「第一詩」― 白に導かれて
――朝が、いつもより白かった。
白いと言っても、布の白ではない。
光の向こう側で、なにかが淡く膨らんでいくような白さだった。
雲が低く垂れ、陽の輪郭だけがぼんやり滲んでいる。
風は吹かず、気温の変化もないのに、
村の通りでは、ざわめきだけが早く目を覚ましていた。
道の上を歩くたび、足もとの砂利が乾いて鳴る。音は小さいのに、村全体がどこか落ち着かない。
風がない。
それなのに、白布の影だけが微かに揺れているような錯覚が残る。
影が揺れるというより、影の“向こう”に何かが息をためているような気配があった。
家々の軒先には、今日も白いものが干されていた。
タオル、シーツ、短い布片。
けれど、いつもの白と違う。
布の端が、どこか“畏れ”の形を帯びている。生活の白ではなく、祈りの白に近い。
触れてはいけない、と教えられた記憶が皮膚の内側に残っているせいかもしれない。
それでも目線は、自然と白へ寄ってしまう。
村の奥、広場のほうから人の声が重なって届く。
あの沈黙の村に、こんなふうに音が集まるのは珍しい。
耳を澄ますと、言葉はまだ輪郭を持っていない。ただ、集まりきれない息の揺れだけが先に聞こえてくる。
――「白織様が……」
――「あの方が、最後の……」
――「お姿を見られるなど……何年ぶりか……」
声は低い。歓喜というより、畏れと崇敬が溶けた濁り。
音が多いのに、どこか沈黙に似たざわめきだった。
“見ていいものと、見てはいけないものの境界”に触れてしまった時、人はこんな声を出すのかもしれない。
広場へ向かう道の途中、木箱の前に影があった。
錆の色を抱えた針が、布の上に整然と並べられている。
針を売る老人が、今日もそこに座っていた。
顔を上げない。目だけで、こちらの影を測っている。
「白織とは……一体なんなのでしょうか?」
息と一緒に落とした声は、硬くならないように喉の縁へ置いた。
針売りの老人は、一本の針を指先で転がした。
乾いた金属の小さな反射が、白い朝にかすかな筋を引く。
「聞いたか……」
「何のことか、教えてもらえますか」
「それは構わない。
だが……聞いてしまえば、もう終わりから目を背けることはできない」
冗談ではなかった。
この村で、“終わる”という語は軽く扱われない。
「それでも、知らないままではいられない」
言葉にした瞬間、胸の奥がわずかにきしむ。
知らないふりをすることで守られていた何かが、もう薄くなっている。
老人は針を布に戻し、しばらく黙った。
その沈黙には、拒むための硬さではなく、測るための重さがあった。
「白織様は、糸の端を結ぶ御方だよ」
「糸の端……?」
「結ばれた端は、ほどけん。
ほどけん端があるから、村はまだここにある」
意味を掴みきれないまま、浅い息が落ちる。
老人は続けた。
「知る覚悟があるなら、蔵座へ行くがいい」
「蔵座……」
「白が眠っている場所だ。
眠りの中でしか読めんものがある」
白が眠っている。
眠りの中でしか読めない。
その言い方が、かつて夜に聞いた声と同じ手触りを持っていた。
まだ名も知らぬ声の余韻が、もう一度、胸の底で薄く揺れる。
蔵座は村の中央より少し外れ、草に半分埋もれたように建っていた。
土蔵の白壁は陽を返さず、むしろ光を吸って、ひんやりとした影の温度を保っている。
扉に手を触れた瞬間、乾いた木の冷たさが掌へ沈んだ。
ただの建物のはずなのに、触れると“誰かの記憶の外側”に触れたような感触があった。
中は薄暗い。
外光が差す位置だけが、紙の白を拾う。
灯りはない。
明るさがないのではなく、読ませる光だけが足りない。
棚に積まれた古文書、裂けた絵巻、何かの手順書。
白い紙が並んでいるのに、白が古い。
古い白は、ただ色あせるのではなく、重く沈む。
紙の繊維が湿度を含んで、息を吸っているような匂い。
頁をめくる。
指先のざらつきが紙の目に引っかかり、音にならない擦過が小さく響く。
断片が読める。
けれど、肝心なところだけ欠けている。
墨で塗り潰された行。
滲んで途切れた名前のような字。
意図して消され、意図して残された――読める白と、読めない白。
“白羽様”“白織”の文字が、ところどころに沈んでいる。
