「一日目」― 邂逅
バスが去ると、音は山の向こうへ吸い込まれていった。
夏なのに、風だけがどこか遠い。肌に触れそうで触れない。季節だけを置いていったみたいだ。
停留所の脇に置かれたベンチはひび割れ、塗料は陽に焼けて白んでいる。地図は消えかけ、指でなぞっても輪郭は戻らない。
鞄の口を開ける。調査票、録音機、鉛筆、方眼のメモ帳。見慣れた道具が、ここでは少し異物に感じられた。
──夏期のフィールドワーク。
──卒論の仮題は「辺地における“白布”の信仰的機能の残滓」。
──祭礼は消えつつあるが、布だけが残る土地がある、と文献にあった。
道を下りると、家屋がひらける。屋根は低く、軒は深い。どの家の前にも物干し台があり、そこにあるのは──白いものばかりだった。
タオルも、シャツも、シーツも。彩度がふいに絞られたようで、視界が柔らかく痺れる。洗い立ての石鹸の匂いがかすかにするのに、生活の湿り気が乏しい。不思議に乾いている。
通りすがりの老女が、こちらを一瞥してから、何も言わずに目を伏せた。
言葉はあるはずなのに、口元まで来て、風にさらわれたような気配。
広場の端で、古びた木箱の上に針が並べられていた。売っているのは、背中の曲がった老人。
針はどれも少し錆びているのに、布の上に整然と寝かされ、一本ずつ、まるで名のある者のように扱われていた。
「こんにちは」
「それは、祭りのための道具ですか?」
尋ねると、老人は目だけを上げる。
「道具だよ」
「何を…するための…?」
「命を、つなぐための」
軽口ではなかった。冗談の形をして、笑いどころのない温度が残った。
記録を取ろうとメモ帳を開く。鉛筆の先が紙に触れる前に、風が一度だけ強く吹いて、頁を裏返していった。白い頁が、白い布と同じ質感で揺れる。
メモ帳を閉じ、まずは歩こうと思った。足で覚えるしかない土地がある。
村の奥へ。溝を渡り、畦道を抜けると、視界がふっと明るくなる。
そこに、干された白布があった。洗濯物には見えない。布は二重三重に折られ、抱えるように胸元でまとめられている。抱いた腕の内側で、小さな生きもののように、布がわずかに呼吸する気配。
布を抱く少女が、こちらを見た。
亜麻色の髪が風に絡む。陽をすくって、髪そのものが淡い繊維でできているみたいだった。
視線が合うと、胸の疼きがほんの少しだけ和らいだ。理由は分からない。
「触っちゃだめだよ」
距離を詰めるより先に、声だけが届く。
「……どうして」
「まだ、生きてるから」
その言い方に、奇を衒う湿り気はなかった。
“当たり前”の位置から、こちらを静かに遠ざける言葉。
伸ばしかけた手が、勝手に胸の前で止まる。手のひらが熱を持つ。そこに触れたら、ほんとうに呼吸を奪ってしまいそうで。
少女は、白布の端をそっと庇うように指で押さえなおした。
「みんな、怖いって言うの」
「……何を」
「わたしが抱えてるものを」
“もの”。
布を指すのか。布の向こうの何かを指すのか。あるいは少女自身のことなのか。
どれも正しく、どれも間違いではないような、曖昧な指示。
否定の言葉を探す。けれど、容易な慰めは嘘の匂いを纏う。
代わりに、視線を逸らさないことだけを選んだ。
少女の頬にかかる髪が、風で揺れるたび、白布の影までやわらかく形を変える。
「……あなたは、そうじゃないみたい」
彼女が小さく言った。
その一言が、こちらの胸骨の内側で静かに鳴った。まだ名もない何かが、居場所を見つけた音。
「澄羽ー?終わったなら、こっちを手伝ってー!」
──裏手の方から女性の声
「また、明日」
それだけ言い残して、澄羽と呼ばれた少女は背を向ける。
白布が小さく揺れる。抱かれたものが、持ち主に宥められているみたいに。
振り返らない背中が夕光に縁取られ、輪郭だけ置いていく。
夕暮れの色が退きはじめる。
鞄の中で録音機が小さく鳴った。誤って作動させていたボタンを止める。記録は取れなかったのに、記録以上のものが掌に残っている。白い呼吸の重み。
◆
部屋を借りた民宿は、村はずれの道沿いにあった。表札の古い木の香りが、夜露で少し膨らんでいる。
玄関を上がると、女将が名前を訊かないまま、黙って部屋を示した。
畳の匂い。障子の桟に指の跡。床の間には、文字の擦れた掛け軸──墨は褪せているのに、線だけが生きている。
荷を下ろし、手帳を開く。
今日の見取り図。白の多い生活。言わない村人。針売りの老人の言葉。
余白のほうが多い。ここでは、意味のほうから先に立ち上がらない。
窓を開ける。夜風。
草を撫で、山肌を過ぎて、また戻ってくる風の往復が、耳にわかる。
電灯の明かりも、遠い笑い声も、ここにはない。あるのは、風の通り道だけ。
襖の隙間が、かすかに音を立てた。
気のせいだろうか。耳鳴りに似た、乾いた触れ合いの音が、ふっと過ぎる。
──カツ。
──カツ。
針が何かをなぞる音に似ている。指で布の目を数えるように、規則正しいのに、どこか不揃い。
音の来処はわからない。けれど、どこかで布が夜の呼吸に合わせて揺れているのだとしたら──そう思えた瞬間、胸の奥でほどけかけていた何かが、また結び目をつくった。
横になる。瞼の裏に、亜麻色の髪が揺れる。
呼吸が浅くなって、ふいに深くなる。眠りの縁に、白い気配が差し込む。
白い視界。
風はなく、布だけが微かに揺れる。背中を向けた少女が立っている。昼間の子ではない、と直感する。立ち姿が異なる。静けさの質が違う。
振り返らないまま、彼女は言う。
「知らなくていいんですよ」
声は穏やかで、どこか懐かしい。
「知らないままでいたら、……きっと、終わらないのですから」
その言葉は、慰めにも、呪いにも似ていた。
どちらを選ぶべきか、まだ分からない。分からないから、目が覚める。
闇に目が慣れる。
窓の外で、風がゆっくり襞を返す。
白いものの影は見えない。けれど、白いものの音だけが、耳の奥に残っている。
明日も、行く。
言葉にしないまま、胸の内で決める。
呼んだ途端にどこかへ消えてしまいそうな、あの気配のままで。




