4日目 城と潮流
朝日で目が覚めた。
私たちが居住地としている横穴は、東に向けて口を開けていた。水平線の隙間から現れた朝日が、眠気をたちまち蒸発させる。
ぼうっと、寝起きの溶けかけた頭で、海を眺める。
闇夜を染める、白い光線。青とオレンジのグラデーション。その間に、無数の色を見た。
「んんん…………」
こんなに眩しいのに、よく寝れるなぁ。
隣で寝息を立てる美月を見る。
随分と、早起きをしてしまった。
純度の高い明け方の空気を、胸いっぱいに吸い込む。東京とは違う、潮の混じった匂いがする。
きょうは紛れもない晴天。お腹もちゃんと空いている。
沢山釣って、沢山食べよう。
そう語りかけるように、眠る美月の頬に張り付いた髪を指で梳いた。
* * *
「良い食いっぷりですなぁ」
「同じ魚でも、味って違うんだね」
「蓮はどれが一番美味しかった?」
「白っぽかったやつ……たぶん、イサキ」
魚はあまり詳しくなかった。
「お刺身にして食べたいね。醤油って作れないかな?」
「大豆と小麦がいるから難しい、かも」
真剣に考えてみる。大豆はまだしも、小麦はまず自生していないだろう。漂着物のラベルから、ここが東京からそう離れていない島であることは分かっていた。
「塩焼きばっかりでもったいないなぁ」
「醤油は店で買うしかない」
だから無理だよ。そう言ったつもりだったけど、なぜか美月の瞳は楽しそうに跳ねた。
「それいいねぇ!」
「えっ」
「もしもいつか、この島を出たらさ。お店で醤油買って、お刺身食べに来ようよ」
「来るって、この島に……?」
島から出たあとのことなんて、考えたこともなかった。
まずは多分、警察とかに保護されて。病院で健康診断して。そのあとはまた、元の日常に戻るのだろうか。退屈な日々が永遠のように続く、鬱屈した毎日に。
「この島じゃなくてもいいけどさ!海が綺麗なところ」
砂浜を、美月が踊るように軽い足取りで歩く。
その茶色い瞳に映る、眩しいくらいの太陽。それに手を伸ばすように、私も口を開いた。
「そのときは釣り方、教えてくれる?」
「もっちろん!釣竿もう一本作ったら、一緒に釣れるね」
オレンジへと色を変えた瞳が、ふにゃりと笑う。
美月はその時もまだ、この不恰好な釣り竿を使うつもりなのだろうか。
そんなこと、どうでもいいか。
風に舞う透明な髪を、視線で追いかける。
居心地がいい。頬を撫でる夏の風が、清涼な空気を送る。美月の描く未来が、力強く、現在の私を引き寄せていた。
「なにしてるの?」
「お城つくってる」
砂浜の湿った砂をかき集めて、立体物を作る。爪と指の間に砂が挟まったが、気にせず積み上げる。
砂遊びなんて、いつぶりだろう。思い出せないくらいに久しぶりだ。
「お城かぁ、いいねえ」
隣に屈んだ美月が、両手でその周りに砂の山を築く。
「なにそれ?」
「んー、壁?お城が流されないように」
女子高生二人、黙々と真夏の海で砂遊びに興じる。
こんなことをしていていいのだろうか、という不安もあった。もっと何かに、真剣にならないといけないんじゃないか。
「なんか左右のバランスが悪いな……」
「うわぁ、全然平らにならないんだけど」
「もう少し高さあったほうがいい?」
「旗つけようよ!てっぺんにさ」
美月が、私の城の頂点に落ちていた枝を刺す。
城に、見えなくもなくもない。そんな一品の完成だった。
初めての共同作業。そんな気恥ずかしい言葉が浮かぶ。口に出すか一瞬悩んで、引っ込めた。
「私と蓮の、初めての共同作業だね!」
「……………………。」
「おお、どした?」
まるで私の心を見透かしたように、茶色の光が私を見る。言おうか。いや、言ったら美月がどんな反応をするか怖いし。だけど、今の私の胸にあるのは他人への恐怖だけじゃなくって。
そういうのは少しずつ、外に出さないといけないんじゃないかと。
「…………私も、同じこと思ってたから。」
そう思ったんだ。
食べて動いたら、眠くなった。
竹木美月という人間は、どこまでも本能に忠実らしい。木陰ですやすやと眠るその顔を見る。どういうわけか、その下には私の太ももがあった。
美月の本能に従うと、こうなるらしい。
「よく人の膝の上で寝れるな」
昼間に見る美月の寝顔は、夜とは違って見える。正気があるというか、瑞々しいエネルギーが行き渡って、つるつるとしている。夜はもっと、艶やかでしっとりとしていて……そこまで考えて、思考を止める。
