5日目 君と群青①
昔から、感情というものが希薄な子どもだった。
「美月ちゃんって、優しいね」
何をされても怒らなかったし、小学四年生のときに仲の良かった友達が転校しても、そういうものだろうという感情しか湧かなかった。
相手の女の子は、何時間も泣き続けていた。日の暮れた公園。二人でブランコに座りながら、どうすればいいのだろうと考えていた。早く誰か来てくれないかな、と。そんなことを思っていたのだから、なかなか薄情なやつである。
だけど。私たちの頭上には、子どもだけの力では到底動かせないものが存在していることは、小学四年生になれば分かるものだ。
だとすれば、彼女はどうして泣いていたのだろうか。
離れていても、一生の友達だよ。言うのは容易い。だけどそんなこと、離れ離れになってしまえば私たちには確かめようもないわけで。
それに、きっと求められていたのは、そんな不誠実な言葉じゃない。
もちろん親しかった友達と離れるのは、私だって寂しい。そこまで淡白な人間ではない。だけど、どうにもならないことに激情を顕にできるほど、私は勇敢な子どもではなかったのである。
そのあと、どんな言葉をかけてその子と別れたのかは思い出せない。
最適解がわからないまま、一人で帰路についたとき。確かに私の胸には寂寥が込み上げていた。だけどそれは、友達が転校するからではなかった。
群れのように広がる秋のひつじ雲を見上げて、一人歩く。
この先、私が誰かに心を動かすことはあるのだろうか。群れながら風に流されて形を変える雲が、羨ましいと思えた。
かくして、わたくし竹木美月という人間は、決して優しいわけではなく、めんどくさがり屋で共感生の乏しい、非常に面倒な人間なのである。
私の根無し草のような人間性は、お父さんと死別したお母さんが再婚してからは、一層加速した。
あれは土曜日だったか、日曜日だったか。
とにかく、高校一年生の時だった。
自分の部屋で窓を開けてネイルを塗っていると、お母さんが部屋に来た。
「美月、本当によかったの?」
そう聞かれたのは、二回や三回ではない。
「全然へーき。むしろ楽しみ」
再婚が娘にとっていいものかどうかなんて、再婚相手に数回会っただけの女子高生に判断できるわけないだろ。ペットを飼うわけじゃないんだから。
そう思ったけれど、それを口にすれば余計に面倒なことになるので、口を閉じる。
「ならいいけど……あとその、ね……」
お母さんの視線が泳ぐ。
何か、私に言いづらいことがあるらしい。だけど、言いづらいことというのは結局、言うか言わないかの二択しかないわけで。考える時間が勿体ないのになぁなんて、思っている間に言葉が続いた。
「あのね、相手の方、中学三年生の娘がいるの……美月の一つ下」
これには中々驚いた。驚いて、ネイルがはみ出る。除光液ちょうど使い切っちゃったから、買いに行かなきゃ。面倒な思考を避けるように、そんなことが浮かんでは消えた。
「……妹ができる、ってこと?」
「そうね」
姉ではないから妹ね。なんて言っているけれど、問題はそこではないのだ。
「一個下かぁ」
同年代といっても千差万別である。派手な子、地味な子、自分勝手な子、熱血スポーツ少女。
そして、再婚するということは一つ屋根の下で暮らすというわけで。なぜそんな大事なことをずっと黙っていたんだ、この野郎。なんて物騒な口調にもなるものだ。口には出さないけれど。
「それはビックリだわ」
「そうよね、ビックリよね」
共感ではない。私に判断を委ねているのである。お母さんは、昔からそういう人だった。決断することが、とにかく苦手なのだ。
思えば、この人に何かを反対されたことは一度もないかもしれない。
「へぇ一個下ね……」
どんな子なの、なんて。聞いたところで意味はないと思った。
親なんて、子どもの性格のほんの一面しか知り得ないのだから。私の家が、その良い例である。
