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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
三章・祈織編
14/16

「第二詩」― 白羽の庭 

 その場所は、地図には載っていなかった。


 祈織に導かれて、村の外れへと歩く。

 蔵座からさらに奥、家並みが途切れ、畦道が細くなっていく。

 足もとの草は短く刈られているのに、長く人が通っていないような静けさがあった。


 風は相変わらず弱い。

 弱いのに、不思議と進むべき方角だけを知っている。

 祈織の房飾りに結ばれた白糸だけが、風の方へと先に揺れた。


「ここから先は……村の人は、あまり近づきません」


 祈織が振り返る。

 淡い桃色の髪は陽を吸い、ところどころ白銀が混ざったようにきらめいている。

 その横顔は、まだ少女と呼べる年頃なのに、目の奥だけが、季節を幾つも知っている人の色をしていた。


「……なぜ、ここだけが」


「畏れているから、でしょうね」


 それは、誰かを責める言い方ではなかった。

 ただ事実の場所へそっと置かれた一文。


「“白羽様のお庭”だ、って」


 白羽――。

 蔵座の古文書や、老人たちの口から何度かこぼれた呼び名。

 けれど、意味の中心にはまだ手が届いていない。


 畦道の先がふっと開ける。


 そこは、庭と呼ぶにはあまりに静かだった。

 石垣に囲まれた、小さな窪地。

 かつて桑の木だったものの切り株が、円を描くように並んでいる。

 今は葉も枝もないのに、切り口だけがまだ薄く白い。

 根の名残が土を持ち上げ、その周囲だけ、草の色がひと息分濃く見えた。


 中央には、低い木造りの小屋があった。

 蔵ほど大きくない、けれど納屋ほど軽くもない。

 扉は半ばまで開き、内側へ向かって白い布が垂れている。

 風はないのに、その布だけが、ゆっくりと呼吸をするようにふくらんだり、しぼんだりしていた。


「……ここが」


白羽(しらは)の庭」


 祈織が静かに言う。

 言葉が地面に染み込んでいくみたいに、庭の空気が一呼吸ぶんだけ澄んでいく。


 胸の奥で、名の持つ重さがゆっくり沈む。

 聞いたことがあるのに、どこか初めて触れる響きだった。


「あなたは、“(かいこ)”という虫をご存じですか?」


 ――蚕。

 教科書の中でしか触れたことのない虫の名が、現実の場所と繋がった。


「昔はここで、蚕を育てていたのです」


 祈織は桑の切り株にそっと手を添えた。

 指先が、何かの脈を確かめるように、木の年輪をなぞる。


「桑の葉を食べて、大きくなって……やがて自分でまゆを作るのです。

 細い糸を、何度も何度も自分の周りに巻きつけて。

 自分で自分を、白い殻の中に閉じ込めてしまう」


 淡々とした説明。

 けれど、その一語一語に、遠い記憶の重さが滲んでいた。


「殻の中で、羽になる準備をして……

 殻を破って出てきたら、もう、あまり長くは生きられません」


「……どうして」


「糸を吐くことに、生を使い切ってしまうからです」


 祈織は、そう言って微笑んだ。

 悲しみではなく、仕組みを受け入れた者の微笑。


「だから、蚕は自分の力では遠くへ飛べません。

 羽はあっても、羽ばたく時間がほとんどない。

 それでも、繭の中で紡いだ糸だけは、あとに残ります」


 蔵座で拾い上げた繭の殻の感触が、掌に蘇る。

 軽いのに重い、白の器。

 ここにもきっと、同じ殻が幾つも積まれていたに違いない。


「……それが、布になる」


「ええ。糸はほどかれて、よりをかけられ、布に織られます。

 蚕は、自分の目で完成した布を見ることはありませんけれど」


 風の代わりに、沈黙が庭を撫でていく。


「この村の人たちは、昔から蚕が好きでした」


 祈織は、桑の切り株を見渡した。


「自分の意志で遠くへ行けないのに、糸を残してくれるから。

 短い生のかわりに、白い道筋を繋いでくれるから。

 だから……」


 そこで、一度だけことばを区切った。

 瞳が、こちらへ静かに向けられる。

 紅の底に藍が沈み、琥珀が滲む。


 三つの色は境目なく溶け合いながら、それでも決して混じりきらず、

 まるでこの世の夕暮れを、ひとつの瞳に折り畳んだように見えた。


「蚕を、ひとの形に重ねて考えるようになったのです」


「ひとの……形に」


「自分ではどこへも行けない。

 ここでしか生きられない。

 それでも、誰かのために糸を残せるなら――」


 祈織は、小屋の前へ歩み寄る。

 垂れていた白布の端を、両手でそっと持ち上げた。

 布の影が揺れ、その向こうに、古い機織り台の輪郭が見える。


白羽様(しらはさま)、という言葉がありますね」


 村人たちが、誰かをそう呼ぶ気配が、これまでにも何度かあった。

 けれど誰も、その意味を最後まで口にはしなかった。


「白い羽――穢れのないもの、天へ還るもの。

 この村では、いちばん清らかな娘が選ばれて、“白羽様”と呼ばれました」


 声にはすべてを包み込むようなあたたかさがあるのに、祈織の表情は変わらない。


