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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
二章・澪編
12/16

「第五夜」― 祈りの余白

 朝、窓の向こうは最初から濡れていた。

 細い雨が白い糸のように空を縫っている。雲は低く、光はまだどこにも降りてこない。

 机の上の紙片を指でなぞる。


 紙はひやりと冷たいのに、

 触れていると少しだけ体温を持つ。

 「来ないで」という声が胸の内側で薄く反響する。拒絶ではないと、いまは分かっている。あれは今日という“薄氷”を守ろうとする祈りの形だった。

 祈りは、応えられて初めて祈りになる。


 傘は取らない。

 戸口で一度だけ深呼吸をすると、湿った空気が肺の奥へ降りてきた。

 靴の底が雨の粒を踏み、土の匂いが濃くなる。坂道はもうぬかるみ始めていた。蝉の声は、昨夜からずっと遠いままだ。音のほうが先に雨に流されていく。


 鳥居が見える。赤は薄く、雨の膜に包まれて鈍い。

 くぐると、境内の温度がひとつ下がった。風鈴はぶら下がったまま、舌だけを雨に濡らして沈黙している。

 屋根の端から落ちる水は糸の束のように揃っていて、その向こうで藍の水面が呼吸を繰り返していた。


「おはよう。

 やっぱり……来たんだね」


 雨の帳の向こうで、澪が言った。

 白に藍を溶かしたような浴衣が、灰色の朝に静かに沈んでいる。背中までまっすぐ落ちた黒髪の先は、もう水の色と区別がつかない。

 袖口の縁に、白い繊維が一本、かすかに引っかかっていた。彼女は気づいていない。雨粒がそれを重くするたび、糸は細く震えた。


「約束、したから」


 そう言うと、澪は小さく笑った。

 笑いというより、雨に溶けない形を確かめるように口元を整えた、というほうが近い。


「濡れるよ」と彼女は言う。

「一緒だな」と返す。

 それで十分だった。

 二人のあいだを埋める音は雨だけで、言葉はそこに触れないように、すこし離れて置いた。


「なんだか、凄く眠いの」


 澪は池の縁に膝を寄せ、顎をのせる。まぶたがおもたげに上下して、その間隔が少しずつ伸びていく。


「眠い……?」


「うん……目を閉じるとね……

 水の底で、ゆっくり浮いてるみたいなの。」


 雨は強くはないのに、音だけが密度を増してくる。境内の周りで、昼と夜の境目がもう一度だけ重なったように曖昧になる。


「昨日の……続きを」

 自分の声が雨に近づきすぎないように、浅い高さで置く。

「見せてほしい」


 澪は視線を落とし、懐からあの手帳を取り出した。表紙はさらに色を失っている。

 膝の上で開かれた白は、雨の光をうすく吸い込み、紙の目だけがわずかにきらめいた。


「書けないんだ……」


「言葉にした途端、ここが“いま”じゃなくなる気がするの」


 それでも、彼女はペンを持った。

 雨の粒が屋根の端で重くなり、落ちる音の間隔が短くなる。

 澪は深く息をして、明日の頁をそっと探した。


 ペン先が紙に触れる。

 黒い線がひとつ、紙の上を走り始め――次の瞬間、墨が玉になって弾かれた。

 言葉は雨に触れた途端、小さな輪になって消えた。


「“明日”は、紙のほうが受け付けてくれないみたい」


 澪は力を抜かず、もう一度だけペン先を置く。

 今度は線が走りはじめて、すぐに滲んだ。

 滲む、というより、紙のほうで静かに吸い取っていく。

 書こうとした線が、書く前から知っていたみたいな速度で、輪郭を手放していった。


 彼女は目を細め、眉の中ほどにうっすら影を落とす。


「次に眠ったら、きっと全部、流されちゃうんだろうね」


 言葉はかろうじて笑顔の形をしているのに、その端から小さく崩れていく。


「これだけ濡れれば、もう忘れることもできないよ」


 いまここにいる彼女の温度だけは、どこへ流れても消えない――そんな気がした。


「そう、だね……

 あなたが覚えていてくれるなら――それでいいかな」


 雨脚が一段強くなった。

 屋根から垂れる水の幕が厚くなり、外の世界が白い布越しに見える。いつかの朝に見たような、白の呼吸。

 袖口のほつれた糸が、雨に濡れて肌に沿う。澪はそれに気づかないまま、手帳を胸元へ引き寄せた。


「だから……おやすみ――」


 澪は少しだけ目を伏せ、雨の音に頷く。


 言葉の重さがちょうどよく降りるところを探すみたいに、彼女はまた一度、ペンを持ち直した。

 雨の音が遠くなり、近くなる。

 息を整える気配が胸の浅いところで揺れて、それから、最後の一行へ指が向かった。


 ペン先が紙に触れる。

 音はなく、線だけが静かに刻まれる。驚くほど滑らかに、一文字ずつ、形が立ち上がっていく。

 紙が、いまだけ受け入れている――そんなふうに見えた。


 書き終えた瞬間、雨音がまた厚みを取り戻した。

 頁の上に置かれた彼女の指先から力が抜け、まぶたがゆっくり閉じる。閉じるたび、世界がひと粒ぶん遅れる。

 唇がかすかに動いた。


 だから、距離だけを埋める。

 触れないで、傍にいる。


 触れたら、きっと流れてしまうから。


 屋根の端から落ちる水の線が、池の面に淡い輪を重ねる。

 白い糸が袖からほどけ、彼女の手首にそっと貼りついた。


 視界の色が濃くなる。雨粒が粒の形を手放して、白い布のような厚みだけになる。

 その向こうに、彼女の輪郭がある。はっきりしているのに、手を伸ばせば水に崩れる距離で。

 

