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ミヌシロ ―白糸の祈り―  作者: 地味紅葉
二章・澪編
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「第三夜」― 滲む輪郭

 朝と夜の境目が、その日はいつもより分かりにくかった。

 雨戸の隙間から差し込む光はたしかに白いのに、部屋の空気はどこか夜を引きずっている。


 夢から醒めたのか、夢の中へ沈んでいく途中なのか。

 その判断を保留にしたまま、しばらく天井を見ていた。


 ――昨日、何を話したんだったか。


 澪と池のほとりで向かい合っていたことは覚えている。

 (あわい)の水。記憶を預ける池。手帳に滲んで消えていった文字。

 ひとつひとつの情景は浮かぶのに、その前後がところどころ途切れている。


 大切な場面ほど、水の底へ沈んでいく。

 手を伸ばした瞬間に、輪郭だけが崩れてしまう。


 枕元に置いていた卒論用のノートを開く。

 昨夜、何かを書きつけた覚えがあった。

 白羽村の風習。白布。神社。池。澪という少女――。


 ページの端には、たしかに自分の字が残っていた。

 けれど、その一部は滲んで、意味を失っている。

 湿気を含んだ紙が、ゆっくりと記憶を飲み込んでいったように。


「これは、一体……」


 澪の手帳の文字が消えていく光景と、同じ現象がここでも起きている。

 偶然のはずなのに、“偶然”という言葉の方がどこか場違いに思えた。


 この村では、夢と現実の境目がゆるんでいる。

 そう考えた方が、よほど筋が通る気がした。


 気がつくと、もう部屋を出ていた。

 身体は、理由を求めずに動くことを覚えてしまったらしい。

 あの神社へ行かなければ、今日という一日が始まらない。

 そんな感覚が、呼吸をするのと同じくらい自然になっていた。


 白羽神社へ続く坂道は、昨日と同じように、薄暗い光に包まれていた。

 時間帯は違うはずなのに、影の長さも、風鈴の沈黙も、何もかもほとんど変わらない。

 ただ一つ違うのは、自分の中にある“慣れ”だけだった。


 鳥居の前で立ち止まる。

 深呼吸をすると、水の匂いが肺の奥に沈んでいく。

 風が止んで以来、水の音がやけに近くなった。

 まるで誰かの声が、形を変えてここに残っているみたいに。


 境内を横切り、社の横手へ。

 昨日、澪に案内された細い道を、今度は一人で歩く。

 岩壁に沿うように伸びる道は、まるで水底へ続く階段のようだった。


 ふいに視界が開ける。

 藍色の池が、今日も静かに息をしていた。


「また、迷ったの?」


 水面の反対側から、声がした。


 澪は昨日と同じ場所にしゃがみ込んでいた。

 その瞳は、今日も深い藍色で、底に淡い光を眠らせている。


 昨日、ここで自分が漏らした言葉を、そのままなぞるような問いかけ――

 けれど、その響きにはどこか違和感があった。


「……そうかもしれないな」


「ふふ、やっぱり。ここに来る人は、みんな少しだけ迷ってるんだよ」


 やっぱり、という言葉に引っかかる。

 昨日も同じことを言われた気がして、頭の中で記憶を探る。

 だが、ぴたりと一致する場面は見つからなかった。

 似ているのに、どこかが違う。

 同じ夢を、少しずつ別の形で繰り返しているような感覚。


「ねえ、昨日のこと……覚えてる?」


 澪は水面から目を離さずに言う。


 その質問も、聞き覚えがある。

 昨日の水際で、彼女は確かに同じことを尋ねた。

 だが今の声は、あの時よりも少しだけ低く震えている。


「ああ。君とここで話したことも、池のことも、手帳のことも」


 そう答えながら、自分の言葉がどこまで本当なのか測りかねていた。

 覚えている――と口にした瞬間、その記憶の輪郭がかえって滲む。

 確かめようと手を伸ばした途端、水底に崩れてしまう像のように。


「そっか。よかった」


 澪は微笑んだ。

 けれど、その微笑みはどこかぎこちない。


「じゃあ……あの話も、覚えてる?」

「……あの話?」


「ほら、『この村は夢の中みたいだ』って、あなたが言ってたでしょう?」


 心臓が一瞬止まった気がした。


 そんなことを、言った覚えはない。

 少なくとも、彼女の前で口にした記憶はどこにもない。


「昨日、ここで」

 澪は当たり前のように続ける。

「この池を見ながら、言ったんだよ。

 “どこまでが現実なのか分からない”って」


 頭のどこかでぼんやり考えてはいたけれど、彼女に打ち明けたことはない。


 ――なのに、澪の中では、それはすでに“昨日の出来事”になっている。


 夢と現実のずれ。

 時間のずれ。

 そして、彼女自身の記憶のずれ。


「……そう、だったかもしれないな」


 訂正しようとして、やめた。

 違う、と言ってしまえば、彼女の中の“昨日”が壊れてしまう気がした。

 澪の時間は、きっともう十分に脆い。

 そこへ余計なひびを入れる権利は、自分にはない。


 澪はほっとしたように肩の力を抜いた。


「私、本当に覚えてるのかどうか自信がなくて……

 でも、あなたが覚えてるなら……大丈夫だね」


 大丈夫。

 その言葉は、彼女自身に向けられたものだった。

 自分で自分に言い聞かせている。

 “まだ崩れていない”と。

 “まだここにいる”と。


「私ね、少し……変なんだ」


