木星の衛星エウロパから来ました③
エウロパの氷の下の海底では、亀裂から熱水が噴き出していた。熱水の温度は 摂氏100〜400℃、圧力は数百気圧以上であるが、硫化水素、メタン、二酸化炭素、アンモニア、金属イオンを豊富に含んでいた。
一方で周囲の海水は0〜−20℃と冷たく、その境界は急激な温度勾配を作っている。
この「熱と冷の界面」に、有機分子の断片が漂っていた。
その多くは、隕石や彗星が運んできたアミノ酸や、単純な有機物(ホルムアルデヒド、シアン化水素)だった。
熱水噴出孔の壁には、硫化鉄や黄鉄鉱 の結晶が析出している。これらの鉱物表面は触媒として働き、分子を吸着させては結びつけ、鎖を延ばしていった。
だが、この星は地球と異なり、地球型生命に不可欠なリン酸が乏しかった。
DNAやRNAのような、リン酸エステルの骨格は形成しにくかったのだ。
代わりに反応に登場したのは、アミノ酸同士を結ぶ「ペプチド結合」と、硫黄を介した「ジスルフィド結合」だった。
地球生命はヌクレオチドを基本単位とする 核酸(DNA/RNA) を使ってきた。DNA・RNAは、「生命の設計図」を長い鎖(核酸)を作ることで情報を保持する。ヌクレオチドは、塩基 + 糖 + リン酸で構成されるが、エウロパではリン酸が不足しているため、ヌクレオチドの「リン酸部分」が代替され、PNA(ペプチド核酸) や 硫黄核酸 が“異なる遺伝子単位”となった。
リン酸エステル結合は「遺伝子(DNA/RNA)の骨格」として、情報を正確に保持する結合であるが、ペプチド結合は「タンパク質の骨格」を作る結合、ジスルフィド結合は「タンパク質を立体的に補強する橋渡し」である。
アミノ酸が繋がってできた鎖は、それらはただの鎖にすぎず、波に揉まれればすぐに千切れ、熱水の流れに攫われては、無意味に散っていった。「生まれては消える」──それが分子の宿命となる。
だが、偶然、二本の鎖が触れ合った。その表面には、アミノ酸の一つシステインの–SH基が揺れていた。見えない小さな閃光が走り、硫黄と硫黄が結ばれた。
──ジスルフィド結合。
それは一本の弱い鎖を、二本分の力で繋ぎ止め、ばらばらだった分子は、網目のように補強され、波に揺られても、熱に晒されても、壊れにくくなった。
こうして「最初の鎖」は「硫黄の橋」として誕生した。
まだ情報は短く、10〜20単位ほどの簡単な配列しか持たなかったが、他よりも長く残った。長く残れば、より多く複製を繰り返せる。複製を繰り返せば、より多くの仲間が生まれる。
「壊れにくい」というただ一つの特質が、彼らを暗黒の海における“最初の生き残り”へと押し上げたのだ。
暗黒の海の中で、硫黄の匂いと熱水の泡に包まれながら、鎖は互いを写し、模倣し、そして少しずつ「長く」「複雑に」なっていった。
それが、エウロパにおける「生命の第一歩」だった。