 ――指先に、熱。


 胸の奥で、何かが結び目を作った。



 音がなかった。


 雨の白い膜が世界を覆っていたはずなのに、

 まぶたを開けると、そこにはどこにも水の匂いがなかった。


 同じ境内なのに、空気だけがまるで別の場所みたいだった。

 屋根の端から落ちていた雨の線はなく、

 池は静かで、藍の色は少しだけ明るい。


 足もとに古びた日記が落ちていた。拾い上げると、掌にひやりとした重み。

 雨が触れていたはずなのに、紙は乾いている。


 頁を開く。見覚えのある断片が、ところどころで欠けながら並んでいる。

 滲んだ文字の間に、消えたはずの言葉の影がうっすら残り、その最後に――


 ――八月十五日。

  あの人に会えますように。


 そこだけ、滲まずにくっきり残っていた。

 読み終える前から、胸の奥に静かな音が鳴る。開いた頁の白が、朝の光を吸い込み、紙の目が細かく呼吸する。


 頁の端には、小さな水の跡がついている。

 

「泣いて、いるのか……?」

 その瞬間、細く冷たいものが頁を濡らして視界を滲ませる。

 

 糸雨(しう)――


「いや、雨か……」

 

 ふと、右の人差し指に細い違和感。

 白い糸が一本、絡んでいた。どうしてここに、と考えるより先に、指先でそっとほどいてやる。

 糸は抵抗を見せず、空気の中へ溶けていった。

 言葉は置かない。置けば、どこかの結び目を固くしてしまう気がしたから。


 祈りは、書かれた瞬間から現実になる。

 その言葉が、声にならないまま胸の内側に沈んだ。沈んだ場所から、遅れて温度が広がる。


 鳥居を出るころには、蝉の声が少し戻っていた。

 坂道の泥が靴底に張りつく。踵を上げるたび、土が一枚ずつ別れる。離れたものが、また別のところで繋がるように。



 夜。

 灯を落とすと、部屋の形が輪郭だけになった。

 眠りが来る前に、雨の記憶がもう一度だけ戻ってくる。音ではなく、重さで。


 ――夢は、浅いところから始まった。


 池は、霧の白に覆われている。

 雨は降っていないのに、水面に細い輪がひとつ、またひとつ、どこからともなく生まれて消える。


「私もあなたも、ずっと……夢を見ていたの」


 声だけが先に届いた。

 霧の向こうで、澪が立っている。姿は薄いのに、声の温度ははっきりしている。

 近づこうとすると、足もとで輪が広がり、同じ場所に立ったまま距離が縮まらない。


「あなたと話してるうちにね、この終わりを、ちょっとだけ自分のものだって思えたんだ」


「これは夢だけど……

  夢じゃない――」


 自分の声が、水に触れない高さでこぼれる。


「だから……君が残してくれた“記憶”が醒めることはないんだ」


 澪は微笑む。

 その笑みは、何かを受け入れた人のものだった。

 まぶたが穏やかに上下し、瞬きを挟むたび、霧がほんの少し薄くなる。


「……これが“夢”なら、覚めなきゃいいのに」


 視界の端で、赤が揺れた。


 曼珠沙華がひとつ、

 そして遅れて、もうひとつ。


 赤は水に滲み、滲んだ先が糸のようにほどけていく。

 一本の細い赤い線が、霧の中でまっすぐ伸びた。どこへ繋がるのかは分からない。ただ、切れないまま、静かに揺れている。


「あなたに出会う夢を、何度も見ました――」


 澪の声は、霧の厚みよりも近かった。


 その言葉を最後に、彼女の輪郭は光の粒となって滲んでいく。

 粒は水に落ちず、霧に溶けず、空気の透明な層の中で、しばらく漂ってから消えた。

 残ったのは、水面に触れている赤い線だけ。風はないのに、線は小さく呼吸していた。


 目覚める直前、指先にかすかな引き。

 掌を開くと、何もなかった。

 結び目はない。けれど、結び目のあとだけが残っている。


 窓を開けると、風が入ってきた。

 風はまだ細い。

 でも、その細さだけが、行き先を知っている。


 だから、今日の現実は、祈りの続きだ。


 白い糸の記憶は、どこにも見えない。

 それでも――確かに、ここにいた。

 まだ名前を持っていないのに、いつか呼ばれるときのために、静かに揺れている。


 ――八月十五日。

  あの人に会えますように。

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