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第1話 その告白、やり直し可


 靴底が古いワックスに吸い付く。放課後の廊下は、真っ直ぐすぎていつもより長く見えた。窓の外、陸上部が土の匂いを跳ね上げている。短距離のスターティングブロックの金属音が、ここまで淡く届く。俺は吸い込んだ息を喉の奥で押し戻しながら歩き、踊り場の手すりに寄りかかった亜子に声をかけた。


「話、いい?」


 亜子は振り向く。汗の粒がこめかみから髪へ、細い糸みたいに移動して、そこで止まる。眉尻はいつもの位置で、笑うときと同じ角度なのに、目の奥の焦点が遠い。練習メニューの残りを心のどこかで数えているときの顔だ。だから、言葉は短く。やるなら、いましかない。


「好きだ」


 吐き出した瞬間、靴底が床から剥がれるように、俺は自分の体から半歩分、遅れた。その遅れの中で、亜子のまつげが一度揺れ、視線が俺の肩の後ろに抜け、それから戻ってくるのが見えた。ゆっくり、彼女は手すりから離れ、体を正面に向ける。


「湊のことは、大事」


 そこまでで、答えの輪郭が判った。続きは、想像したことのある語順で進む。


「でも、今は部活と将来で手一杯なの。嘘じゃないよ。ほんとに、余力がない。だから——ごめん」


 ごめん、の音が落ちる場所は、床じゃなかった。胸の内側、呼吸の浅くなる地点。言葉がそこに沈むと、体の温度がほんの少し下がった。いいやつぶるな、は駄目だ。泣くのはもっと駄目だ。俺は何も言わずに頭を下げ、視界の端に彼女の影を残したまま、角を曲がって非常階段へ逃げ込んだ。


 鉄の匂いは、いつでも現実的だ。踊り場の片隅、古い配電盤の上に、錆びの出た小さなプレートが斜めに留められている。誰が貼ったのか、いつからあるのか、見たことがあるような気もするし、初めて気づいたような気もする。


〈時間研究同好会——入部希望者はノック〉


 悪ふざけだろ、と半分笑って、扉を軽く叩いた。中から返事。若い男の声だが、語尾だけが妙に柔らかい。


「どうぞ」


 開いた扉の向こうは狭かった。理科準備室をさらに縮めたくらいの空間に、折り畳み机が三つ、古い目覚まし時計が四つ、白衣を肩にひっかけた先輩がひとり。白衣は袖を通していない。肩に『羽織っている』だけで、彼の気配にだけ正確に似合っていた。


「ようこそ。失恋直後の来訪者は、成功率が高い」


 意味が分からない挨拶に、俺は足を止める。先輩は手元のノートにさらさらと何かを書き込みながら、顔だけこちらに向けた。睫毛が長い。視線は泳がない。


「霧島。三年。ここでは記録係と見習い顧問を兼ねてる」


「記録……顧問?」


「勝手に名乗ってるだけ。……で、君の名前」


「川名。川名湊。一年」


「川名。失礼するよ」


 霧島は机の上の目覚まし時計をひとつ、俺のほうへ滑らせた。丸い金属の枠に、小さな竜頭が付いた、古びたアナログ。黒板消しみたいな埃の匂いがする。秒針が静かに、淡々と進んでいる。進んでいるのに、俺の視界の端で何かが逆流した。廊下のざわめき、夕陽の角度、遠くのタイヤの軋み。どれもすこしだけ若返り、そこで止まる。


「今のはサービス。十秒だけ戻した」


 霧島は、人差し指を立てて見せた。「証拠は出せない。主観の話だから。けど、君の耳はさっきよりも軽い音を拾っているはずだし、喉の渇きは、さっき飲んだ水の分だけ薄くなってる」


 喉を動かす。確かに、乾きが、薄い。妙に説得力があった。俺は思わず笑ってから、その笑いがいつもの笑いより半音明るいことに自分で驚いた。


「ここでは、1日に一人3回まで、最大10分の巻き戻しができる。代償は“巻き戻し疲労”。乱用すれば倒れる。……で、試す?」


 馬鹿げてる。そう言えばよかったのに、言葉は喉から出ない。亜子に言いそびれた一言が、背中の真ん中に刺さったまま抜けず、その棘のせいで体を前に倒す姿勢しか取れない。俺は椅子に座った。霧島が竜頭を示す。反時計回り。怖いなら一分、いや三十秒からでもいい、と。


「三分、で」


 気が大きくなっていた。竜頭に指をかけ、ゆっくり回す。ぴたり、と秒針が逆流を始めた瞬間、視界が薄く二重写しになる。音が水中に沈む。足裏の感覚が、さっきより軽くなる。鼻に入ってくる埃の匂いが、新鮮な紙の匂いに近づく。次に目を開けたとき、俺は廊下の角——告白の数分前に立っていた。


 心臓が騒ぐ。手のひらが汗ばむ。いける。やり直せる。さっきの俺より、うまくやれる。そんな都合のいい確信で、俺は角を曲がった。


「話、いい?」


 二度目の声は、少し低かった。低い声は落ち着いて聞こえる。亜子は振り向く。やっぱり汗の光り方は同じだ。まつげの影が頬に落ち、そこへまた、先のことを考える影が重なる。俺は順番を変えた。


「お疲れさま。今日、タイム走、いいタイムだったって聞いた」


 亜子の目がわずかに和らぐ。俺は続ける。


「だから、いきなりじゃないほうがいいと思って。——好きだ」


 順番を変えただけで、内容は大差ない。答えも、似た場所へ滑った。


「ありがとう。大事に思ってくれてるの、分かる。でも、今は——」


 でも、の先は、同じだった。俺は二度目の「ごめん」を受け取り、今回も逃げ場として非常階段を選んだ。鉄の匂いは、やっぱり現実的だった。


 三度目は、軽口に逃げた。「じゃあ、卒業まで待つ宣言でもしておく?」と笑った。笑いながら、心のどこかで、馬鹿にしている自分がいた。軽さは防御だ。弾が当たっても、重症にならないようにするための。


「そういうの、いちばん困る」


 亜子は困り笑いで、困ってるときの口元の癖を隠しながら言った。「待たせる側の罪悪感と、待つ側の期待と、どっちも重いの知ってるから」


「だよな」


 言って、引いた。三度目の巻き戻しは、使っていない。途中で霧島が肩を叩いたからだ。部室に戻ると、彼は白衣をきちんと着た。袖に腕を通すと、言葉の硬さが半段上がる。空気の密度が変わる。


「1日3回までだと言ったろ。君、すでに三回使った」


「二回じゃ?」


「最初の“サービス”をカウントしてないなら、三回だよ。君の試行は、十秒、三分、二分。……最後の軽口は、君の素だ。巻き戻しがなかったら、たぶん最初からそれだ」


 霧島はノートを俺に向けた。時間と場所と、俺の言葉の要旨と、亜子の反応が、丁寧に記されている。字が綺麗すぎて、すこし腹が立つ。


「ここでのルールを説明する。①巻き戻しは自身の行動に限り反映。結果は“関係の地形”に依存する。②第三者の生命を守る目的の介入は反動が蓄積。めまい、吐き気、記憶の混線。③“やり直し成功”の基準は本人の納得。ただし“世界側の矛盾”が一定以上膨らむと時間は跳ね返す。④記録係がログを取り、失敗のパターンを可視化。——以上」


