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日記

作者:

題名「幻の島」



 岡山県沖の小さな島。

 地図には載ってなく、個人が所有する無名の島だった。

 五年前までは人が住んでいた。だが今は無人島になっている。

 十月。午後二時ごろ──。

 太田と斉藤は一人の漁師を雇ってその島に向かっていた。

 船が進み始めて二十分ほど経ったころ、

「見えましたよ」

 漁師が言った。

「あの島ですか? 小さいな……」斉藤が、つぶやいた。「電気も水道も引かれてない無人島。ま、水と食料は、たっぷり用意しましたけど」

 彼の言った通り、船には大量の水と食料が積み込まれていた。

「多過ぎだ」太田が言った。「一泊しかしないのに、その量は何だ。だから、そんなに腹が──」

「でも、水と食料は大事ですから。それに、天候の激変などで予定通りに帰れなくなる場合もあるかもしれません」


 島に近付くと、漁師が、

「あそこに着けます。念のため何かに掴まっていて下さい」

 斉藤は大慌てで手摺りに掴まったが、船は安定していて、無事に着岸することが出来た。

 上陸のとき、あわや海に落ちかけた斉藤が、二人に支えられて何とか助かった、というアクシデントはあったけれど……。

 二人を残して島から離れるときに漁師が言った。

「お気を付けて。この島のことを色々と言う人もいますから。子供の幽霊が出るとか。ま、長門警部から頼まれたことなので、心配はしてませんが。あ、それから、後から来られるという方も、ちゃんとご案内しますので」


     ●


 島唯一の建物まで、緩やかな坂道を五分くらい歩かなければならなかった。

 少し古びてはいたけれど瀟洒な外観をしていた。

 但し、クズやイヌタデなどが、ここでも辺り一面に生い茂っている。

「ひー。坂だし石ころはあるし、雑草も生え放題だ。これを、あと二往復もしなくちゃいけないのか……」

 斉藤はダンボール箱を二つ重ねて抱え持っていた。

「残りはそのままにしておけ。どうせ必要ない」

 そう言う太田の荷物は、ショルダーバッグ一つきり。

「そんな訳にはいきませんよ。せっかく持って来たのに」

 そして玄関の前に箱を下ろすと、暫く座り込んでしまった。

 太田が入口のドアを確認していた。

「よしよし。システムは正常だ」

「システム? 何ですかそれ?」

「ちゃんと手続きを踏まないで中に入ろうとすると大変なことになる」

「は?」

「この家はコンピュータで管理されていて、それは今も続いている」

「コンピュータ?」

 太田は斉藤の疑問に答えることなく、ポケットから出したアクリルの四角い棒をドアに突き刺した。

 と、

 ドアの一部がスライドして、テンキーが現れた。

 太田が何桁かの暗証番号を押した。

 すると静かにドアが開いた。


     ●


「ふへー。なんて言うか、乙女チックな……」

 斉藤が言った。

 運び込んだ箱を部屋の隅に置いて発した第一声がこれだった。

「絶対、女の子が住んでましたよね。さっきの子供の幽霊って、ひょっとして女の子なのかな……」

 花柄とレースで一杯の部屋。棚に飾ってあるのは、人形とか可愛い小物など。その棚も、白か淡いピンク色だ。

「橘博士と、その娘さんが住まわれていた」

 太田が言った。

「そうですか。ところで、“ちゃんと手続きを踏まないで中に入ろうとすると大変なことになる”って仰ってましたけど、それってどういう意味です?」

「博士は亡くなられる前、泥棒などに荒らされたりしないよう、周到に準備されていた。例えば、あいつの名は、確か……おた何とかだったか──名前は忘れたが、二年ほど前、この家に侵入しようとしていて、博士の罠に掛かって大怪我をした。長門警部が駆け付けて来たときには瀕死の状態だったらしい。勿論、過剰防衛で訴えられたりしないよう処理したがね」

