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土星の衛星タイタンから来ました②

 メタン湖で生まれた最初の「生命の影」は、細胞膜を持つ生物ではなかった。タイタンの地表の温度は約 −180 ℃である。水は固体の氷として存在し、リン脂質は機能し得ない。 したがって 水とは異なる溶媒(液体メタン・エタン)に適合する膜構造 が必要となった。


 それは「アジドン」「アクリロニトリル」といった炭素鎖の分子である。それらが自然に集まり、膜のような構造を作った。


 「アジドソーム」と呼ばれる泡である。


 「アジドソーム(azotosome)」は、タイタンのように 極低温・炭化水素溶媒環境 で想定される「代替的細胞膜構造」の仮説である。これは2015年に米国コーネル大学の研究チーム(P. Stevenson, J. Lunine, P. McKay ら)が提案した概念で、Nature Nanotechnology誌に発表された。


 アクリロニトリル (CH₂=CH–CN, acrylonitrile)。

 実際にタイタンの大気で確認されている物質であり、炭素・水素・窒素を含む小さな有機分子である。シアン基 (–CN) により 極性を持ち、炭化水素溶媒中で自発的に分子間相互作用を形成できる。


 形成過程では、まず液体メタンに溶解していたアクリロニトリル分子がランダムに拡散。シアン基による分子間の双極子–双極子相互作用が、隣接分子同士を引き寄せる。分子が配向し、外側は炭化水素基を溶媒に向け、内側はシアン基が互いに向き合う構造をとる。 これは リン脂質二重膜と類似の構造である。


 二重層が曲がり、閉じた袋(小胞, vesicle)を形成。 この閉じた小胞が アジドソーム (azotosome) と呼ばれる。


 泡の内側には、有機分子が閉じ込められ、反応が進む。

 外は液体メタン、内は分子の溶液。そこに「内と外の境界」が生まれた。やがて泡は複製され、互いに融合し、数を増していった。


 彼らは水の生命とは違った論理で動いていた。

 水ではなく炭化水素、酸素ではなく窒素と水素、光ではなく化学の律動。それでも「内」と「外」を分け、「複製」と「進化」を繰り返す営みは確かに生命だった。


 タイタンの空は厚い霞に覆われている。

 だが地表の湖は時折、土星の反射光を受けてきらめいた。メタンの子らはやがて、その微かな光を「合図」として使うようになった。


 油膜に似た身体が光を散乱させ、点滅し、色を変える。それはやがて「情報」となった。「餌あり」「危険」「仲間」といった単純な信号から始まり、やがて「記憶」と「約束」に発展した。


 湖の表面は、まるで無数の星が瞬くように光の合図で埋め尽くされていった。

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