意識すると、頭の変なところに血が巡って、また奇声をあげそうになる。
そうしている間にも、太ももの数少ない神経が美月の重みを意識していた。やめろ、やめろ。助けを求めるように、遠くを見る。
昨日の大雨が嘘だったかのような、透き通った海。一日ぶりなのに、懐かしさすら芽生えていた。
美月が綺麗と言った海。私たちを、二人だけに閉ざした海。
光の散らばる波間に、自分の中にある、浮き上がっては沈んでいくものを見定める。
砂の城は、すでに半分くらいが波に攫われていた。
この時間が、少しでも長く続いてほしい。
見えなかった感情が、溢れるように押し寄せる。それはさながら、波のようで。
もう、戸惑いもなく自覚をしていた。
私は美月とずっと一緒にいたい。
初めて、私も海が綺麗だと感じたから。
* * *
漂着物の集まる浜辺に来たのは、二日ぶりだった。
「今日も釣竿探し?」
「んーん。それもあるけど、木の板とか、発泡スチロールとか。ボート作りたいから。」
美月とこの島を無事に脱出する。それがゴールであることに変わりはなかった。
美月とずっと一緒にいたいというのは、ずっと二人だけの環境にいたいということではない。周りに沢山の人がいて、人がいれば無数の関係があって、その集合体の社会がある。そんな宇宙の中で、私は美月を中心に回っていたい。太陽と海王星くらいの距離でも。
「蓮の真っ直ぐなところ、好きだなあ」
漂着物を漁りながら、美月の好きなところを言葉にしてみようと試みる。私の知っている形容詞では取りこぼしてしまいそうで、諦める。
まずはそれを見つけることを、無人島から脱出したあとの目標にしようか。
「もう少し先の方見てくる。」
二日ぶりの漂着物は、昨日の雨の影響もあってか見たことのないガラス瓶や、鍋の蓋のようなものも流れ着いていた。
もしかすると、木材も見つかるかもしれない。
高まる期待のまま、美月を置いて浜辺を歩く。この辺りは、ミニチュアのマングローブのように背丈の高い草がちらほらと生い茂っていて、満潮になれば膝の下くらいまで、海水に浸るような場所だった。
流木は落ちているけど、ボートに使うには短い。もう少し丈夫で、形の整った木材はないだろうか。
数分ほど歩いて、砂浜に不思議な模様があることに気づく。
「なんだろうこれ。波の跡かな」
波の模様にしては深さがあるし、何より陸地の内部、茂みの方まで続いている。
何か重たいものを引きずったような跡だ。
人工的に作られたものだとすれば、脱出の手掛かりになるかもしれない。
砂浜に引かれた跡を追うように、草を掻き分ける。その先にあったのは、木造の小型ボートだった。
一瞬、喜びがあったのは確かだった。この数日間、ずっと探していたものだ。このボートがあれば、あとは海流さえ読むことができれば、隣のアノ島まで十分に渡ることができる。
だけど。私の心には、喜びよりも狼狽が強く出ていた。
数日間、ずっと散らばって浮いていたいくつかの疑問。それが自然と収束して、一つの形を成していく。
違ったらいいのに。
そう願いながら、来た道を引き返す。
海辺で涼むように立っている姿に、縋るように声をかける。
「美月」
美月は振り向かない。風を読むように、草の葉を散らせたて。そのまま、どこかへ飛んでいってしまいそうだった。
誰が被害者なのだろう。
「ねぇ、美月」
こっちを向いてよ。そんな思いが、砂浜を駆ける私の踵を、強く地面に押しつけた。
「何で、言わなかったのっ」
あの木造のボートには、間違いなく人の手で動かされた形跡があった。まるで、人の目を避けるように。
いつ動かしたのだろう。だけど、そんなことはどうでもよかった。誰がそれをやったのかなんて、私と美月しかいないこの無人島では、明白だったから。
「美月っ」
美月がようやく振り向く。困ったような、泣き出しそうな、そんな表情だった。
「潮の流れは、午後になると岸から離れる方向に変わるから、その流れに乗ればきっと隣の島に着くよ」
「なんで、舟を隠したの……?あれがあれば私たち、もっと早く……」
この島から出られたのに。そう言いかけて、波音に遮られるように口を閉ざした。