「“世界側の矛盾”?」


「例えば、君が今日、君らしくないほど完璧な告白を完遂したとする。言葉も順番もタイミングも、いまの亜子に最適化されている。だけど、それを支える土台——君がこれまで見せてきた“重さ”や“軽さ”、二人の間の勉強時間や、練習の見学の回数、帰り道の会話の蓄積——がまだない。すると、世界は『待った』をかける。『そんなはずはない』の反動は、反動として出る。これはここでは“時間の跳ね返り”として観測される」


「つまり、運だけでは勝てない」


「そう」


 霧島は、ふっと肩の力を抜いた。「君のさっきの突撃は、戦略ゼロの突撃だ。誠実ではあるけど、見ていないものが多すぎる。彼女の練習時間、コンディション、試合前の心理、君の言葉の重さ。——君の“好き”は軽く見せて重い。重く見せて軽いこともある。どっちにしても、彼女は今、背負える荷物が決まっている。そこへ君の荷物を、そのままポンと乗せると、落ちる」


「じゃあ、どうすれば」


「乗せない。分割して預ける。君の荷物の中身を、まず自分で整理する。捨てられるものは捨てる。預ける順番を決める。——やり直しは魔法じゃない。改善だ。魔法みたいな仕組みでも、運用が凡庸なら、凡庸な結果になる」


 この先輩、口が悪い。けれど、刺さり方が奇麗だ。刺さったあと、傷口を舐めてくれる手つきも、持っている。言葉の温度は一定で、過剰に慰めない。痛いところだけ、正確に押す。


「で、入る? “タイムループ部”なんてふざけた看板の非公認団体に」


「仮入部で」


「歓迎する。初週の宿題は簡単だ。『三回制限の中で、十分の配分を考える』。告白を“達成”にするんじゃない。“二人の関係を損なわない形で今の最適解に着地”。——それが第一週の目標だ」


 霧島はホワイトボードに、何かの関数みたいな曲線を描いた。横軸に「時間」、縦軸に「負荷」。告白という一点のために曲線を跳ねさせるのではなく、線全体をじわじわ上げていく。そんなイメージ。俺は頷いて、でもそれがどれくらい難しいか、すぐには想像できなかった。


 帰り道、空は沈み際の色で、うちのアパートのベランダに干されたバスタオルは風を飲み込んで、膨らんだり萎んだりしている。エレベーターの鏡に映った顔は、昼よりも少しだけ疲れていて、でも、昼よりも少しだけ「次の台詞」を持っている顔でもあった。


 玄関で靴を脱ぐと、母の声が台所から飛んでくる。「おかえり。今日、陸上の子、テレビ出てたよ。駅伝の特集」


「見た」


 見ていない。けれど、見たと言うことで、会話の重さを軽くできるときがある。嘘は嫌いだ。でも、家庭の会話の嘘は、静けさのための緩衝材みたいなところがある。母は「あの子たち、ほんとにすごいね」と言って、味噌汁の蓋をずらした。湯気に出汁の匂い。亜子が好きな匂い。そういう情報を、俺はこれまでどう使ってきただろう。使わないことで、自分をきれいに保ってきたんじゃないか。自分の「努力してない部分」を、見せないで済む安全地帯に隠して。


 机に向かう。ノートを開き、霧島の真似をして、今日のログを書く。場所、時間、言った言葉、相手の反応、自分の体調。これだけで、一ページが埋まった。埋まることで、空白が怖くなくなる。空白は、次の埋め方の練習になる。


 ——明日は、言葉を短く。条件の提示はしない。彼女の努力を尊重するフレーズを先に置く。最後に逃げ道を残す。逃げ道は卑怯じゃない。逃げ道がない橋は、誰も渡らない。


 時計の針を見ないようにして、目を閉じる。目を閉じる直前に、部室の目覚ましの秒針の音が耳の奥で再生される。戻せる時間があると知ったせいで、眠りは浅くなるかと思ったけれど、むしろ逆だった。戻せるなら、いまは戻さないでいい。戻さないことを選べる自由は、体に重さをもたらす。重さは、布団の重みと重なって、安心に近づく。


 翌朝の空は、薄い牛乳の色だった。校門をくぐる前に、霧島からメッセージが届く。短い文章。句読点の位置まで律儀だ。


〈本日の配分案:①30秒(朝の挨拶/声の高さ調整)、②4分(昼休み/練習メニューの確認と応援の約束)、③5分30秒(放課後/告白の“保留”と次の面談予約)。総計10分。——失敗しても、ログを〉


 “面談予約”。文字だけ見ると滑稽だ。恋人でもないのに。けれど、直前の俺は、直で本丸に突っ込んで、敗走した兵士だ。次は補給線を整える。弓を張り替え、矢羽根を揃える。そういう地味さが、今の俺には必要だ。


 朝の挨拶は、三十秒の巻き戻しで声の高さを調整した。高すぎる声は焦りに聞こえる。低すぎる声は、重い。亜子の目は、驚くほど誠実に反応する。ほんの半音の違いに、彼女は気づく。気づいて、反応を返す。そのやりとりに、俺は初めて「彼女と話している」と感じた。これまでの俺の会話は、俺の頭の中の彼女との会話だったのだ、と、ちょっとだけショックを受ける。


 昼休み、彼女の席の近くを通るタイミングは巻き戻しなしで合わせた。チャンスは自然にやってくる。自然に来たものだけ掴む。勘違いしやすいが、それは臆病ではない。尊重だ。メニューの話は、俺が分からない単語が多くて、途中で詰まった。詰まったところは正直に訊く。「その“レペティション”って何」「同じ距離を何本も、全力に近いスピードでやるやつ」。こういう基本は、もっと前に覚えておくべきだった。彼女の世界の辞書を一冊も持っていないまま、俺は彼女の世界へ踏み込もうとしていたのだ。


 放課後、踊り場の手すり。そこはきっと、何度でも俺の戦場になる。五分三十秒の巻き戻しのカードは、ポケットの中の薄い札みたいに温度を持っている。切るタイミングは、最後の一言が崩れかけたときでいい。いける、と思ったときに限って、言葉は落ちる。落ちる手前で拾い直す。


「話、いい?」


「いいよ」


「この間、いきなりでごめん。重かったと思う。——いま、返事は要らない。むしろ、いまは返事しないでほしい」


 亜子は目を瞬いた。瞬きは、考える前の反応だ。考え始めると、瞬きは止まる。


「断らせない圧じゃないよ。それも違う。俺の、わがまま。まだ、俺、亜子のこと知らない。知ってると思ってたけど、違った。だから、俺が知る時間、欲しい。練習の邪魔はしない。試合の前は話しかけない。応援はする。——そのうえで、たぶん半年後くらいに、もう一回だけ話す。嫌だったら、いま言って」


 ここで、言葉が崩れかけた。自分で自分の約束に酔いそうになった。酔うのは危ない。巻き戻しの竜頭に指をかける。時間をほんの十秒だけ戻し、同じフレーズの最後を少し削る。