「瀕死の状態……。一体、この家は何を守ってるんです?」

「思い出かな」

「思い出?」

「ああ。僅か九歳で亡くなってしまった娘さんとの思い出だよ……」


     ●


 斉藤が全部の荷物を運び終えた。

 翌日、招待している人間がやって来る。

 太田は色々と忙しく動いていた。

 だが彼が何をしているのか、斉藤には分からなかった。

「申し訳ないが、君にはちょっと見せられないんだ。全てが終わったとき、もし説明が必要だったら、そのときにちゃんと教える」

 太田の一言で、この家で彼が居られるのは、来客用の部屋とトイレと台所だけになった。

「あ、それから」と、太田は続けた。「来る途中、ブランコがあったろ。あの辺りの草を刈ってくれないか。道具は揃えてある」


     ●


 斉藤は、ブランコがあった場所に向かって少し道を下った。

 ──やれやれ。草刈りなんか頼まれるとは思わなかったよ。

 とも思ったが、こういった作業を嫌いではなかった。

 三十坪くらいか。

 よく見ると柵で囲われていた。

 草を刈る前、ブランコに乗ってみた。

 見渡す瀬戸内の海は、どこまでも穏やかだ。

 瀬戸は日暮れて夕波小波、なんて歌ったりして。

 ──さ、始めましょうかね。

 斉藤はブランコから下りた。

 草刈機の威力は抜群で、一時間ほどで刈り終えることが出来た。

 機械が使えなかった場所を鎌で刈り取っているとき、太田が様子を見に来た。

「なんとか済みましたよ」

「有難う。助かったよ」

「ほんと、いい眺めですね」

「我々の、お気に入りの場所だった」

 言いながら太田の視線は過去に向けられて──

     ・

     ・

     ・

 博士と、博士の娘さんの加奈ちゃんと一緒に、ここで三人で楽しく過ごした。

 弁当を用意していた。

 作ったのは加奈ちゃんで、その助手を太田がした。

「パスタの湯を切って下さい」

「はいはい」

「火傷しないよう気を付けて」

 彼女は言った。

 料理が出来上がり、それらをサンドイッチやおにぎりと一緒にバスケットに詰め込んだ。

 ──あのころに戻れればいいのにな……。

 と、太田は思う。

 が、その数ヶ月後、彼女は亡くなってしまった。

 葬式のときの博士の落ち込みようはなかった。

 そこにいた全員が、彼女の死を悼み、博士の心配をしていた。

「奥さんを亡くされて娘さんまで……」

 誰かの言ったその言葉は、博士の耳にも届いていただろう……。


     ●


 夕方近くになった。

 斉藤は台所に行って夕食の仕度を始めた。

 コックには太ってる人が多いと言えば偏見になるのかもしれないが、斉藤の料理の腕は、なかなかのものだった。とは言え、ほとんど中華に限られている。特に、ご飯物。

 以前、彼はこんなことを言った。

「焼飯と天津飯。他に、カツ丼やチキンライスなんかも作ります。それぞれにコツというのがあって、先ず僕が言いたいのは、天津飯は出汁だしで味が決まるということ。と言っても、僕はプロじゃありませんから、使う調味料は全て市販のものです。ええ。普通に主婦が使ってるやつ。

 それがこの間、いいのを見付けたんですよー。へへへ。エスビー食品の海鮮中華だしペースト。これ凄くいいんです。直接嗅ぐと海老の香りなんですけど、完成した料理には海老の味も香りもほとんどなくて、でも凄く美味い。

 後、餡に必要なのは、ほんだしと醤油と砂糖と胡麻油です。最後に溶かした片栗粉を入れて下さい。

 次に焼飯ですが、あれは出汁がなくてもいいんです。卵と塩とコショー、そして最後に醤油を入れるだけで美味しくなりますから。

 えー。それからチキンライスには決められた手順がありまして。先ずは具材を炒めて下さい。そしてそれを一旦皿に移し、空いたフライパンに再び油を入れ、その油の上にケチャップを乗せ、更にウスターソースを注ぎます。点火して箸なんかで掻き混ぜながらフライパンを前後左右に傾けます。そうすることによって油と混ざったケチャップは、前後左右に移動しながら、適度に酸味と水分をなくします。ここで一旦火を止めて、ご飯と、先ほどの具材を再投入します。火を止めたまま、ご飯が適当にケチャップに染まるくらいに軽く混ぜてから再び点火。そして最後に少量のケチャップをもう一度加えて、均等に混ぜ終えれば出来上がりです。

