「第五夜」― 祈りの余白
朝、窓の向こうは最初から濡れていた。
細い雨が白い糸のように空を縫っている。雲は低く、光はまだどこにも降りてこない。
机の上の紙片を指でなぞる。
紙はひやりと冷たいのに、
触れていると少しだけ体温を持つ。
「来ないで」という声が胸の内側で薄く反響する。拒絶ではないと、いまは分かっている。あれは今日という“薄氷”を守ろうとする祈りの形だった。
祈りは、応えられて初めて祈りになる。
傘は取らない。
戸口で一度だけ深呼吸をすると、湿った空気が肺の奥へ降りてきた。
靴の底が雨の粒を踏み、土の匂いが濃くなる。坂道はもうぬかるみ始めていた。蝉の声は、昨夜からずっと遠いままだ。音のほうが先に雨に流されていく。
鳥居が見える。赤は薄く、雨の膜に包まれて鈍い。
くぐると、境内の温度がひとつ下がった。風鈴はぶら下がったまま、舌だけを雨に濡らして沈黙している。
屋根の端から落ちる水は糸の束のように揃っていて、その向こうで藍の水面が呼吸を繰り返していた。
「おはよう。
やっぱり……来たんだね」
雨の帳の向こうで、澪が言った。
白に藍を溶かしたような浴衣が、灰色の朝に静かに沈んでいる。背中までまっすぐ落ちた黒髪の先は、もう水の色と区別がつかない。
袖口の縁に、白い繊維が一本、かすかに引っかかっていた。彼女は気づいていない。雨粒がそれを重くするたび、糸は細く震えた。
「約束、したから」
そう言うと、澪は小さく笑った。
笑いというより、雨に溶けない形を確かめるように口元を整えた、というほうが近い。
「濡れるよ」と彼女は言う。
「一緒だな」と返す。
それで十分だった。
二人のあいだを埋める音は雨だけで、言葉はそこに触れないように、すこし離れて置いた。
「なんだか、凄く眠いの」
澪は池の縁に膝を寄せ、顎をのせる。まぶたがおもたげに上下して、その間隔が少しずつ伸びていく。
「眠い……?」
「うん……目を閉じるとね……
水の底で、ゆっくり浮いてるみたいなの。」
雨は強くはないのに、音だけが密度を増してくる。境内の周りで、昼と夜の境目がもう一度だけ重なったように曖昧になる。
「昨日の……続きを」
自分の声が雨に近づきすぎないように、浅い高さで置く。
「見せてほしい」
澪は視線を落とし、懐からあの手帳を取り出した。表紙はさらに色を失っている。
膝の上で開かれた白は、雨の光をうすく吸い込み、紙の目だけがわずかにきらめいた。
「書けないんだ……」
「言葉にした途端、ここが“いま”じゃなくなる気がするの」
それでも、彼女はペンを持った。
雨の粒が屋根の端で重くなり、落ちる音の間隔が短くなる。
澪は深く息をして、明日の頁をそっと探した。
ペン先が紙に触れる。
黒い線がひとつ、紙の上を走り始め――次の瞬間、墨が玉になって弾かれた。
言葉は雨に触れた途端、小さな輪になって消えた。
「“明日”は、紙のほうが受け付けてくれないみたい」
澪は力を抜かず、もう一度だけペン先を置く。
今度は線が走りはじめて、すぐに滲んだ。
滲む、というより、紙のほうで静かに吸い取っていく。
書こうとした線が、書く前から知っていたみたいな速度で、輪郭を手放していった。
彼女は目を細め、眉の中ほどにうっすら影を落とす。
「次に眠ったら、きっと全部、流されちゃうんだろうね」
言葉はかろうじて笑顔の形をしているのに、その端から小さく崩れていく。
「これだけ濡れれば、もう忘れることもできないよ」
いまここにいる彼女の温度だけは、どこへ流れても消えない――そんな気がした。
「そう、だね……
あなたが覚えていてくれるなら――それでいいかな」
雨脚が一段強くなった。
屋根から垂れる水の幕が厚くなり、外の世界が白い布越しに見える。いつかの朝に見たような、白の呼吸。
袖口のほつれた糸が、雨に濡れて肌に沿う。澪はそれに気づかないまま、手帳を胸元へ引き寄せた。
「だから……おやすみ――」
澪は少しだけ目を伏せ、雨の音に頷く。
言葉の重さがちょうどよく降りるところを探すみたいに、彼女はまた一度、ペンを持ち直した。
雨の音が遠くなり、近くなる。
息を整える気配が胸の浅いところで揺れて、それから、最後の一行へ指が向かった。
ペン先が紙に触れる。
音はなく、線だけが静かに刻まれる。驚くほど滑らかに、一文字ずつ、形が立ち上がっていく。
紙が、いまだけ受け入れている――そんなふうに見えた。
書き終えた瞬間、雨音がまた厚みを取り戻した。