けれど、どの頁も、その語に辿り着く前に破れていた。
言葉の端だけが残り、中心が抜け落ちている。
手順書の一枚に、ふと目が止まった。
筆の掠れた行のなかに、
――繭を裂かず、糸を血で結ぶ。
と読める箇所がある。
指先が小さく熱を思い出す。
白の中に赤が入り込んだ夜の記憶。
あの一滴は、もう“布の側のもの”になってしまった。
読んだだけで、胸の奥がわずかにざわめく。
床の隅に、毛玉のような淡い白が落ちていた。
繭の抜け殻。
壊れた器のようでいて、拾い上げると不思議に重い。
殻の内側には、極細の白糸が一本だけ残っていた。
触れると切れそうで、触れないと消えそうな糸。
この白は、生活の白ではない。
誰かの終わりが、誰かの始まりへ渡る時の白。
それを記録が知っている。
知っていながら、言葉だけを隠している。
「……何も知らずに、ここまで来てしまったんだ」
隠された中心へ手を伸ばすほど、指先が空を掴む。
“読めない”という事実だけが、確かな手触りで残った。
◆
蔵座を出ると、夕刻の光が村の白を薄く溶かしていた。
陽はまだ高いのに、影だけが早く伸びている。
腕にまとわりつく風は弱い。
弱いのに、何かの方向だけを知っている風。
歩き出した途端、背後で紙が擦れるような音がした。
振り返っても、蔵座の扉は閉じたまま。
耳の奥で、針が布を数える乾いた拍だけが、遅れて鳴る。
――カツ
――カツ……
遠い夜の残響。
風が止んだ日々のなかで、確かに聞いた“命の音”。
水の匂いがふっと混じる。
草の露ではない。
もっと深い、記憶の底から上がってくる匂い。
白と藍が擦れた場所の匂い。
音でもなく姿でもなく、ただ匂いだけが先に通り過ぎる。
足が止まりかけた。
歩みは止めていないのに、世界のほうが一度だけ静止した気がした。
そこに、気配があった。
路地の向こう、夕日の境目に、ひとり立っている。
村の白の中で、もっとも色を持たない白。
白い糸が人の形を借りて立っているような輪郭。
白銀に溶けた淡い桃色の髪。
房飾りの白糸だけが、ふと揺れた。
風のない村で、それだけが動く。
背後の白布は揺れない。
草の先が、庭の方向にだけ僅かに傾く。
“風は彼女の導きにだけ反応する”
そう錯覚してしまうほどに、特別な気配を持っていた。
視線が合う。
待っていた、という温度ではない。
すでに知っている、という静けさ。
初めてのはずなのに、初めてでないような感覚だけが胸に落ちる。
声が、じかに空気をほどく。
「知らないままでいたら……
きっと、終わらないのですから」
あの夜の声と同じ響き。
けれど、夜よりも近い。
夜よりも人の温度を持っている。
息が止まる。
返す言葉を探すより先に、胸の奥で“白の中心”が小さく軋む。
知らないままでいられなかった理由が、初めて形を持つ。
静かな瞳が、まっすぐこちらを映したまま続けた。
「けれど、あなたはもう……
“知らなくてはならないところ”まで来てしまったのです」
声は澄んでいるのに、端にかすかな震えがある。
救いようのない真実を語る者の震え。
達観の静けさの奥で、ちゃんと人の脆さが息をしている。
「わたしは、祈織」
彼女は――
いや、名を呼べない。
呼べば、結び目ができてしまう。
結び目はほどけない。
だから、ただ、声だけを受け止める。
風がひとつ、ゆっくり吐き出される。
吐き出された風は、村の白ではなく、彼女の白へ絡む。
「あなたに、お見せしなければならない場所があります」
柔らかいのに、断れない言い方。
拒絶ではない導き。
祈りの形をした命令。
「……白羽の庭へ。
わたしたちが、生まれて、終わった場所へ――」
その言葉を聞いた瞬間、どこか遠くで、風の温度と水の静けさが交差する。
遠い夏の息吹と、藍に沈んだ夢の余白。
それらがひとつの糸として今ここに集まってくる。
房飾りが、もう一度だけ揺れた。
風は彼女のためにだけ吹く。
そして、その風に導かれて、歩みが自然に前へ落ちる。
白い夕暮れが、村の奥へほどけていく。
その奥に、まだ知らない白の中心が眠っている。
眠っているなら、覚めなければならない。
白羽の庭へ。
呼び名のないまま、導かれていく。
呼んだ途端にどこかへ消えてしまいそうな、あの気配のままで。




