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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
三章・祈織編
15/16

「第三詩」― ほどけない夜

 白羽の庭を出るとき、風はまだ弱いままだった。

 けれど、行きよりもわずかにぬるく、

 肌に残る冷えを指先でならしていくような、薄いあたたかさが混じっている。


 村へ戻る道は、来たときと同じはずなのに、足もとが別の場所のように感じられる。

 桑の根の名残が押し上げた土。刈り揃えられた草の切り口。白布の落とす翳り。

 一度言葉になってしまったものは、もう以前の沈黙には戻れない。

 舌の奥にはまだ、あの神託の余韻だけが、かすかにざらついていた。


 隣を歩く祈織の房飾りが、時折、ほそく鳴る。

 風は相変わらず弱い。鳴らすには足りないはずの風の中で、糸だけが遠くの気配に触れているように揺れていた。


「……苦しくは、ありませんか」


 足もとを見つめたまま、声が落ちてくる。

 白と影の境目を追うまなざしが、砂の上に文字を書くみたいに、あてもなくさまよっている。


「知ってしまうことは、いつだって苦しいものですから」


 白羽の庭で告げられた言葉が、胸の奥で重なり合う。

 命を糸にして、布に織り込むということ。

 布が完成すれば、ひとつの命が終わるということ。


 それを知る前と後で、この村の白は本当に同じ色を保ち続けているのか。

 あるいは、見ている目のほうが、もう元の白には戻れなくなっているのか。


「苦しいかどうかは……まだ分からない」


 喉に引っかかった言葉を、一つずつほどくように口の外へ押し出す。

 そのあいだも歩みは乱れず、草を踏む音だけが、ふたりの足取りをそろえるように続いていた。


「でも、知らないままでいるほうが怖いこともあると思う。

 ……それが、今なら分かる」


 言葉にしてしまった瞬間、胸の内側で遅れていた頷きが追いついてくる。


 空気に沈んだ余韻のあと、彼女の横顔がゆっくりと上がった。

 瞳には、山の端へ沈みゆく夕暮れの色が淡く差しこみ、

 白い布を渡る光が、その奥で水面の反射のように揺れていた。


「そう、ですね」


 胸元で小さく息を整え、顎がわずかに上下する。

 それに合わせて、房飾りの白糸が一拍遅れて揺れ、耳元でほつれかけた祈りを結び直すように鳴った。


「知らないことは、ときに優しい眠りになりますけれど……

 眠り続けてしまえば、夢は夢のまま。

 祈りも、届く場所を見つけられません」


 落ち着いた声が、道の上に静かに敷かれていく。

 それは諦めの底から立ち上がったものではない。

 長く続いた痛みの上に、やっと降り積もった薄い雪のような静けさ。

 触れれば崩れてしまいそうなのに、包み込むことを拒まない温度を帯びていた。


「あなたは、夢の外から来た方です」


 白い布の並ぶ方角へ視線を逃がしながら、唇が言葉を結び足していく。

 ひとつひとつの音を、ほどけないように留めていくみたいな慎重さがあった。


「それでも夢の中に、こんなにも深く入ってきてくださった。

 ならば、知るところまで知ってくださったほうが……わたしたちも、眠りやすいのです」


 “わたしたち”。


 その言葉が、細い糸のように胸の奥へ絡まり、引っかかる。

 問いかける前に、その重さだけが先に伝わってきた。


「……君は、一人じゃないんだな」


 唇からこぼれた声は、問いというより、目の前の事実にそっと触れて確かめる手つき。


 祈織はわずかに目を見開き、肩の力をほどくように柔らかな笑みを浮かべる。

 笑みの線より先に、まぶたの震えが胸の深いところに届いた。


「ええ。一人ではありません」


 房飾りの白糸が、静かな肯定に応じるように揺れる。

 風よりも、内側から立ち上るものに引かれているような揺れ方だった。


「わたしの中には、いくつかの糸が、結び目を作っているのです」



 機織り小屋に戻るころには、陽は山の端へ半分ほど沈んでいた。

 戸口の手前で足が止まり、薄闇の向こうで、白い布が細く長く呼吸している気配が伝わってくる。


「中へ、どうぞ」


 促す声に従い、敷居をまたぐ。

 木の床には、昼間の熱がわずかに残っていた。

 畳とは違う素朴なぬくもりが、足裏から静かに上がってくる。