「嫌だったら、いま言って」


 亜子は、息を一つだけ吸った。吸い方が深い。深い息は、言葉に体温を渡す。


「……それ、いいと思う」


 “いいと思う”。それはYesではない。Noでもない。仮のYes。仮のYesは、契約の端のメモのようなものだ。後で消せる。消せる、という事実が、今はとても心強い。


「ありがとう」


「こっちこそ、ありがとう。重くて、ごめん」


「ごめんは、お互い様」


 お互い様。便利で、やさしい言葉。やさしいけれど、逃げ場にもなる。逃げすぎないように、俺は心の中で線を引いた。線は見えないが、感触はある。


 その夜、部室で霧島が拍手をした。音は一度だけ。多くない拍手は、場を壊さない。


「第一週の目標、達成。——『二人の関係を損なわない形で今の最適解に着地』。今日は君が“返事を得た”のではなく“時間を得た”。時間は、巻き戻せると分かった瞬間から、質が変わる。雑にできなくなる。丁寧が必要になる。丁寧は、だいたいしんどい。でも、しんどいのは悪くない。しんどいとき、人は黙る。黙ると、見える」


「見える?」


「君が今まで見ていなかったもの。例えば、踊り場の手すりの錆の色が、右と左で違うこと。例えば、亜子の靴紐が右だけ二重に結ばれていること。例えば、彼女が“ごめん”と言う前に、唇の右側だけ少し下がること。——些末だと思う? 些末の積み重ねは、君の言葉の重さの裏付けになる」


 俺は頷いた。頷きながら、疲れが背中から降りてきた。巻き戻し疲労は、頭痛ではなく、体の内側の砂時計が余計に一度ひっくり返る感覚に近い。眠れば治る。眠らなければ、治らない。単純で、残酷で、まっとうだ。


「最後にもう一つ。——君が誰かの生命を直接救おうとする介入は、ここでは『重い』。重いこと自体は否定しない。けれど、反動は必ず来る。めまい、記憶の混線、場合によっては、君の時間感覚の破綻。そうなったときは、躊躇わず止めに来い。君が倒れると、時間は君を切り捨てる」


「脅してます?」


「友達を増やしたいだけ。倒れない友達を」


 霧島は笑った。笑い方は上手ではないけれど、練習している笑いだ。練習している笑いは、いつか自然になる。いつか自然になるものを、俺は愛せると思った。


 帰り道、夜風は昼よりも軽く、アパートの階段の踊り場に溜まっていた熱はすでに抜けていた。鍵を回し、部屋に入る。机にノート。今日のログの続き。巻き戻しの秒数、言葉の順番、相手の表情、自分の呼吸。書けば書くほど、自分が“やり直しを持っている人間”の顔になっていくのが分かる。持っているから、雑にできない。持っているから、逃げられない。持っていないフリより、ずっと面倒で、ずっと自由だ。


 目を閉じる前、スマホが小さく震えた。亜子からではない。霧島からだ。短い追伸。


〈“やり直し成功”は、君の納得が基準。でも、君一人の満足だけで“成功”と呼ばないで。——それは、ここでの禁句だ〉


 禁句。口に出していない言葉にも、禁句はある。書かれなかった条文が、場の空気を守ることがある。俺はメッセージを既読にして、深呼吸をひとつ置き、目を閉じた。明日は、今日よりも少しだけうまくやる。少しだけ、だ。少しだけを、積む。積んだ先に、彼女がいるかどうかはまだ分からない。分からないことが、いまは救いでもある。


 「その告白、やり直し可」。部室の扉のプレートの文字が、眠りの手前で浮かび上がる。可、の字がかわいいと思った。可、は許可の可だ。合格の可でもある。自分でつける○は、甘すぎるかもしれない。けれど、誰かにつけられる×よりは、今日の俺には合っている。そんなふうに思いながら、俺は眠りに落ちた。時計の秒針の音は、今夜は鳴らない。鳴らさないことを俺が選んだからだ。選んだ責任は、明日の朝、俺が受け取る。受け取り方は、今日より少しだけ、うまくなっているといい。


第2話「10分×3回の設計図」


 グラウンドの砂は朝の水撒きでしっとりしていて、スパイクの歯形がはっきり残っていた。陸上部の一年たちが集合する前、ベンチの影はまだ細く、春の太陽は斜めからラインテープを光らせる。昨日の失敗の音が体内に残っていた。心臓が一つ遅れて鳴るみたいに、ふとした瞬間に鼓動がつまずく。だけど、今日は最初の十分を、俺は俺から切り離す。観察に使う。そう決めた。


 亜子はすでに来ていて、白いシューズの紐を二段に組み直していた。結び直すときの癖——左親指で結び目を押さえ、右の人差し指で輪を軽く弾く。弾かれた輪はぴんと立ち上がり、余った紐が小さく跳ねる。彼女はその跳ねを見届けると、顔を上げて顧問の方に視線を投げ、短く復唱した。「アップ三周、体幹二セット」。その声はひそやかだけど芯がある。後輩がフォームを確かめる視線を送ると、亜子は顎だけで「もっと肘引いて」と指示の角度を作る。言葉が多くないのは、今の意識が勝つ方に全振りしている証拠だ。呼吸は浅くなく、肩も張っていない。コンディションはいい。恋の比率をここで上げるのは、彼女の時間から切り取って自分に足すことになる。昨日の俺はそれをやった。だから今日はやらない。


 観察の十分快は、意外と短い。俺はベンチの端に座り、スコアボードの裏で風を避けながら、ノートの端に箇条書きをしていく。紐の結び方、復唱、後輩の視線、顧問への返答のテンポ、笑顔が出た位置——全部、亜子の「今」の地形だ。そこに無遠慮に杭を打ち込むのは違う。杭は必要になるまで腰に提げておく。


 アップの隊列が動きだし、ベンチの影が薄くなる頃、俺は立ち上がる。彼女が休憩に戻るタイミング——水を口に含んで顎をさすり、肩の汗を手の甲で払う、そのわずかな谷間に入る。成功の条件は三つ。短く、具体的に、責任の位置を自分側に。昨日の俺はその逆をした。


 「昨日の、時間、食った。悪かった」


 俺は先に、詫びる言葉だけ差し出した。目の高さは合わせるが、視線はすぐに外す。彼女の反応の選択幅を狭めないための一秒を、意識して空ける。


 「……ううん。言ってくれてよかった」


 眉間に寄っていた微細な緊張が、ほどけた。吐息が一つ、軽くなる。


 「でも、タイミングは悪かった。そうだね」


 「だから、撤回とかはしない。ただ、今は応援させて。陸上の。俺からは、それだけ」


 言い切ってから、逃げ道を作る。「返事は要らない」と、付け足そうとしたとき、彼女が唇の端だけで笑った。


 「ありがとう」


 ただそれだけ。けれど、砂の上に残っていた昨日の足跡の半分くらいは、風で消えたように思えた。俺の十分の一回目は、巻き戻しなしで終わった。時計に触れたくなる衝動——シャツの内ポケットにひやりと当たる丸い重み——を、指の腹で宥める。