「選ばれた白羽様は、糸を紡ぎ、布を織ります。

 蚕が自分を包む繭を作るように。

 ただし――」


 祈織は、布の内側に指を差し入れた。

 そこには、もう誰もいないはずなのに、触れた指先が一瞬だけ止まる。


「繭の中に閉じこもるのは、自分だけではありません。

 この村の命も、祈りも、記憶も。

 すべてを糸に宿して、布の中に織り込んでいくのです」


「命を、布に……」


「はい」


 肯定は簡潔だった。

 あまりにも簡潔で、逆に逃げ場がない。


「白羽様の布が完成すると、村に命が巡る――

 そう、みんなは信じています」


 どこかで聞いた、祝詞のような言葉が頭をよぎる。

 「白羽様の眠りが村を護る」。

 それはただの比喩ではなく、仕組みそのものだったのだと、今さらのように理解する。


「でも、完成するってことは……」


 ここまで来て、言葉が続かない。

 続けたくない。

 けれど、続けずにはいられない場所に、すでに立ってしまっている。


「完成するということは、その布を織っていた命が終わる、ということです」


 祈織は代わりに、それを言葉に変えた。

 穏やかな声音のままで。


「白布は、命の器。

 村が生き続けるために、誰かひとりの命を繭にしておく器。

 だから……」


 そこで、彼女はふっと微笑んだ。

 あまりにも静かで、痛いほどに美しい笑みだった。


「白羽とは、そういう存在なのです」


 その一言が、庭の空気の中心に沈む。

 避けていた言葉の核心が、ついにそこへ置かれた。

 

 風の音が、ほんの少しだけ止まった。


「じゃあ……君は」


 喉の奥で、見えない何かが引っかかる。

 声にすることが、彼女の運命を確定させるようで、怖かった。

 けれど、問いだけは形を取ってしまう。


 祈織は、布の端からそっと手を離した。

 房飾りの白糸が、微かに揺れる。

 風はない。

 それでも、彼女の周囲だけ空気の密度が変わった気がした。


「そう。わたしこそ最後の白羽――

 皆は白織(しらおり)と呼んでおります」


 白織。

 蔵座の断片に記されていた名。

 村人たちが畏怖を滲ませながら口にした呼び名。

 それが今、目の前の少女の肩に静かに載せられた。


 最後の白羽。

 この村を現実と夢の境界に繋ぎとめている、最後の糸。

 重ねられてきた白布の先に立ち、なお糸を織り続ける者。


「最後、って……」


 声にならない音が、喉の奥でそっとほどけた。


「この村が、もうじき夢から醒めるからです」


 祈織は庭を見渡す。

 桑の切り株。

 使われなくなった養蚕小屋。

 白布の影。


「白羽様たちの祈りが繋いできたこの夢は、少しずつ薄くなっています。

 祭りも、布の意味も、忘れられて……」


 卒論の仮題が頭をよぎる。


 「辺地における“白布”の信仰的機能の残滓」。

 自分はそれを記録しに来たつもりで、この村に入った。はずだった――。


「村はもう“誰かひとりの命”に、すべてを預け続けることはできません。

 繭の夢を見続けるだけでは、生き延びられない」


 それでも、今日という現実だけは、針の歩みを止めてはくれない。


「最後の白羽であるわたしが眠ったとき、この村は、正しい場所に還るのでしょう」


 祈織の言葉は、祈りというより宣告に近かった。

 けれど、その言い方には、諦めの冷たさではなく、静かな受容がある。


「どうして君たちが、

 そんな役目を背負わなくちゃいけないんだ……!」


「それは、わたしにも分かりません」


 祈織は首を傾げ、少しだけ肩をすくめる。

 神託のような言葉のすぐ後に、年相応の仕草がこぼれる。

 そのちぐはぐさが、かえって彼女の人間らしさを際立たせていた。


「ただひとつ分かるのは――」

 祈織の視線が、すこしだけこちらを通り過ぎて、その先の何かを見ているように揺れた。


「わたしは、それを望んでいるのです……」


 断言のかたちをした祈りの声。


「どういう、意味なんだ……?」


 言葉を継ぐ前に、庭の空気がひとつ息をした。

 風は生まれず、ただ沈黙だけが形を変える。


「あなたが誰よりも深く、わたしたちに触れているからです」


 自分に言い聞かせるように、祈織は微笑んだ。

 白織としてではなく、一人の少女としての微笑。


 掌の内側で、かつて吸い込まれた一滴の赤が鈍く疼く。

 布に混ざった血の記憶が、遠いところで糸を震わせる。


 白羽の庭は静かだった。

 糸を吐く者も、桑の葉を食む者も、もうここにはいない。

 それでも、土の下には無数の白が眠り、

 その上を、風の代わりに祈りだけが通り抜けていく。


 地面は、まだ手放せないままだった。


 蚕は、自分の羽では飛べない。

 たった一度だけ繭を作り、短い命を終える。

 けれど、その糸は誰かの布になり、誰かの祈りになり、

 いつか見知らぬ誰かの「今日」を支える。


 蚕は、自分を包むために糸を吐く。

 人は、誰かへ渡すために言葉を紡ぐ。

 そのどちらも、きっと同じ祈りのかたちなのだと――

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