのに、拒めない。
数歩のはずの距離が、白い層を一枚ぶん余計に挟んでいる。
伸ばした手が、空を掴むみたいな距離。
指先が触れる。
触れた瞬間、糸はあまりにも軽い。
軽いのに、掌の内側に白い膜が一枚、静かに貼りつく。
それは祈りの重さで、言葉にすれば裂けてしまう。
祈織の背で、白がふっと揺れた。
白布ではない。
雲でもない。
――翅の輪郭。
蚕が羽になるため、繭の内側で準備していた“最後のかたち”。
羽はあるのに、飛ぶ時間がほとんどない。
それでも飛ぶ。
飛ぶためではなく、還るために。
白がほどける。
消えるのではない。
糸が布になるときの、あの静かな移り変わり。
ほどけた白が、空気の目に縫い込まれていく。
白い翅の輪郭が、いちどだけ大きく広がった。
その瞬間、胸の内側の結び目が耐えきれず、音になった。
「澄羽――!」
声が空へ刺さる。
刺さったまま、戻らない。
「澪――!」
水の匂いが、遅れて喉の奥へ上がってくる。
藍の底で呼吸していた波紋が、いま丘の上で形を持つ。
「祈織――!!」
最後の名を叫んだとき、掌の中の糸がかすかに熱を持った。
祈織の輪郭が、白の中心へ溶けていく。
溶けていくのに、消えない。
消えないまま、ほどけていく。
風がひとつ、丘を越えて村へ降りた。
その風はもう、祈織にだけ反応しない。
掌の中で、赤い糸が小さく擦れた。
擦れた音は聞こえない。
けれど皮膚の内側で、針が布を数える拍だけが一拍、遅れて鳴る。
――カツ……
それが、最後の儀の合図みたいに胸へ落ちた。
糸は軽い。
軽いからこそ、祈りの重さだけが遅れて残った。
握りしめれば千切れてしまいそうで、開けばどこかへ滑り落ちてしまいそうで、
どちらにもできない手つきのまま、ただそこに置く。
頬を風が撫でる。
冷たくも、温かくもないぬるさ。
ただ、体温が現実へ戻る途中で、頬の表面に薄い水の膜がひとつできただけ。
その膜が乾く前に、呼吸だけが先に整ってしまう。
そして、それがいちばん痛かった。
◆
それから、いくつかの朝と夜が、
ほどけた糸のあいだを辿るように、静かに重なった。
けれど、その指先にはもう、数の感触が残らなかった。
時間は、引き留めるための糸ではなく、
ほどけたあとの白をなぞりながら、淡々と、しかし確かに前へ進んでいる。
――村は、少しずつ呼吸を取り戻していた。
軒先に白はない。
祈りのための白ではなく、生活の白だけが、必要なぶんだけ現れては消える。
濡れた布は乾き、乾いた土はまた湿る。
風はどこへも導かず、ただ通り過ぎていく。
その穏やかさが、少しだけ薄くて、指に引っかからなかった。
村はずれの停留所。
地図の端で、名前だけを残している場所。
ひび割れたベンチは低く、
腰を下ろすと、地面の冷えがそのまま背中へ伝わる。
人を待つためではなく、時間がいったん息を置くための場所のように。
空は白い。
けれど、それは繭の内側の白ではない。
破れたあとに残る、名も持たない白だった。
風が、ベンチの下をくぐり抜ける。
導かない風。
それでも、草の先が一度だけ、遅れて揺れた。
掌の中で、糸が静かに触れる。
軽い。
指の内側に触れているはずなのに、重さだけが、どこにも残らない。
それでも、指を離すという考えだけが、どこにも浮かばなかった。
遠くで、重たい音が生まれる。
風でも、水でも、針でもない音。
現実だけが持つ、硬さのある振動。
バスが見える。
車体が風の膜を薄く裂き、
遅れて、タイヤの湿った音が地面をなぞってくる。
空はまだ白いのに、その白がいま、現実の硬さで切り分けられていく。
扉が開く。
声が落ちる。
意味だけが、確かに届く。
足が、前へ出る。
その瞬間、掌の糸が、わずかに温度を帯びた。
体温ではない。
誰かの時間が、遅れて届いたような熱。
走り出したバスの窓から、村が遠ざかる。
丘も、庭も、もう見えない。
けれど、欠けた感触は残らなかった。
欠けたはずの場所に、風だけが静かに通っていた。
糸を、指でなぞる。
結び目はない。
ほどけてもいない。
ただ、ここにある。
繋がっているかどうかを、確かめなくてもいい“かたち”で。
今日の現実は、まだ終わっていない。
だから、明日も続きの頁をめくっていく。
――それは、ひとつの命をめぐる、祈りの記録。