 マネージャーが氷の入ったポリバケツを引いてきて、顧問が手帳にメニューを書き足す。練習は加速していく。俺はフェンスの外に出て、深呼吸を一つ。ここで余計な言葉を足すと、さっきの十分快が台無しになる。踏み込みたい気持ちの足首を、自分でつかんで止める感じ。止めるという行為にも筋肉がいる。それを、初めて知る。


 午前の授業は、薄く過ぎた。板書の文字を写しながら、午前の十分快の余白に、二回目の設計図を書き足す。「昼休み/波紋を立てない」。俺だけの恋の話は、彼女の友人関係の水面に石を投げることがある。霧島の言っていた「第三者の前では重大な話をするな」。重大な話は、重大であるほど人から人へ音を立てる。音は速度を持ち、速度は形を変える。俺が渡したものは、渡すときと違う顔で彼女に戻る。それが噂というやつだ。なら、今日の昼は恋ではないものを彼女に渡す。彼女と俺の間ではなく、彼女と世界の間に置けるもの。


 購買の列でミニドーナツを二袋買った。砂糖がたっぷりかかっているやつと、シナモンのやつ。あと、生活委員の掲示板から遠征費の募金箱を借りる許可をもらう。許可の紙は青いスタンプが傾いていて、押した人の眠気を想像させた。その傾きを見て、少し笑ってしまう。そういうところにだけ、余裕があるのはずるい。


 昼のチャイム。教室の空気は、食べ物の匂いと笑い声で膨らんでいく。亜子は窓際の席で、同じ陸上部の女子と話していた。話題はスパイクのピンの長さと、来月の会場の風。そこに俺は、ドーナツと募金箱を持って入る。入ると言っても、輪の外側で立ち止まる。彼女の会話の切れ目を待って、箱を持ち上げる手をほんの少しだけ高くする。目立ちすぎない高さ。


 「遠征の、手伝いさせて」


 先にドーナツを差し出すと、その場の空気が一段、柔らかくなる。砂糖の粒がこぼれて、机に小さな星座をつくる。彼女の友人の一人が笑って「助かる」と言い、俺は「募金箱も、一緒に回す?」と提案した。亜子が箱の蓋の紙を軽く押さえ、頷く。


 「いいの? ありがとう」


 彼女はそれ以上言わないが、その笑顔は午前のベンチでの「ありがとう」と同じ場所から出てきたものだとわかる。たぶん、同じ言葉でも、向こうにあるのは別の意味だ。午前は俺に向けて、昼は世界に向けて。俺はその違いを、手のひらの重さで理解する。募金箱のコインがぽとりと落ちる音が、教室の別の机でも同じように鳴る。その規則性を追いかけるのが楽しい。恋から離れていても、彼女が嬉しいなら、俺は嬉しい。これはそういう訓練だ。


 教室の半分を回ったところで、彼女の友人の一人が俺に小声で言った。


 「昨日、亜子、少し疲れてた。今日の朝、顔が戻ってた。たぶん、あんたの“ありがとう”が効いた」


 その言葉に救われる人間の顔を、俺は自分の内側で見た。俺は「そうだったら、よかった」とだけ返す。それ以上は足さない。昼の十分快の目的は、波紋を立てずに彼女と世界をつなぐこと。俺が真ん中に立たないこと。俺の気配を薄くすること。そういうことだ。砂糖の落ちた星座を指先で集めながら、俺は自分の輪郭が、少しだけ透けて見えるのを感じた。透明は卑怯じゃない。必要な透明もある。それを今日、体が覚えていく。


 午後の授業は、眠気に勝つ戦いだった。黒板消しの粉の匂いが、なぜか甘い。消された文字のかすれが、今日の自分のセリフの跡に見えた。言い過ぎなかったか、足りなかったか。そんなことを考えながら、シャツの内ポケットに入れた小さな時計の存在を確かめる。触りたくて仕方がない。けれど、霧島の言葉が脳内で四角にくり抜かれて見える。「今日、巻かずに乗り切れ。無駄撃ちしない訓練」。無駄撃ち。たしかに、時間に甘えた昨日の俺は、引き金を軽くし過ぎていた。


 放課後。三回目の十分快に、俺は「次のタイミングの予約」を置くと決めていた。予約は、相手に選択肢を残す行為であること。だから、短く、道を提示し、選ばせる。


 夕方の風がグラウンドに斜めに入り、ハードルが一列、影を長く落としていた。亜子は終わりのストレッチで足首を回している。顧問はタイムを板書し、部室の方へ向かった。二人きり——という状況は、俺が好き勝手しやすい状況でもある。だからこそ、手綱を自分で引く。


 「次の大会が、終わったら——話、聞いてほしい」


 言い方を整える。ここで「返事をもらえるか」とか「俺はまだ——」とか、余計な飾りを足さない。言葉は裸に近い方が、相手の中に入ったとき、相手の温度に合う。


 亜子は一瞬、遠くの空を見て、それから俺を見た。目に疲れはあるが、濁ってはいない。彼女は言葉を選ぶとき、唇の左端が少しだけ上がる癖がある。その癖が出た。


 「……終わってからなら、いいよ」


 それだけ。また「ありがとう」と言いかけて、俺はやめた。言い過ぎると、礼の価値が薄まる。使えば使うほど、言葉は軽くなる。だから、ここでの「ありがとう」は胸の内側に沈めておく。溶けて、血になる感じ。血になった言葉は、次に必要なとき、無理せず外に出る。


 彼女がスパイクを脱ぐのを待って、俺も部室に向かった。部室は、木の匂いと汗の匂い、それから何人かの整髪料の匂いが混ざっていて、季節ごとに配合が違う。今日は洗い立てのジャージが多い匂いだ。霧島はホワイトボードにマーカーで長方形を三つ描いていた。その上に、たった今俺が頭の中で並べたラベルが、同じ順番で書かれていくのを見て、苦笑した。


 「三回の配分——観察/関係の保全/次回予告。今日の湊は、教科書通り。珍しく」


 「珍しく、は余計」


 「褒めてる。珍しく」


 霧島は笑って、マーカーのキャップを口で外すと、字を重ねた。「巻き戻しは“失敗の消去”じゃない。“検証時間の追加”。この追加は有限。有限の資源は、どこに投資するかがすべて」。字の角が、やたらと立っている。彼の書く字は、性格をしている。


 「蜂谷先輩の話、してもらえる?」


 呼ばれた蜂谷は、部室の奥でタオルを首にかけ、麦茶の紙コップをくいと飲んだ。蜂谷の髪は癖が強く、汗でぺたんと額に張り付いている。その姿で穏やかな笑みをするから、話が重くても、言葉が胃に入ってくる。


 「ループ酔いって、俺が勝手に呼んでるだけなんだけどさ。時間に酔うって、あるんだよ。三分巻けるからって、何回もやってると、頭の中の「今」がぼやける。成功って“いま成功したか”になって、明日の自分が知らない人みたいになる」