「いいんじゃない?人多い方が楽しいし」
まじかぁ。そんな気持ちは奥の奥に押し込んで、笑顔をつくる。
私がどうこう言ったところで、どうにかなる問題じゃない。それに、今はとにかく一人になりたかった。一人になったからって、何かが変わるわけではないのだけれど。濁った水槽で新鮮な水を求めているような、そんな心境だった。
お母さんは重い荷物を置いたように安堵の表情を浮かべると、リビングに戻って行った。その荷物は、いま私の目の前に置かれているのだけれど。
「妹かぁ……」
面倒くさいな。私の中にあるものは、それだけだった。そもそも、面倒くさいか面倒くさくないか。私の中には、その物差ししかないのだ。
机の上に突っ伏して、ネイルが乾くのを待つ。
煩わしいものを、全部消し去ったその先で。立つ私は、一体誰なのだろう。
気を抜けば、面倒だと自分すらも消し去ってしまいそうだった。
* * *
甲板の日差しが煩わしくて、乗り物酔いを口実に友人の輪から外れた。
海は綺麗だ。だけど綺麗なものには、新鮮さが求められる。つまるところ、ずっと変わらない海景色に、私は早くも飽きはじめていたのである。
逃げた先は、剥げた塗装や錆びの目立つ日陰。
意外にも、そこには先客がいた。
「松門さんも、酔っちゃった?」
松門蓮。彼女と話すのは、クラスが同じになってから四ヶ月も経つのに、初めてな気がする。
「いや、私は別に……」
「そっかぁ。松門さん、乗り物強いんだねぇ」
「………………。」
沈黙は、居心地の悪いものではなかった。だけど松門さんと二人きりになることについては、「しまったなぁ」というのが正直な感想だった。
松門さんが嫌だという訳ではない。ただ、松門さんにとっての私は、そうではないだろうから。
私のような人間というより、私の所属するような騒がしいグループの話だ。大抵は松門さんのように真面目で物静かな人から、そういったグループの人間は反感を買うのである。どちらが悪いという話ではなく、反りが合わないのだ。
想像してみてほしい。静かに眠っていた猫の檻に、やかましい小型犬が入ってきたら、当然に引っかかれるわけである。
「お邪魔だったかな?」
「いや、別に……」
「よかったよかった」
みんな仲良くとは中々難しいものだな、なんて。広い空を眺めながら考える。
松門さんは少し、お母さんに似ている。母性がどうとか、そういう話ではなくて。
一人が好きだと思っている。強くありたいと思っている。だけど、心根が優しいのでどちらも叶わない。常に相手を伺って、ずっと何かと葛藤している。
もっと自由に生きたらいいのに。面倒なことなんて、考えないで。
だけど同時に、少しだけ羨ましくもあった。
頭を悩ませるということは、それだけ大切な価値の物差しが、松門さんの中には存在しているのだろう。
松門さんの、染めたこともないであろう艶々とした黒髪を横目で見る。
ピンと跳ねた睫毛は、ビューラーを使っていないのにそんなに上がるんだ、とか。カラコン入れてないのに黒目でかいな、とか。
グループの一人が「松門さんてつまんないよね」と言っていたことがあったけど、見る目がないなぁと思う。
つまるところ、私は松門さんに、何か特別な特筆すべき感情を抱いていたわけではない。ただ、
「あ、」
甲板から猫のように投げ出されたその姿を見たとき、羨ましいと思った。
無意識に、手を伸ばしていた。
そのときにはもう、飛び込んでいた。
間近に迫る海面は、甲板から眺めていたときよりも、ずっと青くて。
死ぬかもしれない。
それでもいい。全部、消えてなくなってしまえ。
喧騒も憐れみも、面倒なことは何も届かない場所へと、強く引っ張られる。深く深く、沈んでいく。
私の中の羅針盤が、下へ下へとひたすら指し示していた。
青と白の気泡に包まれて、紺碧の一番深い場所へ。
沈みゆく君は群青色。
見たこともないくらいに、美しかった。