 機織り台の上には、織りかけの布が横たわっている。

 これまで見てきたどんな布とも違う。

 より深く、より細かく、幾度も織り重ねられた白。

 密度が高いのに光をよく通し、その光さえも祈りの一部に変えてしまいそうな気配をまとっていた。


「……見て、いただけますか」


 細い指先が、布の端をそっと持ち上げる。

 白の層の間に、細い筋が一本だけ走っていた。


 赤とも、桃とも、あるいは光の加減とも言える、ほのかな色。

 目を凝らさなければ見過ごしてしまうほど細いのに、不思議とそこへ視線が吸い寄せられる。

 見つけてしまった瞬間から、目のほうが縫いとめられてしまったようだった。


「これは――」


 喉の奥で、自然に言葉がほどける。


「はい。あなたの糸です」


 祈織の手が布から離れ、胸元へと引き寄せられる。

 引き寄せた指が、見えない結び目を確かめるように止まった。


澄羽すう様が受け取って……

 みお様が託して……

 わたしのところまで届いた、あなたの命の糸」


 胸の奥に鋭い疼きが走る。

 針の先が掠めた夜の痛みと、細く赤い線が繋がる記憶。

 夢と現実の境目で指先を切り、白に吸い込まれていった一滴。


 あの瞬間に手放したものが、別の姿を得てここまで旅をし、

 この布の中でまだ消えずにいる。


「……“あなた自身”は、忘れてしまっているかもしれません」


 穏やかな声が、話の続きを運んでくる。

 責めるでもなく、咎めるでもなく、ただ布の表面を撫でるように事実の輪郭だけを示していた。


「でも、この糸は覚えています。

 あのとき、怖くないと言ってくださったことも。

 ここにいる、と言ってくださったことも」


 澄羽の笑顔と、澪の沈んだ瞳が、白の奥で淡く重なり合う。

 空を飛びたいと願った声。

 水の底から何度も手を伸ばした温度。


 それらがすべて、この一本の中で呼吸している。

 息をするたび、胸の奥でその鼓動がそっと重なっていく。


「わたしは、ただ“預かっている”だけなのです」


 赤い筋に触れないよう、指先がそっと手前で止まる。


「澄羽様の命。

 澪様の記憶。

 そして、あなたの祈り」


「それらが織り込まれたこの布を、最後まで紡いで――

 やがて、糸をお返しする役目」


 言葉の端に、まだ形を持たない未来の重さが宿る。

 「終わり」と名づければ簡単に崩れてしまうものを、あえて別の呼び方で抱えようとしているようにも見えた。


「君の布が完成したら、その糸は……」


「あなたの手に戻ります」


 返事には迷いがない。

 ただ、その無風の声の底で、わずかな震えだけが小さく波を立てている。


「わたしの命が尽きるとき、白羽の夢は終わるでしょう。

 けれど、糸は残ります。


 夢が閉じても、祈りだけは、どこかに残る。

 そういうふうに、この村は織り上げられてきましたから」


 繭が破れても、糸は布となって誰かの肩を覆う。

 命が尽きても、その祈りだけは別の誰かの今日を支える。


 誰も驚かない。驚くことが、もう許されていないみたいに。

 口に出されなかった掟を、いま、静かに言葉へ織り直しているようにも見えた。


「……怖くは、ないのか」


 また同じ問いが唇から零れる。

 澄羽にも、澪にも、どこかで投げかけてしまった問い。

 答えを知りながら、なお訊かずにはいられない問い。


 長いまつげがゆっくりと伏せられ、影の中でかすかな揺れが生まれる。

 否定でも肯定でもない時間が一瞬だけ流れ、それから静かに首が横へ傾いた。


「怖くない、と言えば嘘になります」


 その言葉は正直で、飾りを削ぎ落とされた細い糸のように、かえって強さを持っていた。


「でも――」


 布から離れた指先が、房飾りの白糸へ移る。

 結び目を確かめるように、そっと撫でる。

 その小さな手つきだけで、いったい何度、自分を結び直してきたのだろう。


明日(あした)が来なかったとしても、

 きっと……未来(あす)という日は来るはずです」


「えっ……?」


 耳に、聞き覚えのある響きが触れる。

 誰が言った言葉なのか、もうはっきりとは思い出せないのに、胸の奥だけが確かな場所を覚えている。


 忘れたくないものほど、遠くへ行ってしまう――


「わたしは、澄羽様の“飛びたい”という願いも、

 澪様の“忘れられたくない”という夢も知っています。