 「先輩は、それで何を——」


 「告白、成功させたよ。一回。いや、正確には七回目で成功。『好きです』のイントネーション、目を見る回数、手の置き方、相手の返事の前の間の取り方——全部、最適化した。最適化って言葉、便利だよね。で、翌日、廊下ですれ違ったときに挨拶したら、相手が少し困った顔した。俺は昨日の七つの自分全部を覚えていて、相手は一つしか覚えてない。ズレるだろ? 俺が好きなのは、七つ目の相手で、相手が知ってるのは一回目から六回目の間を通過した俺じゃない。成功を“即時”に置くと、時間は必ず反動を取りに来る。これ、霧島の言葉を借りると、そういうケーススタディ」


 蜂谷は笑って、コップを握りつぶした。手の力が少しだけ強すぎて、紙の繊維の音が鳴った。


 「だから、今日は巻かなかった湊、いいと思うよ。巻かないで、考える。巻かないで、謝る。巻かないで、待つ。巻かないで、準備する。そういう筋肉、つけといた方がいい」


 霧島が「筋肉」という言葉に頷いた。「時間に対する筋力——持久力と瞬発力。持久力は巻かないで積む。瞬発力は巻いたときに使う。湊は瞬発力ばっか鍛えがち。今日は持久力の日。偉い」


 「褒め方の角度が、いちいちムカつく」


 「愛だよ」


 あまり愛を感じない口調で言われ、俺は肩をすくめる。けれど、実際、言われて救われる。俺は巻くことを覚えた日から、巻かない日を怠けだと思ってきた。戻れるのに戻らないのは、怠慢だと。けれど、戻らない選択が必要な日もある。戻らなかった今日が、何かの下地になるなら、それでいい。


 帰宅の道は、いつもより音が少なかった。耳の中に、無音がいる感じ。体の芯が、ゆっくり冷えていく。疲れが、筋肉じゃなくて脳の奥にたまっている。目の奥に温度がある。これが、霧島の言う「ループ疲労」の前段階なのだろうか。巻いていないのに、疲れる。巻かないで考えるのも、ちゃんと疲れるのだと初めて理解する。疲労は悪じゃない。ただの結果だ。今日の十分快×三を終えた脳が、使った分だけ熱をもっている。それは健全な熱だ。そう思おうとして、信号待ちで空を見上げる。電線の交差が黒い五線譜で、そこに夕方の鳥の影が音符みたいに止まる。音のない音楽。自分で自分に与える譜面。


 家に帰ると、リビングは薄暗く、母のメモがテーブルの上に置いてあった。「冷蔵庫にカレー。温めて食べる」。そういう文字が日常の積層を作っている。鍋の蓋を開けると、カレーの匂いが、今日という日に対して「続き」を保証してくれる感じがした。食べるという行為は、必ず昨日と明日に橋をかける。だから、温めて食べる。スプーンが皿に当たる音が小さく響く。テレビはつけずに、静かなまま咀嚼する。今日は音を増やしたくない。増やしすぎると、時間の輪郭が溶ける。


 風呂で汗を流しながら、ポケットに触った。時計は脱衣かごに入れた制服の内ポケットの中で、薄い重さを保っている。小さな丸い金属の重みが、俺の「今」と「もしも」をつなぐ鍵だ。鍵は便利だ。鍵は危険だ。鍵は、鍵でしかない。——そうやって言葉を並べて、自分を眠りに近づけようとする。


 布団に入る前、机の上にノートを開いて、今日の三つの十分快のログを書いた。観察の十分快で見えたもの。昼の十分快で渡したもの。夕方の十分快で取り付けた約束。どれも、今のところ、破綻していない。明日、揺れるかもしれないけれど、それは明日の俺が受け止める。そういう風に段を重ねる。段差に足をかけるときの、膝の角度を覚える。


 ペンを置いて、電気を消そうとしたとき、スマホが震えた。画面の光が薄暗い部屋を塗り、俺は反射的に霧島からのアイコンを認める。開く。短いメッセージ。五行にも満たない。


 『明日、不審火。校内。ループ中だけ起きるバグに注意』


 心臓が、さっきの信号待ちの五線譜に乱暴に音符を置いた。意味が遅れて届く。「ループ中だけ起きる」——つまり、巻いた者にだけ見える、あるいは巻いたときにだけ現実化する事故。俺は目を閉じ、開いた。部屋は同じ暗さで、時計は同じところにある。汗が、掌に出ている。時計に触れたか? 触れていない。まだ触れていない。でも、触れたい。触れずにいることの難しさに、笑いが出そうになる。


 バグ、という言葉はたしかに霧島の言い回しだ。彼はこの学校の「巻き戻し」——非常ベルが鳴ると三分だけ時が戻る、その現象を「仕様」だと言い、そこに起きる小さな破れや歪みを「バグ」だと言う。俺にはどちらも怖い。ただの言葉が、現実の形を変えることがある。名前をつけると、触れられるようになる。触れられるようになると、壊せる気がしてしまう。霧島は壊し方を知りたがっている。俺はまだ、守り方を探しているだけだ。


 不審火。校内。明日。霧島はどうしてそれを知っている? たぶん、彼はどこかで一度、明日を見たのだ。巻いたのかもしれないし、誰かの巻きを観測したのかもしれない。彼は見て、戻して、俺に「注意」を投げる。注意で足りるのか。足りないなら、俺はどうする?


 「恋のやり直し」は、俺の中でずっと私事だった。自己都合の最たるものだと思っていた。誰かの時間に触れるのだから、それは慎重であるべきだ——という倫理は持っていたつもりだけれど、根本ではこれは俺のことだと思っていた。だけど、学校の「何か」と絡んでいる? 恋と事件が同じ時間の皿に乗る? それは、俺が思っていた以上に、この時計が学校の網目に引っかかっているということだ。


 亜子の顔が浮かんだ。今日の朝の、紐を結び直す指。昼の「助かる」という言葉。夕方の「終わってからなら」。その全部が、明日の不審火と、同じ一日の中に置かれる。なら、俺の十分快の設計図も、明日の火に触れる。巻くか、巻かないか。巻いたとき、火は増えるのか、減るのか。火は「ループ中だけ起きる」。巻けば、火は来る。巻かなければ、火は来ない——のか。そういう単純な二択に、現実は従わないことくらい、わかっている。火はルールを知っている。火は人の都合を知らない。


 返事を打つべきか迷って、俺は霧島にただ一行を返した。


 『わかった。巻かない前提で、動きを考える』


 すぐに既読がつき、「それでいい」という返事が来た。彼の短い言葉の最後に絵文字も何もないのは、重大なときの合図だ。俺はスマホを伏せ、電気を消した。暗闇は、思ったより柔らかい。目が慣れると、家具の輪郭が浮かんでくる。外の風がカーテンを少し揺らして、影が壁をよぎる。影は火の反対側にいるはずなのに、明日の火の話を読むと、影も熱を帯びる気がした。


 眠りは浅い。眠っている間にも、夢の中の俺は時計に手を伸ばす。触れてはいけない、と夢の中の俺も思っている。その思いが強すぎて、逆に指先が時計の冷たさを確かめてしまう。冷たさは、安心の形をしている。危険がいつでも手の中に収まる感触は、いけないほど心を落ち着かせる。夢の中で、非常ベルが鳴った。耳の奥で金属の高い音が膨らんで、世界の輪郭を圧縮する。三分だけ——と誰かが言う。誰かの正体は、目が覚めてもわからない。