頁の上に置かれた彼女の指先から力が抜け、まぶたがゆっくり閉じる。閉じるたび、世界がひと粒ぶん遅れる。
唇がかすかに動いた。
だから、距離だけを埋める。
触れないで、傍にいる。
触れたら、きっと流れてしまうから。
屋根の端から落ちる水の線が、池の面に淡い輪を重ねる。
白い糸が袖からほどけ、彼女の手首にそっと貼りついた。
視界の色が濃くなる。雨粒が粒の形を手放して、白い布のような厚みだけになる。
その向こうに、彼女の輪郭がある。はっきりしているのに、手を伸ばせば水に崩れる距離で。
――指先に、熱。
胸の奥で、何かが結び目を作った。
◆
音がなかった。
雨の白い膜が世界を覆っていたはずなのに、
まぶたを開けると、そこにはどこにも水の匂いがなかった。
同じ境内なのに、空気だけがまるで別の場所みたいだった。
屋根の端から落ちていた雨の線はなく、
池は静かで、藍の色は少しだけ明るい。
足もとに古びた日記が落ちていた。拾い上げると、掌にひやりとした重み。
雨が触れていたはずなのに、紙は乾いている。
頁を開く。見覚えのある断片が、ところどころで欠けながら並んでいる。
滲んだ文字の間に、消えたはずの言葉の影がうっすら残り、その最後に――
――八月十五日。
あの人に会えますように。
そこだけ、滲まずにくっきり残っていた。
読み終える前から、胸の奥に静かな音が鳴る。開いた頁の白が、朝の光を吸い込み、紙の目が細かく呼吸する。
頁の端には、小さな水の跡がついている。
「泣いて、いるのか……?」
その瞬間、細く冷たいものが頁を濡らして視界を滲ませる。
糸雨――
「いや、雨か……」
ふと、右の人差し指に細い違和感。
白い糸が一本、絡んでいた。どうしてここに、と考えるより先に、指先でそっとほどいてやる。
糸は抵抗を見せず、空気の中へ溶けていった。
言葉は置かない。置けば、どこかの結び目を固くしてしまう気がしたから。
祈りは、書かれた瞬間から現実になる。
その言葉が、声にならないまま胸の内側に沈んだ。沈んだ場所から、遅れて温度が広がる。
鳥居を出るころには、蝉の声が少し戻っていた。
坂道の泥が靴底に張りつく。踵を上げるたび、土が一枚ずつ別れる。離れたものが、また別のところで繋がるように。
◆
夜。
灯を落とすと、部屋の形が輪郭だけになった。
眠りが来る前に、雨の記憶がもう一度だけ戻ってくる。音ではなく、重さで。
――夢は、浅いところから始まった。
池は、霧の白に覆われている。
雨は降っていないのに、水面に細い輪がひとつ、またひとつ、どこからともなく生まれて消える。
「私もあなたも、ずっと……夢を見ていたの」
声だけが先に届いた。
霧の向こうで、澪が立っている。姿は薄いのに、声の温度ははっきりしている。
近づこうとすると、足もとで輪が広がり、同じ場所に立ったまま距離が縮まらない。
「あなたと話してるうちにね、この終わりを、ちょっとだけ自分のものだって思えたんだ」
「これは夢だけど……
夢じゃない――」
自分の声が、水に触れない高さでこぼれる。
「だから……君が残してくれた“記憶”が醒めることはないんだ」
澪は微笑む。
その笑みは、何かを受け入れた人のものだった。
まぶたが穏やかに上下し、瞬きを挟むたび、霧がほんの少し薄くなる。
「……これが“夢”なら、覚めなきゃいいのに」
視界の端で、赤が揺れた。
曼珠沙華がひとつ、
そして遅れて、もうひとつ。
赤は水に滲み、滲んだ先が糸のようにほどけていく。
一本の細い赤い線が、霧の中でまっすぐ伸びた。どこへ繋がるのかは分からない。ただ、切れないまま、静かに揺れている。
「あなたに出会う夢を、何度も見ました――」
澪の声は、霧の厚みよりも近かった。
その言葉を最後に、彼女の輪郭は光の粒となって滲んでいく。
粒は水に落ちず、霧に溶けず、空気の透明な層の中で、しばらく漂ってから消えた。
残ったのは、水面に触れている赤い線だけ。風はないのに、線は小さく呼吸していた。
目覚める直前、指先にかすかな引き。
掌を開くと、何もなかった。
結び目はない。けれど、結び目のあとだけが残っている。
窓を開けると、風が入ってきた。
風はまだ細い。
でも、その細さだけが、行き先を知っている。
だから、今日の現実は、祈りの続きだ。
白い糸の記憶は、どこにも見えない。
それでも――確かに、ここにいた。
まだ名前を持っていないのに、いつか呼ばれるときのために、静かに揺れている。
――八月十五日。
あの人に会えますように。