私が美月に話したくない過去があるように、美月にもきっと、話したくないことがある。それを暴けば、美月は空を飛ぶ羽をもがれたみたいに、どこにもいけなくなるんじゃないか。そんな気がした。
きっと美月は、この無人島から出たくないと思っている。
「蓮は優しいね」
この数日間で、美月に近づいたと思っていた。だけどそう思っていたのは、多分私だけで。
「優しくなんてないよ。こういうとき、どうすればいいのか分からないだけで……」
自分の感情の正体すら、掴めないままだった。怒っているのか、悲しんでいるのか。
戸惑う私に、美月は「蓮らしいね」と呟くように笑った。裸足のまま、足首まで波に浸ける。その横顔は、昼に見る月のように薄らいだもので、消えないようにと、縋るように手を取った。
「……美月、一緒に帰ろう?」
答えはなかった。
美月が、視線を水平線の向こうに戻す。その先には、何が見えているのだろうか。その瞳を覗いても、私の中に描写されるものは何もなくって。多分それは、私の中に材料がないから。今まで人と関わることを避けてばかりいた、ツケだった。
美月の頬を伝うものに気がついて、私も波の向こうを見つめる。
沈みゆく太陽が、隣の島の稜線を、燃えるように太く描き出す。流れる雲は細く長く伸びていて、明暗のコントラストを巧妙に浮かびあがらせた。
同じ夕陽を見ている。それでも、きっと美月には違うものが見えているのだろう。
夏の風が、汗ばんだ二人のすぐそばを、通り抜けていく。
手のひらに感じる、美月のぬくもり。
静かに涙を落とす友達にかける言葉を、私は持ち合わせていなかった。
* * *
そのあとの美月は、不自然なくらいに自然な竹木美月に戻っていた。
美月はどうしてあのボートを隠していたのか。
その疑問は、美月が私を助けようと海に飛び込んだ理由にも、繋がるものがある気がした。
歪な形の飴玉を転がすように、重たい不快感が頭を揺らす。
漲るものはなく、思考はまとまらない。絵を描く気にもならず、美月の横に寝転がる。
「……ごめんね、変なことして」
焚き火と星空だけが照らす、薄暗い洞窟。美月が、ぽつりと呟いた。
「美月は、帰りたくないの?」
すぐに返事はなく、寝てしまったのだろうかと隣の暗闇を見る。美月は目を開けたまま。洞窟の天井をじっと見つめていた。
「わたし、妹がいるんだよね」
「うん」
昨日お風呂で言っていた妹だ。私の知る、数少ない美月の情報でもある。
「去年できたっていうか、なんというか」
「まだ1歳ってこと?」
「いやぁそれが16歳なもので」
私たちと、1歳しか変わらない。つまり、連れてきた子どもというわけか。新しい父親か、母親が。
「だからどうっていうわけじゃないんだよ。別に、暴力振るわれているわけでもないし……高校生って、半分大人みたいなもんじゃん」
右に左に、舵を漕ぐように話す美月の声は、何かに行き着くのを、嫌がっているようだった。
そして何度か言葉を飲み込んで、諦めたようにぽつりと、美月が溢す。
「……ごめんね、蓮は帰りたがってたのに。」
小刻みに頭を振る。美月には見えているか怪しかったけど。気にしてないと言えば嘘になるし、許すというのも違うような気がした。
美月の謝る声は、消えてなくなりたいと言っているようにも聞こえて。
私には、何ができるのだろう。
暴発して勝手に坂道を転げ落ちていく私を、美月はいつも容易く掬い上げてくれた。どうにかなるよと、笑って。
だけど私には、せいぜい一緒に沈むことしかできないのだ。推進力を生み出せるものは、何も身につけていないのである。
こんな私が美月の手を取って、どこに連れて行けるというのか。ずっと部屋に閉じこもって、空想の世界にばかり居場所を求めていた私が。
近いのに、美月が遠い。一人で甲板に座り込んでいた時よりも、世界はずっと息苦しかった。
一度、知ってしまったせいだ。美月と一緒に星を眺めたときの共鳴するような歓喜や、膝に乗せた温もりの重みを。世界がこんなにも鮮やかなものに変わることを。頭の奥では、あの瞬間の感動が今もぴかぴかと光っている。
それなのに、私は何もできない。
伸ばした手は届くことなく、冷んやりとした洞窟の床に落ちた。
瞼を閉じる。浮かぶのは、鮮明な横顔。美しい月と書いて美月。その本当の姿を追いかける。
追いつけるだろうか。
答えは見えないまま、メモ帳に何かを描く気も起きず、意識は白濁とした夜の霧に飲み込まれていった。