 浅い眠りの底で、俺は何度も同じ場所に戻っていた気がする。ベンチの影。砂の足跡。紐を結び直す指。募金箱の軽い音。「終わってからなら」。白いボードの三つの長方形。『不審火』の文字。すべてが一枚の紙の上で、透明なテープで仮留めされたみたいに動かない。明日の朝、テープを剥がすのは俺の指だ。その指が震えないように、眠りの浅いところで、俺は何度も深呼吸の練習をした。息を吸って、数える。吐いて、数える。十まで数えたら、また一に戻る。十は、今日使った十分快の、最初の数字だ。十の輪郭を、呼吸でなぞる。


 ——目が覚める直前、誰かの声がした。はっきりした言葉じゃない。ただ、ひどく現実的な口調で、「足して消すな」と言った。足して消すな。たぶん、それは今日の俺が今日の俺に言っているのだ。巻き戻しという計算で、足し算をして引き算をするな。ゼロに戻すために数字を足すのは、遠回りだ。遠回りをしている間に火は回る。遠回りは必要だ。でも、必要でない遠回りは、火の空気になる。


 朝が、来る。目を開ける前に、俺は内ポケットの重みを想像した。想像の中で、時計は触れられる前に、わずかに遠のく。自分で距離を作る。距離は、守るための道具になる。道具に頼りすぎないための、道具になる。そんな回りくどい文章を頭の中で繰り返して、俺は目を開けた。薄い光がカーテンの隙間から差し込んでいる。今日の十分快×三の設計図の余白に、赤い文字で一行を足したい衝動に駆られる。『火のルールを観察する十分快』。観察から始める。恋も、事件も、同じ「今」の中に置かれるのなら、やることは同じだ。測る。見て、測って、足りないところを次の十分快に渡す。巻かずに。巻かないで、やれるところまで、やる。


 ベッドから体を起こし、制服に袖を通す。内ポケットに手を入れて、時計の冷たさを確かめる。触れた。でも、蓋は開けない。そのわずかな自制で、体内の音が一つ整う。キッチンでパンを焼き、ジャムを薄く塗る。トーストのカリッという音が、現実を一枚、厚くする。ほんの少し厚い現実の上に、俺は今日の十分快を置いていく。置く手が、焦らないように。焦らせないように。


 玄関を出る直前、スマホが震えた。霧島からだ。『忘れものするな。消火器の位置、確認しておけ』。絵文字はない。俺は短く『了解』とだけ返し、靴紐を結び直した。固く結びすぎないように。一日の途中でほどけたら、ほどく時間がもったいない。亜子の結び方を思い出す。左親指で押さえ、右の人差し指で輪を弾く。輪を弾くと、余った紐が小さく跳ねた。跳ねを見届ける。それから、俺は扉を開けた。今日の十分快に向かって、一歩出る。火に向かってではない。恋に向かってでもない。「今」に向かって。今に向かって、歩く。今は、俺のものじゃない。誰のものでもない。だから、手荒にしない。そういう歩き方を、今日は選ぶ。


第3話「ループ中だけ燃える日」


 焦げた匂いは、風が止まった瞬間にだけ濃くなる。朝の空気はまだ冷たく、校舎裏のコンクリートに宿った夜の影が少しずつ剥がれ落ちていく時間帯。ゴミ置き場の金網越しに、小さな倉庫が四角く口を閉ざしている。窓はない。扉の隙間は、鉛筆一本も入らなさそうに見えるのに、その隙間から、鼻の奥にざらつきを残す匂いが出入りしている。先に気配だけが来て、遅れて理由が来る、みたいな匂いだ。


 霧島からのメッセージは、昨夜のうちに頭に刻んでおいた。「不審火。ループ中だけ起きるバグに注意」。いつもの軽い皮肉の余白が、あの文面には無かった。だから、俺は朝の早い時間に校舎裏に回り込み、まずは、観察の十分快を置いた。腕時計の金属の裏蓋が掌の体温でじんわり温まる。けれど、蓋は開けない。開けたがる指に、あらかじめ重りを結んでおく。


 倉庫の前で立ち止まる。消火器の赤は、朝の光をまだ信用していないのか、色味が沈んで見えた。ハンドルのピンは奥まで刺さっている。点検済のタグは三月の末に切られている。用務員室までの距離を頭の中で引き、最短の経路を組む。校舎を囲む通学路が一本の線なら、俺はその上を歩かずに、線の下を覗き込みに来た——そんな気がした。


 匂いは、ある。けれど、目に見えるものは、ない。十分快の最後の三十秒で、俺はスニーカーの靴底をコンクリートに押しつけて、摩擦で音を作った。現実の輪郭を音で確かめる行為。頭の中の音と外の音が重なるかどうか。——重なる。今は、まだ、燃えていない。


 ベルの線は、胸の内側を通っている。鳴らせば三分戻る。鳴らなくても、戻れる。戻ることを一度覚えた指は、何かから守るときほど、余計に軽くなる。俺は息を一つだけ深くして、腕時計の蓋を開けた。針の位置は、昨日の自分が置いた目印より、ほんのわずかだけ右に寄っている。戻る、という動詞の前に、なにか形容詞を足したくなる衝動を飲み込んで、俺は短く、トリガーを押した。


 世界が、薄紙一枚ぶん縮む。耳の奥の圧が、金属の味を伴って舌に残る。三分の、逆再生。戻った先は、さっきの十分の、始点より少し手前だった。まだチャイムは鳴っていない。まだ風は、さっきより冷たい。……そして、倉庫の扉の隙間から、白い糸みたいな煙が、確かに上がっている。最初の世界の匂いよりも、はるかに具体的な形を取って。


 非常ベルが、短く鳴って、すぐに止んだ。びっくりして止まった、という表現が似合う短さ。校舎の中が一瞬だけ息を詰め、また何事もなかった顔に戻る、あの奇妙な間。誰も外に出てこない。俺しか、ここを見ていない。ループ中だけ燃える、という言葉が、現実の画素を組み替える音をたてる。


 ——見逃せない。観察の十分快は終わり、二回目の十分快を、俺は防火に投資することにした。戻った世界の時間は、今の俺のために三分だけ余計に伸びている。有限の延長。無駄撃ちはできない。


 用務員室までは階段を一つ上がって左。ドアの上の名札は少し斜め。ノックをすると、中からゆっくりとした足音。出てきたのは、よく見かける、白髪混じりの背の高い用務員さんだった。俺は、息を整え、作り話を半分だけ混ぜる。


 「倉庫の換気扇、変な音、してました。さっき通ったときに」


 「換気扇?」


 「はい。回ってるのに、回ってないみたいな……キュルキュルって」


 嘘は、できるだけ空白で包む。相手が埋められる余白。用務員さんは眉間を指で押さえ、ため息と一緒に鍵束を持った。


 「ん、ちょっと見るか」


 倉庫の鍵は、窪みが深いタイプだった。差し込んだ金属が、古い錠の中で骨と骨を鳴らすみたいな音を出す。扉を少しだけ開けたとき、焦げの匂いが濃くなる。白煙は、もう出ていない。けれど、空気が古い布を燻したみたいに曇っている。