 そのうえで、自分の祈りを織りたいのです」


「君自身の……祈り?」


「はい」


 真正面から視線が重なる。

 誰かの願いを預かる瞳が、初めて自分自身の祈りの方角を指し示していた。


「澄羽様は、生きたいと願いました。

 澪様は、覚えていてほしいと願いました。


 では、わたしは――」


 わずかに息を整え、唇から、ひとつの言葉がほどけていく。


「“繋がっていてほしい”と願います」


 布の向こうで糸が鳴る。それだけなのに……。

 胸の内側のどこか、まだ名前のない場所に、確かな結び目ができる。


「命も、記憶も、祈りも。

 たとえ形を変えてしまっても……

 あなたが生きている限り、どこかで繋がっていると、信じていたいのです」


 その瞬間、布の奥の赤い筋が、ほんのわずかに脈打った気がした。

 目に見えない心臓が、静かにそこに在ることを知らせるように。



 日が完全に沈むころ、機織り小屋の外に出る。

 空はまだ真っ暗ではない。白羽の庭で見た白とは別の、残り火のような白が薄く漂っていた。

 昼間の熱が少しずつ逃げていく途中の色が、村全体を柔らかく包んでいる。


 村の通りを渡る風は相変わらず弱い。

 軒先の風鈴は、鳴ることを忘れたまま夜を吊り下げていた。

 その静けさの奥で、遠くから小さな囁きが届く。


 ――白織様。

 ――最後の……。


 祈織の存在は、村の誰もが知っている。

 ただ、真正面から目を向ける勇気がないだけだ。


「みんな、畏れているのです」


 並んで歩く足並みは変わらないのに、声だけが少し先の闇を照らす。


「わたしではなく、自分たちの祈りの行き先を」


 責める色のない言い方だった。

 だからこそ、その優しさが胸に刺さる。

 刺さった場所から、長いあいだ見ないふりをしてきた祈りのかたちが、少しずつ輪郭を取り戻していく。


「祈ることは、いつも誰かを“送り出す”ことですから」


 足もとを、猫のような影が横切る。

 振り返る前に、その影は夜へ溶けた。

 誰にも見送られないまま消えていく背中を、追うことはしない。


「そういえば……。

 君は、どうしてあの場所へ?」


 言葉が自然に口を突いて出る。

 今更だと分かっていても、問わずにはいられなかった。


 少しだけ考える仕草ののち、首がそっと横に振られる。

 どこから話せばいいのか選んでいるような動きだった。


「どちらかといえば、“見届けていただくため”に、わたしがあなたを呼んだのかもしれません」


「呼んだ?」


「ええ。ここまで来るとき、風の向きが少しだけ変わりませんでしたか?」


 バス停。

 地図の消えかけた停留所。

 ひび割れたベンチと、白い洗濯物と、針売りの老人。


 あの時からすでに、言葉にならない何かが進む方角を決めていた気がする。

 指でなぞれば消えてしまうような線を、弱い風だけが何度も描き足していた。


「ずっと前から、夢を見ていたのです……」


 夜の村を見渡す瞳が、まばらな灯りをひとつひとつ確かめる。


「白い布の向こうで、誰かの指先が糸に触れる夢。

 わたしたちの織った布に、そっと触れてくれる夢」


「それがいつの夢なのか分からないまま、ずっと続いていました」


 まっすぐ前を向いた横顔には、長いあいだ夢の中でだけ誰かを待ち続けてきた者の、静かな疲れと安堵が同居していた。


「終わることは怖いけれど……


 あなたが見ていてくださるなら、

 その終わりは、きっと“途切れるための断ち切り”ではなく、

 次へ渡すための“結び目”になると信じられますから」


 返す言葉を探していると、ふと空気の温度が変わる。


 夜気がふくらみ、白い布の影が少しだけ長く伸びる。

 風が吹いたわけではない。

 世界そのものが、ふたりを包むために布を手前へ引き寄せたような、ほそい軋みがあった。


 “眠りの入り口”に、近づいている。



 その夜、機織り小屋には灯りがともり続けていた。


 宿へ戻ることもできた。

 戻れば、いつもの畳の匂いと、女将の置いていった湯のみの熱、

 襖の隙間を撫でる風の音が、今日一日の境界をやさしく引いてくれただろう。


 それでも足は、小屋の前で止まっていた。

 戻るための一歩より、ここに留まるための一歩のほうが、今は軽い。


 戸を開けると、白い灯りが揺れる。

 油皿の上の小さな炎が、布の影を静かに揺らしていた。

