接地
上手く接地できないから、死に物狂いになって何かと結合しようとする。それでも全く上手くいかなくて、何もかも忘れ去って何物かの中に埋没したくなる。そして光の届かない場所へ深く沈みこもうとする。ごつごつした現実とは綺麗さっぱりおさらばしてほろ苦い感傷の中にいつまでも浸っていようとする。しかし、そんな無茶が続けられるはずもなく、だんだん息苦しくなってきてもがき始める。生き存える為には接点を持たなくてはならない。どんな形でも良い。それこそが苦難の始まりであるとも知らずに。そしていつもの変わり映えしない現実に帰着する。どこにいようが結局一緒なのだ。歯車はいつまで経っても噛み合うことはないし、粉々に割れた皿も元のようには戻らない。
他者を歴史に紐づけることに失敗し、木に引っかかって宙ぶらりんの風船みたくふらふらする。接点なんてないはずなのに。何が引っ掛かっているのだ? 事の始まりは1821年、1人の男が……。ひとり? そうひとり。誰も彼もある不可侵の領域においてはひとりなのだ。しかし、これは断じて孤独ではない。決して。真昼の月の光に誓って。
どこまでも沈む。落ちた先に待っているのは形を変えた現実。変わらない。何一つとして変わっていない。それだから必死こいて逃走するのだ。なぜ? 逃走するのに理由が必要なのか? 強いて言えば……何だか窮屈だからさ。何もかもが。あんぱんはパンに餡が包まれているのではなく、餡がパンを包んでいるのだと言っても誰も信じてくれない。何も所有しないのは全世界を所有しているのと同義ということも認められない。孤独は人を蝕むことはないし、間接的に我々が「セックス」する唯一の手段であることもそうだ。
ただ、苦しみは終わらないというのは、ある変曲点に際して、この点の近傍では何処まで行ってもいつまで経っても変化していないのだから変曲点であるはずがない、と主張しているのと一緒だ。そう見えるだけだ。確かに、地平線の果てまで行こうが、遠い先の未来においても変化が見られなかったのかもしれない。しかし、取るに足らないようなつまらない出来事や痛みを伴うばかりで何も変化しないように思える出来事、例えばバナナの皮に足を滑らせて道路に身体を強く撃ち付けることであっても、それは祝砲に他ならないのだ。
道路と「セックス」して初めて気がつく。私とは道路だったのだ、と。道路とは私だったのだとも。正確に言えば、道路と私は元々はひとつのものであった。それをあたかも別のものであるかのように錯覚していたが、それは私による特異的な分節によるものであって、それがそうであるという明確なシグナルなど何処にもないということに。そしてそれが担保されるのは集団の常識の範囲内だけであると。もちろん、この言説は集団の常識から言えば「異常」そのものである。しかし、もしそれが正しいのだとすれば、この言説が「異常」なのと同じぐらい、外部から見た集団の常識も「異常」でなければならない。逆の立場で考えればその事がすぐに分かるだろう。
つまり、我々が外包していると思っている全てのもの、私を構成していると思われる全てに、我々は内包されているのだ。そしてそれを認めた瞬間に反転し、霧散するのだ。
この苦闘が形になろうがなるまいがどっちだって良い。重々しく引きずったような足跡に意味を見出そうが、諦めて虚無を抱えて仰向けに寝転ぼうが。言葉が意味を持つのはあり得ないほど先の話なのだから。それよりも深く深く潜り続けよう。事物の切先が記憶という記憶を全て置き去りにするまで。