 「……延長コード、古いままだな」


 用務員さんは奥へ進み、床に這っている灰色のコードの被膜を持ち上げた。裂け目。銅線が、ほんの少し顔を出している。テープで誤魔化した跡があり、そのテープが固く、脆くなって剥がれかけている。


 「これ、ショートしかけてる」


 ためらいなくコンセントを抜き、じかに置かれていた掃除機のプラグも抜く。途端に、空気が少し軽くなるのがわかった。さっきまで部屋の中に居座っていた“火の可能性”が、腰を上げて外に出ていく、みたいな軽さ。


 「教頭に言っとく。予備のコードに替える。気づいてくれて助かったよ」


 用務員さんは笑い、俺の肩を軽くたたいた。その笑顔に、罪悪感が刺さる。この成果は、巻いた層でだけ有効だ。巻かない世界では、今の俺はここに来ていない。誰もショートに気づかない。火は、火にならないまま、匂いだけ残して日を越すのか。あるいは、誰か別の“巻いた誰か”が介入するのか。確率の層が重なり合う、その断面に立っている感覚。俺が動けば、どこかの層で火は消える。けれど、動かない層では、火はまだ、条件を集めている。


 霧島の言う「重ね合わせ」。普段は越えない閾値でも、時間が幾枚か重なった層では、数字が足し算になって、境界を越える。ループは、足し算を許す。だから、火は、ループ中だけ燃える。……最悪だ。俺の恋のための三分が、学校の火事と偶然、同じ棚に並んでしまった。


 三回目。俺は賭けるしかない、と決めた。巻く前の層に、時間を跨いで痕跡を残す。朝の巡回ルート——用務員さんが毎朝見て回る掲示板。そこに「倉庫の焦げ臭/配線確認」のメモを貼れれば、巻かない層でも、点検が起きる。問題は、巻いた層にだけ存在する俺の行為が、巻かない層で有効になるように、どこに“橋”を架けるかだ。


 「橋、なら、掲示板だね」


 霧島は、もうそこにいた。いつの間にか、校舎裏の角を曲がって来たのだろう。いつもの白いイヤホンを片方だけ耳に入れ、反対の手で透明テープの小巻きを回している。


 「朝の巡回、用務員さんは必ずこの掲示板を見てから鍵束を取りに戻る。貼るなら、下の段。上は先生たちの連絡で埋まる」


 「メモは、今貼っておけば、巻かない層にも残るのか?」


 「残る可能性を上げる、って言った方が正確。層またぎの“定着率”は、第三者の行為の上に乗った方が高い。個人の机のメモより、共用掲示板のメモ。個人の発話より、記録。個人の意思より、習慣」


 霧島は言って、透明テープの端を爪で起こした。俺はポケットから小さなメモ用紙を出し、できるだけ字を平等に書く。「倉庫 焦げ臭い/延長コード要確認/用務員室へ」。誰の指示かは書かない。指示ではなく、気づきの共有の体で、貼る。貼る音が、小さく響く。紙の繊維が板のざらつきに引っかかる感触が、現実の側に少し賭け金を積む。


 「こういうの、君、うまいよ」


 霧島が笑う。「恋より、こういうのが向いてる」


 「余計」


 「褒めてる」


 それから、俺たちは三回目の巻きを実行した。戻り切る直前、短く非常ベルが鳴った。耳の奥で金属が跳ね、世界が貼り直される。貼り直された朝は、掲示板の下段に、俺のメモを持っていた。紙の角が、ほんの少しだけ丸く見えるのは、層の間をくぐった痕跡かもしれない。


 数分後、用務員さんが掲示板の前で立ち止まり、俺の書いた文字を無表情に読む。踵を返して倉庫の鍵を取り、俺の知らない足取りで倉庫へ向かう。俺は少し離れた位置でその背中を見送り、呼吸を整えた。昼前には、古い配線が新しい白いケーブルに置き換わり、倉庫の空気はもう曇らなかった。どの層でも、火は起きない。少なくとも、今日の昼までは。


 代償は、じわじわと来た。教室に戻ると、黒板の白が滲んで見えた。チョークの粉が陽に立ち、密度のバグが視界に現れる。喉の奥に鉛の小石を飲み込んだみたいな重さ。椅子の背もたれに背中を押しつけると、押し返される感覚が遅れて来る。脳の底が熱く、それでいて冷たい。ループ疲労。命に近い領域——火に関わったときの負荷は、恋で巻いたときと質が違う。霧島からの注意は、言葉より先に、体が先に覚えるらしい。


 「湊、大丈夫?」


 声に振り向くと、亜子が水の入ったペットボトルを差し出していた。彼女の声はいつもより低く、息の配分が慎重だ。俺は笑って受け取り、一口だけ飲む。冷たさが喉を滑り、鉛の周りの境界が一瞬だけはっきりする。


 「寝不足。大したことない」


 「……ほんと?」


 「ほんと。——大会前、コンディションは?」


 自分の話から、彼女の話へ。彼女の今を聞くときに使う声の高さを、過去の自分から借りてくる。亜子は目を細め、窓の外の風の向きを見た。彼女は風を見るとき、目が少しだけ笑う。


 「悪くない。スパイク、替えた」


 「ピン、いつものより短い?」


 「うん。トラック、昨日の雨で柔らかいから」


 彼女はそう言って、口元だけで笑った。俺はそれ以上、足さない。今日の俺は、火を消した自分を誇る権利を持たないし、恋のことも、今は封印だ。封印という言葉は大げさだけど、胸の中に薄紙を三枚重ねて、言葉を包むくらいの意味で使う。


 昼休み、霧島から短いメッセージ。「命に近い介入は、負荷が段違い。今日は巻かない」。了解、と返す。了解の二文字が、脳の熱に湿って、少し重く見えた。


 放課後。部室は、汗の匂いと洗剤の匂いの中間で揺れていた。窓を少し開けているのに、空気は出たり入ったりをためらっている。霧島がホワイトボードに「本日の反省」と書いて、その下に四角を二つ描く。「恋」「安全」。四角は隣り合っていて、太さが違う。安全の枠の方が、少し太い。


 「今日は、こっちが主役」


 霧島が「安全」の枠を指で叩く。叩いた指先に残った白い粉を、彼はズボンで拭った。


 「で、紹介」


 彼はドアの方に顎をしゃくった。そこに立っていたのは、見覚えのない女子だった。髪は肩で切り揃え、前髪は目にかからない程度に短い。表情は、静かに平坦。けれど、目に疲れの陰がない。ループ疲労の色が、どこにも見つからない。


 「久遠くおんさん。転校生。今日からうち、入るって」


 彼女は一礼した。形だけでなく、頭を下げる角度に、たしかに礼の重さがあった。礼の重さは、場に投げる石の重さに似ている。音が静かなほど、質量がある。


 「久遠です。——巻いても、酔いません」


 言葉が、滑らかに部室に落ちる。主語と述語の間の間合いが、無駄に空かない。自己紹介の文としては、異常だ。けれど、この部屋では異常ではない。


 「他県で、事故に遭いました。巻いた層で、助かりました。助けてくれた人は、名乗りませんでした。顔は……光の向こう側で、よく見えなかった。でも、あなたに似ていました」


