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木星のきらめき②

 1976年、カール・セーガンとエドウィン・サルピターは、

 まだボイジャー探査機すら木星に到達していない時代に、一枚の計算用紙に“可能性”を描いた。


 彼らの想定した世界では、地面はない。

 深く潜れば、気圧は百、千、百万気圧に達し、水素は液体となり、やがて金属へと変わる。

 そこで生きるものは、地球的な意味での生物ではありえない。


 それでもセーガンは、「生命の定義を、炭素に限る理由はない」と書いた。

 生命とは、構造を保ち、エネルギー勾配を利用し、情報を複製する系である。

 それならば、木星の大気にも、生きるに足る秩序は生まれうる、と。


一 沈むもの(スインカー)


 彼らの仮説は、まず微細な胞子から始まる。

 スインカー――沈むもの。


 高度百キロ、気圧〇・五気圧、温度一三〇ケルビン。

 アンモニアの雲の中、雷が走り、水素、メタン、窒素が結びついて有機分子を作る。


 分子が小さな球状の膜を形成し、電場を保ち、わずかに浮力を得る。

 だがそれは不安定だ。

 風が止まれば沈み、温度が上がれば崩れる。

 寿命は数時間。


 死は常態であり、生は一時の偏差にすぎない。

 だがその偏差が、木星の空を満たす。

 無数の泡が、雲の中で光を反射する。

 それは大気のプランクトン。

 木星の風に乗って生成と分解を繰り返す。


 セーガンはその状態を「惑星規模の呼吸」と呼んだ。

 生命とは、ただ消えては生まれる波である。


二 浮かぶもの(フロート)


 沈むものの中から、一部が進化した。

 体内に水素を溜め、浮力を制御できる構造を持つようになった。

 フロート――浮かぶもの。


 直径数十メートル、内部はガス嚢、外側は有機の膜。

 気圧一から三気圧、温度一七〇ケルビン。

 木星の「安定層」。


 彼らは漂う。

 風の流れを読み、上昇と下降を調整しながら、嵐の縁を避けて漂う。

 エネルギー源は雷と化学反応。

 アンモニアを取り込み、硝酸を生成し、膜内で電子を移動させる。


 セーガンは、フロートを“生きた熱気球”と呼んだ。

 太陽光をわずかに反射し、雲海の中でほのかに輝く。

 反射光は周期的に明滅し、それが仲間への信号である可能性を示唆した。


 「もし知性が進化するなら、彼らの言語は光のリズムで構成されるだろう」

 そう書かれた。


 思考とは発光であり、意志とは位相の一致である。

 それは地球の知性とは異なる「群体の記憶」。

 静かな共鳴の文明。


三 狩るもの(ハンター)


 フロートが増えすぎた。

 その死骸が沈み、下層の化学平衡を乱した。

 資源が枯渇し、雷の頻度が減る。

 そのとき、捕食の回路が生まれた。


 ハンター――狩るもの。


 形は流線型。外膜は導電性。

 電場の差を利用して推進し、放電を用いて獲物の膜を破る。

 破裂したフロートのガスを吸収し、再び上昇する。


 彼らの存在は、環境の恒常性を保つ機構でもあった。

 捕食はバランスであり、破壊ではない。

 彼らがいなければ、フロートは飢えて崩壊する。

 ハンターがいることで、系は循環を続ける。


 セーガンはこの三相を、

 「惑星的な食物連鎖の原型」として描いた。


 スインカーが基礎を築き、

 フロートが空を覆い、ハンターが制御する。


 地球の生態系とは異なり、この連鎖は「時間」ではなく「気圧」で区分される。

 生物圏は地表ではなく、高度と温度の関数として存在する。


 生命の基準は固定されない。

 ただ層ごとに現れ、流れの中で繋がっている。


四 観測されるもの


 セーガンは警告している。

 「もし本当に木星に生命が存在するなら、探査機はそれを破壊する可能性がある」と。


 深く潜る観測機は、燃えながら雲の中へと沈む。

 高温高圧に耐える設計は、人類には難しい。

 仮に耐えても、化学汚染を避けることはできない。


 生命が雲の層にあるなら、それは極めて脆い平衡に依存している。

 わずかな熱、わずかな酸素の混入で崩壊するだろう。


 セーガンはそれを「観測の罪」と呼んだ。

 科学とは、触れた瞬間に変えてしまう行為である。


 だから彼は、木星の生命を「仮定」に留めた。

 観測されないことが、存在の証であるかもしれない、と。


 セーガンは晩年の講義でこう語った。


 > 「もし木星が生命を宿すなら、

 > それは個体ではなく、惑星規模の呼吸として存在するだろう。

 > 生命とは、化学と風の持続的な会話である。」


 彼の声は静かだった。

 木星の雲のように、ゆっくりと、そして確かに、そこに残っていた。

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