 灯芯の周りだけ、時間の流れが外と違う密度を持っているように見える。


 機織り台の前には、昼間と同じ姿勢の背中。

 ただ、肩の落とし方だけが少し違う。

 預かっていた重さの行き先を、やっと見つけたあとの静けさがそこにあった。


 糸車は止まり、針も糸も今は動かない。

 その分だけ、細い呼吸の音が小屋の空気にくっきりと混ざっている。


「……眠ってもいいのですよ」


 戸口に伸びた影に気づき、柔らかな微笑みが向けられる。

 眠りへ送り出すというより、「ここにいてもいい」と告げる側の微笑みだった。


「明日は、少し早くなってしまいますから」


「……眠れそうに、ない」


 灯りのそばまで歩み寄り、壁に背を預ける。

 床を走る白布の影が、心臓の鼓動とわずかにずれながらも、同じ方向へ寄せては返していた。


「ここにいても?」


「もちろん」


 灯りの輪の中で、声がやわらかく広がる。


「ここは、もともとあなたが来るのを待っていた場所ですから」


 そう言って、膝の上に両手が重ねられる。

 指先には、夕暮れに触れていた糸の感触がまだ残っているのだろう。

 空のはずの掌に、見えない結び目がいくつも宿っているように見えた。


 小屋の中は、不思議な静けさに満ちている。

 外の闇とは別の層を持つ静けさ。

 布の呼吸と、ふたり分の呼吸だけが、かろうじて空気をわずかに震わせていた。


「……怖くないのですか」


 同じ問いが、今度は向こうから戻ってくる。


「怖いって、何が」


「明日、わたしがいなくなっても」


 灯の光が、その横顔の輪郭を細くなぞる。

 影は淡く、消えそうで消えない。

 消えるのを待っているのではなく、自ら消える時を静かに選び取ろうとしている影だった。


「怖い」


 考えより先に、胸の奥の糸がそう答えを結んでいた。


「君がいなくなるのも、

 この夢が終わってしまうのも……。

 ここで見たものが、

 外の世界で“ただの記録”になってしまうのも……」


 声は、針穴へ入る直前の糸みたいに、灯芯の近くでかすかに揺れる。


 祈織のまぶたが閉じられ、一度だけ深く息をした。

 胸いっぱいに白い空気を吸い込み、それを手放すことで、自分の輪郭をもう一度縫い直しているようだった。


「そう言っていただけて……うれしいです」


 まぶたの裏に、澄羽の笑顔が浮かぶ。

 空を指さした指先。

 「飛んでみたい」と願った声。


 その隣には、澪の瞳。

 藍の水面に揺れる影。

 「忘れられるのが怖い」と零した声。


 重なりあった先には、「繋がっていてほしい」と祈る声がある。


「でも、怖さだけで結んでしまうと、糸はすぐに切れてしまいます」


 灯影の奥、かすかに唇が笑みの形を取る。

 何度か切れてしまった糸を、そのたび自分の手で結び直してきた者だけが知る笑みだった。


「だから、今夜だけは……少しだけ、怖くないふりをさせてください」

 

 言葉が、白に吸い込まれる。


「この夜が、ほどけてしまわないように……」


 まつげが伏せられ、袖口がわずかに揺れる。

 影がひと筋、こちらへ寄り添う。

 ふたり分の影が重なる境目で、白布の影だけが静かに形を変えていった。


「わたしが飛ぶところ……。

  見てて、くれますか?」


 胸の奥で、一本の糸が張った。

 痛みではなく、まだ名のない感情だけが、息をひそめていた。


「ここにいる。見えるところに」


 触れれば刺さると分かっているのに、

 それでも近づいたなら、きっともう離れられない。


 触れた痛みよりも、

 触れられない寂しさのほうが確かに重い。

 そんな祈織の温度だけが、夜の中心で息をしていた。


「あたたかい……」


 それだけで、世界がひとつ縮まった気がした。


 どこに触れているかは分からない。

 境目は白に吸い込まれ、夜へ溶けていく。


 痛みではなく、温度だけが残った。


 白布の影がふたりの形を曖昧にし、

 夜が繭のようにゆっくり閉じていく。


 胸の奥で、糸がそっと結ばれた。

 ほどけることを知らない結び目。


 ――それは、心と心のあいだにだけ生まれた、小さなしこり。


 その瞬間、白布がひとすじ揺れた。

 まるで、誰かの祈りがそこに宿ったかのように。

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