 彼女は、まっすぐに俺を見た。視線は刺さらない。刺さらないのに、まっすぐ届く。俺は戸惑って笑う。


 「俺、他県なんて行ってない」


 「層が違えば、あなたである可能性もある、という説明を、さっき霧島さんから聞きました」


 霧島は両手を広げて「説明済み」と肩で言う。


 「“助かった側”として、助ける側の負荷を分担したい。——それが、私の目的です」


 久遠の声は、驚くほどまっすぐだった。目的を目的と呼ぶことをためらわない声。彼女の言う「分担」という言葉が、今日の喉の鉛の外側に、もう一重の皮膜を作ってくれる気がした。俺は頷いた。


 「歓迎。巻かない練習も、巻く訓練も、両方やる」


 「両方、です」


 彼女は復唱した。亜子が顧問の指示を復唱するときと同じ角度で。言葉の芯の位置を、口の内側で合わせる癖。それは、よくできた習慣の形だ。


 その日の反省会は、いつもより長くなった。火の条件について、蜂谷先輩が自分の知っている限りの危険箇所を黒板に書き、霧島が「層の定着」の可能性を説明し、久遠が「酔わない脳の使い方」を簡単に示してみせた。「巻いた直後に、同じ姿勢で十秒。視線を固定。耳鳴りを数える。数が数字から音に変わる瞬間を待つ」。彼女の訓練は、合理的というより、身体的だった。俺は真似をして、耳の奥の「きぃ」という音が「すぅ」に変わる瞬間を、確かに捉えた。


 「明日は、湊は巻かない。久遠は観察。俺は記録。蜂谷先輩は、教師側のルートで消火器の点検表、写真に撮って共有。——恋は、“応援”モードのまま」


 霧島がまとめる。ホワイトボードの「恋」の枠に、小さなハートを書こうとして、やめた。代わりに、小さな四角を四つ並べた。四つ並ぶと、少しだけハートに見える。俺は笑う。


 部室を出ると、夕方の風は、昼より柔らかかった。耳の奥の音は、もう数字ではなく、ただの空気の通り道になっている。久遠は部室の前で「また明日」とだけ言って去り、霧島は「帰ったら、寝ろ」とだけ言った。俺は「寝る」と答えた。ほんとうは、寝られないかもしれないと思いながら。


 家に着き、シャワーを浴び、カレーの残りを温め直す。スプーンを口に運ぶたび、喉の鉛がわずかに形を変える。角が丸くなっていく。机にノートを開き、今日の三回分のログを書く。観察、防火、定着。書いているうちに、文字の線が少し揺れた。揺れは眠気の前兆だ。俺は電気を消して、布団に潜り、腕時計の蓋に指を添えた。開けない。今日は、開けない。開けない練習。指の腹で、冷たさの縁だけを確かめる。


 眠りは、昼よりは深かった。夢の中で、倉庫の扉が開き、白い煙が一本だけ芋虫みたいに伸びてきて、俺の指に巻きつく。巻きついた煙は熱くない。ただ、形がある。形のある煙は、現実の中では煙じゃない。名前のつかないものに触れると、目が覚める。目が覚めると、暗闇の中でスマホが震える。震えは、夢の続きのようで、現実の中央にあった。


 知らない番号。メッセージは短い。


 『巻かない日に会おう』


 たった一行。その文末に、紫のハートがついていた。紫のハート。——見覚えがある。亜子の母がPTAの連絡でよく使う絵文字。俺のスマホにも、一度だけその絵文字が来たことがある。去年の文化祭の片付けで、集金袋の不足を知らせる連絡。最後に、紫のハートが一つだけ、置いてあった。亜子の母の文章はいつも簡潔で、句点を省き、その代りに紫のハートが句点の役割をする。


 今のメッセージの文体は、そこまで似ていない。けれど、最後の紫が、文全体の意味をわずかに変える。命令の硬さを少しだけ溶かす。『巻かない日に会おう』——命令でも、願いでも、誘いでもある可能性を残す。


 胸の内側で、何かがざわつく。亜子の母と、俺。どういう線がここに引かれている? 会おう、はどこで。巻かない日に、という条件が、俺の今日の疲労の隣に座り込む。返事を打つべきか。打たないべきか。霧島に転送すべきか。亜子に——いや、彼女には、今は何も渡さないと決めた。大会前だ。彼女の「今」は軽くしておく。


 『どちら様ですか』


 と打ちかけて、やめる。質問で返せば、相手にもう一度、こちらの“今”を計る時間を与える。与えたくない時間も、ある。俺は代わりに、ただ一つ、「いつ」と打って送った。いつ。場所ではなく、時間を問う。俺の居場所は、俺が決める。相手の時間だけ、先に聞く。相手の時間に、自分の十分快を重ねる準備だけ、しておく。


 返信は、少し待たされて、返ってきた。


 『明後日 夕方 図書室の横の外階段 紫の袋を持っていきます』


 句読点はない。紫のハートは、また、最後に一つ。——紫の袋。亜子の母がよく使っている、花柄の手提げ。買い物袋でもあり、資料袋でもある。学校に来るときも、それを肩にかけている姿を、見たことがある。


 図書室の横の外階段。夕方。人目は少ない。先生の往来は、意外とある。監視カメラは——死角が多い。風がよく抜ける場所。言葉が飛びすぎず、溜まり過ぎない場所。条件を挙げれば、挙げるほど、そこを選んだ理由が見えてくる。俺は、深く息をし、返信はしないことにした。了解を返せば、相手は安堵する。安堵は、誘いの力を増す。今は、安堵を与えない。与えるのは当日でいい。巻かない日に会おう、という言葉は、今日の俺の指を、まだ蓋の外に留めてくれる。


 暗闇の天井を見ながら、俺は指折り数える。十。十は、今日ずっと使ってきた数字。十分×三回。十秒の固定。十の輪郭を、ゆっくりとなぞる。火は、今日を越えなかった。恋は、今日、触れなかった。安全と恋の四角は、隣り合って、共通の辺でつながっている。明日は、亜子の記録会だ。巻かない。巻かないで、支える。支える方法は、今日、少しだけ練習した。


 午前、倉庫の前で嗅いだ焦げた匂いは、軽く鼻の奥に残っている。嗅覚の記憶は、視覚より長く残る、と誰かが言っていた。長く残る記憶は、ときどき時間の層をまたぐ。たぶん、俺たちの恋も、学校の事故も、そういう層に置かれている。置かれて、誰かが触るまで、じっとしている。俺が触れれば、動く。触れなければ、動かない。——触れる日と、触れない日の分け方を、俺はもう少し、うまくなりたい。


 眠りが、やっと深く落ちてくる。最後に耳の奥で、小さく非常ベルが鳴った。鳴って、止んだ。止んで、それから、何も鳴らない。何も鳴らない時間が、こんなにも音のあるものだと知る。呼吸の音。心臓の音。遠くの道の車の音。全部が、巻かない世界の、確かな音。俺は、その音の上に、静かに身を置いた。明日のために。明後日の紫のために。亜子の走る足音が、軽く、遠くで響く気配を思いながら。

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