 澪はそう言って、膝の上で指を組んだ。


「昨日のことを思い出そうとすると、別の“昨日”が紛れ込んでくるの。

 もしかしたら、もっと昔のことかもしれないし、まだ起きてないことかもしれない。

 どっちにしても、ちゃんと形にならない“昨日”」


 言葉を選びながら話すその様子は、どこか痛々しい。

 記憶を削り取られる怖さではなく、

 思い出せない自分を見つめ続ける怖さが、そこにはあった。


「怖く……ないのか?」


 気づけば、そう訊いていた。

 彼女の心に触れてしまうと分かっていて、それでも聞かずにいられなかった。


「怖いよ」


 澪は即座に答えた。

 その素直さが胸に刺さる。


「でも、怖いって言いすぎると、余計に壊れちゃいそうで……

 だから、“まだ大丈夫”って、先に思うようにしてるの」


「おまじない、みたいなものか」

「うん。自分を誤魔化すおまじない」


 澪は、少しだけ笑った。

 その笑みは、水面に浮かんだ泡のようにすぐに消える。


「……忘れられるのが、怖いんだ」


 ぽつりと落とした言葉は、昨日のそれと同じだった。

 けれど、今日の声の方がずっと細く聞こえる。


 忘れられること。

 そして、思い出せない自分。

 どちらも彼女を少しずつ削っていく。


 ――それでも。


「忘れたくないのに、忘れそうになることも。

 忘れられないまま生きていくことも……どちらも怖い」


 亜麻色の影が、風の名残とともに胸の奥で揺れる。

 忘れてしまうのが怖くて、必死にしがみついてきた。

 それもまた別の形の呪いになるのだと、澪を見ていると分かってしまう。


「大切なものほど、離れなくなる。

 それをずっと抱えたまま、生きていく方が怖いのかもしれない」


「……それでも、忘れたくはないんでしょう?」


 澪は首を傾げる。

 藍色の瞳が、こちらをまっすぐ射抜いた。


「うん。矛盾してるけど」


「矛盾してる方が、人間っぽくていいよ」


 いたずらっぽく言ってから、澪は小さく息を吐いた。


「――だから」


 懐から、あの手帳を取り出す。

 表紙は少し、色あせて見えた。

 それがもともとの古びた光沢なのか、今日になって薄れたのかは分からない。


「今日も、書くね」


 澪は池の縁に腰を下ろした。

 彼女の足元で、藍色の水面が小さく震える。

 風は吹いていない。

 ただ、誰かの記憶が息をしているだけだ。


 手帳を膝に乗せ、澪は細い指で頁を開いた。

 白い紙が、月光を先取りするように淡く光る。


「忘れないために書くんじゃなくて……

 忘れてもいいように、書いておきたいんだ」


 その言い方が、妙に胸に残った。

 忘れてもいいように――。

 それは諦めではなく、許しに近い響きを持っていた。


 澪は、さらさらと文字を綴り始める。

 墨の線が紙の上に軌跡を描き、言葉が形を持つ。

 しかし、書き終えるのを待たずして、その端からゆっくり滲み出す。


 黒だったはずの線が、藍色に溶けていく。

 やがて輪郭を失い、水面へ落ちる染みのように消えていった。


「……やっぱり、今日もだめか」


 澪は苦笑した。

 諦めたようで、どこか安心しているようにも見えた。


 「怖くないのか?」と、もう一度訊ねたくなる。

 けれど、その問いは飲み込んだ。

 彼女はもう答えを知っている。

 そして、自分も。


「ねえ」


 沈黙を破るように、澪が顔を上げた。


「明日も、来てくれる?」


 それは祈りの形をしているのに、どこか頼りない響きだった。


「ああ。明日も来る」


 口にした瞬間、胸の奥で別の声が囁く。

 ――“明日”なんて、本当にあるのか。


 この夢のような夜に、どこまで続きが許されているのか。

 それでも、約束を口にせずにはいられなかった。

 約束そのものが、彼女をこの場所に繋ぎ止めている気がしたから。


「よかった」


 澪はほっと笑う。

 その笑みは、水面に落ちて、ゆっくりと輪郭を崩していった。


「じゃあ、明日、続きを書くね」


 続き。

 それが何の続きなのか、澪自身もきっと分かっていない。

 手帳の物語か、自分たちの会話か、それとももっと別の何かか。

 それでも彼女は、“続き”という言葉だけを手放さなかった。


 その瞬間、池の水面がふっと揺れた。

 風は吹いていない。

 けれど、どこか遠くで、見えない羽音がした気がした。


 視界の端で、何か白いものが舞う。

 ひらひらと、夜の中を漂って、こちらの足元へ落ちてきた。


 一枚の紙片だった。

 さっき滲んで消えたはずの文字が、

 その断片の中でだけ、かろうじて形を保っている。


 拾い上げると、指先に冷たさが走った。

 そこに刻まれたのは、たった一つ。


 ――八月十三日。

  手を伸ばした。届かなかった。


 短い文のはずなのに、

 読み終えたあとも、しばらく息ができなかった。


 誰が、誰に向かって手を伸ばしたのか。

 それが今日のことなのか、明日のことなのか、過去のことなのか。

 紙片は何も教えてくれない。


 顔を上げる。


 池の向こう側にいたはずの澪の姿は、もうどこにもなかった。

 藍色の水面だけが、静かに呼吸を続けている。


 指先の震えと、紙片の重さだけが、

 “彼女は確かにここにいた”という事実を、かろうじて繋ぎ止めていた。

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