天王星の衛星アリエルから来ました ~蒼い星への旅~④
天王星の季節が十度を巡ったころ、アリエルの内部海はふたたび温度を上げていた。
潮汐加熱が増し、深部の温度は −10℃から +4℃へ。
氷殻の厚みは 80 km から 65 km に減少し、
深度 70 km の地点に、広さ 1200 km の“液体の窪地”が生まれた。
そこは暗く、青黒く、太陽の光など届かぬ世界。
その海の底、フォルミアンとルミノイドの記憶が交わる場所で、新たな生命形が、ゆっくりと形を帯びていった。
それは、氷の祈りが水に溶け、水の記憶が形を欲したときに生まれた、第三の種――フォルミアン・ペラギア(Formian pelagia)。
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彼らの身体は、もはや単なる結晶でも液体でもなかった。
水‐アンモニアゲルの半透明の構造体で、密度は 0.93 g/cm³、長さは平均 1.8 m。体内の屈折率分布は連続的に変化し、外界の熱流や圧力波を光と温度で感じ取ることができた。
筋肉にあたるものは存在しない。
代わりに、体表全体に埋め込まれた結晶性“応力線維”が、温度差 ΔT ≈ 0.1 K で 0.3% 伸縮する。それによって彼らは推進力を得て、ゆっくりと氷海の中を泳いだ。
彼らの体の内部には、フォルミアン由来の形態記憶格子が残されていた。一つの泳ぎの波が、形の記録を呼び覚ます。
泳ぐとは、記憶を再生すること。彼らにとって運動は、祈りの延長であった。
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アリエルの海底では、温度 0〜5℃、圧力 500〜800気圧。
水はアンモニアを15%含み、塩化物イオン濃度は 0.02 mol/L。
この環境で、フォルミアン・ペラギアは、“光”の代わりに化学発光で相互認識を行っていた。
体内の結晶微粒子が圧力刺激を受けると、電子遷移エネルギー ΔE ≈ 2.1 eV に対応する微弱な光(波長 ≈ 590 nm)を放つ。
彼らは群泳しながら、その発光を“会話”に使う。
色は言葉であり、
揺らぎは感情であり、
明滅は記憶の発話であった。
彼らの海は、無音のまま、光の詩で満たされた。
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フォルミアン・ペラギアの神経網にあたるものは、ナノスケールの熱電対ネットワークである。体内温度差 ΔT = 0.05 K に応じて電位差が生じ、それが連鎖的に伝わって情報を処理する。
一つの思考波の速度は 12 mm/s、全身を一巡するまでに 150 秒。
人間の脳に比べれば遥かに遅い。しかし、彼らは「記憶の海」と共鳴している。個体が考えるのではなく、海全体がひとつの脳として働くのだ。
その思考密度は約 10⁴ ビット/cm³、海全体で 10²⁴ ビット――地球のインターネットを超える規模。
つまり、フォルミアン・ペラギアの群れは、惑星規模の集合意識の細胞にすぎない。
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彼らの海には他の生命もいた。
ルミノイドの残滓から生まれた、微細なアミノシート群。
それらは薄いフィルム状の生命で、熱エネルギー勾配を利用して漂う。
フォルミアン・ペラギアは、それらを“捕食”した。
捕食といっても、噛み砕くわけではない。
体表に接触させ、電荷を反転させることで、相手の構造を自らの記憶格子に吸収するのだ。
捕食とは、同化であり、共鳴であり、融合だった。
吸収されたものは破壊されず、“形の層”として内部に蓄積される。
やがてそれらが新しい行動や模様を生み、個体はゆっくりと変化していく。
こうしてアリエルの海は、捕食と共存の連鎖で進化する巨大な結晶生態圏となった。




