アレクシス視点①
生まれてからずっと、何かが足りない――そんな気がしていた。
夜、ふと部屋のバルコニーに出て夜空を眺める。
眠れないときは、こうして月を見ることが多い。
その日は満月の前、少しだけ欠けた月が浮かんでいた。
心にぽっかりと空いた穴が、その月のように思える。
何が欠けているのかはわからない。
物なのか、人なのか。
それすら曖昧で、ただもやもやとした感覚だけが残り続けていた。
勉強も剣術も、何でもそれなりにすぐこなせる。
達成感は薄いが、不足のない日々だと思っていた。
それでも、何かに追い立てられているような感覚がある。
ずっと、何かを探しているような気持ちだった。
周囲の人間も、両親である国王夫妻でさえ、どこか一歩引いて俺を見ている。
子供らしくない言動をしている自覚はある。
乳兄弟のルカだけは、どんなときも変わらずそばにいてくれたが。
変わり映えのしない日々に飽き、ときおり市井に紛れて気分転換をしていた。
十歳を目前に控えた頃。
いつものように指輪の魔道具を身につけ、茶色の髪と瞳に変装する。
外套を羽織り、城下の活気ある市場を抜け、貴族や富裕層で賑わう区画へ向かった。
そのとき、突然腕を引かれ、路地裏へと引きずり込まれた。
考え事をしていたせいで反応が遅れた。
次の瞬間、殴られた。
強い衝撃に声も出ない。
視界の端に映ったのは、いかにも柄の悪い大柄な男だった。
俺を担ぎ上げようとしている。
腕は拘束され、動かせない。
全身で抵抗するが、さらに奥へと連れていかれ、大通りの喧騒が遠ざかっていく。
本格的にまずい。
奥まで来たことで気が緩んだのか、拘束がわずかに弱まった。
その隙に叫ぶ。
「放せ!! こんなことをして、ただで済むと思っているのか!」
「おっと。さあな。どうにかなる前に、お前をどうにかしなきゃな。いい加減、大人しくしろ!」
「うっ」
再び拳が振り下ろされる。
剣術も体術も習っているが、まだ子供だ。
大人の力には敵わない。
拘束は外れたが、殴られた衝撃で地面に叩きつけられた。
男がにじり寄ってくる、そのとき。
「騎士様! こっちです! 男の子が攫われそうになっています!」
澄んだ少女の声が響いた。
「ちっ」
男は舌打ちをし、急いで去っていった。
何が起きたのか理解できないまま、男の去った方を見ていると、声をかけられる。
顔を覗き込んできたのは、桃色の瞳にプラチナブロンドの髪をした少女だった。
今まで見たこともないほど、綺麗で可愛らしい。
女の子に助けられたという情けなさはあった。
だがそれ以上に、先ほどの言葉が引っかかる。
以前にも、似たような言葉を聞いたことがある気がして。
不思議に思ったそのとき、少女と目が合った。
瞬間、記憶が――弾けた。
理屈ではない。
ただ、確信だけがあった。
目の前の少女こそ、自分がずっと欲して、探していた存在だと。
胸の奥が、強く締めつけられる。
――やっと、見つけた。
言葉にならない感情が、静かに溢れ出す。
反応のない俺を不思議に思ったのか、少女はハンカチで頬を拭い、両手を当てた。
不思議と、じんわりと痛みが引いていく。
だが――そんなことは、どうでもよかった。
「あ、ごめんなさい。痛かった?」
離れていく手が、ひどく――耐えがたいほど寂しい。
頬に触れると濡れていた。
自分が泣いていることに気づく。
「いや、違う……大丈夫だ。ありがとう……」
そういえば騎士を呼んでいたはずだ。お忍びが知られるのはまずい。
「……騎士は?」
「あ、あれは嘘なの。でも、私の護衛はすぐ来ると思うわ」
遠くから「お嬢様! どちらですか!」と叫ぶ声が聞こえる。
“お嬢様”と呼ばれていること、年齢にそぐわない洗練された所作と言葉遣い。
高位貴族の可能性が高い。
せめて名前を、と声をかけようとしたが、付き人の声とかぶってしまう。
少女はにっこりと微笑み、そのまま去っていった。
咄嗟に動くこともできず、見えなくなるまで後ろ姿を見つめる。
高位貴族なら、自分の誕生日の式典に招かれるはずだ。
――そのとき、必ず見つけ出す。
ふと、先ほどまで彼女がいた場所に鈴蘭が落ちているのに気づき、咄嗟に拾い上げた。
――前世の恋人が、好きだった花だ。
◇
騎士に保護され城へ戻ると、両親にひどく叱られた。
こんなに怒られたのは初めてだ。
部屋を抜け出していたことは以前から知られていたらしく、影の護衛までつけていたという。
今回はその目を掻い潜ったらしい。
素直に謝ると、両親は目を丸くし、どこか泣きそうな顔で言った。
「もう、こんなことはしないように」
他にも心配をかけていたのかもしれない。
その夜、部屋のベッドに横になり、押し寄せた前世の記憶を整理する。
だが――。
ひとつ、とても受け入れがたい出来事も思い出してしまった。
何よりも大切だった恋人に、プロポーズをしようと計画していたとき。
浮気をしていると誤解された挙げ句、目の前で――
その恋人が、トラックに撥ねられ――亡くなった。
あの光景は、今も鮮明に焼きついている――。