 で、分量は目分量でやってますので、宜しく試行錯誤して下さい」

 ──本日の夕食はチキンライスだった。二人でチキンライスを食べながら、

「草刈り大変でした」

「なかなか美味しいな」

「でも綺麗になりましたね」

「プロでもここまで美味しくは作れない」

 暫く噛み合わない会話が続いた。

 と、

「この後、明日の打ち合わせをしたい」

 太田が言った。

「打ち合わせですか?」

「と言うより注意事項かな」

「はあ」

「食後、少しゆっくりしてからでいい」

「デザートがありますからね。プッチンプリンですけど」

「いいね。ちょうど甘いものが欲しかった」

「ですよね。色々とされてたようですから」

「家の整備をしていた」

「整備ですか」

「ああ。ほとんど問題なかった。この家はまだちゃんと動いている」

「動く……?」


 デザートを食べた後、二人は部屋を移った。

 八畳くらいの部屋。美しい暖色系のカーペットが敷かれていた。

「あぁ。外国に居るような気分だぁ。──これは博士と娘さんですか?」

 斉藤が飾り棚の上の写真を指差して言った。四十歳くらいの男性と、可愛い少女が写っていた。

「そうだ。私にとっては、少し歳の離れた妹のような存在だった……」

「そうでしたか──う。今頃になって腰が痛くなってきた」

 そう言って斉藤は近くの椅子に座ろうとした。

 が、

「掛けるな! この部屋の物に触れてはいけない」

 太田が制止した。

「わ、わ、分かりました。ほ、他には? 何をしてはいけないんです?」

「それだけだ。私も君も、この部屋の中では立っているだけだ。だが、明日の招待客には自由にさせる」

「そうなんですか?」

「それが目的だからな」

「はあ……。理由は全く分かりませんが分かりました」

「そしてもう一つ。これが一番大事だ。何を見ても驚いてはいけない。出来るだけ平静でいてくれ」

「何を見ても?」

「そうだ。出来るだけでいい」

 斉藤は“うーん”と心の中で呻いた。“明日、自分は一体、何を見せられるんだろう……?”


     ●


 今から客人を乗せてそちらに向かいます、という連絡が漁師から入った。

 太田と斉藤は船が着岸する場所で迎えることに。

 船がやって来て島に着いた。

「お待ちしてました。永野さん。今回、この島に招待させて頂いた太田です。こっちは助手の斉藤です」

「どうも初めまして。斉藤と申します」

「私が永野だ。この島に来るのは何年振りか……。博士の遺産の話があるということで、取りあえずやって来たよ」

 そのとき漁師が、

「では。港に帰りますので」

「ありがとう。又、迎えを頼みます」

 太田の言葉に、漁師は手を振って答えた。

 三人は坂道を登り博士の家に向かった。

「本当に久し振りだな」

 永野が独り言ちていた。

 家に到着した。

 永野が通されたのは、あの部屋だった。

 太田も斉藤も何も触れてはいけない、あの部屋だ──


     ●


「では、さっそく聞かせてもらえないかね。博士の遺産の話を。あ、君。済まんがお茶を貰えないか?」

「は。かしこまりました」

 斉藤はそう言って退室すると、既に用意していたらしく、二人分の紅茶と、ちょっとした菓子を、ワゴンに載せて戻って来た。

「気の利く助手だな。頂くよ」

 部屋にはテーブルがなく、唯一ある椅子も離れた場所だったので、永野は立ったまま紅茶に口を付けた。

「美味い紅茶だ」

「そうですか? 有難うございます。くせのない日本人の舌に合った紅茶をご用意させて頂きました」

「なるほど。確かに。じゃあ、話を始めて」

 永野が言った。

「分かりました」しかし太田は、「その前に確認したいことがありまして」

「何だ?」

「永野さんがここを訪れて、そして島から去られたその後に、博士の娘さんが亡くなられたことはご存知ですよね」

「ああ」

 永野は答えた。

「娘さんが亡くなられた原因、それが毒によるものだといった噂があったのもご存知で?」

 そう言いながら太田は、深く考え込んでいる風なお芝居でもしてるかのように、そろそろと椅子の方に歩み寄って行った。

 その後を追うような形で永野も場所を移動した。そして斉藤も、ワゴンを二人の前に動かした。

「毒殺か。そういう噂は聞いた。世の中には勝手なことを言う馬鹿がいるからな」

「そうでしょうか?」太田は続けた。「残念ながら、その噂は正しくて、娘さんは本当に毒殺されてしまったのかも」

「ははは。まさか」

「その当時、博士親子の他に島にいたのは、あなただけ。そして、あなたが去った暫く後に、娘さんは亡くなられた」

「何だか引っ掛かるものの言い方だ。──ところで、娘さんの遺体から毒は検出されたのかね?」

「いいえ」

 太田は言った。

「じゃ、毒殺なんかじゃない。そんなことを考えていたら、可哀想に娘さんも成仏出来ないぞ」

「私が考えるに」太田は言った。「なかなか検出するのが難しい毒が使われたんじゃないかと」

「ほう。例えば?」

「分かりません。分かればこんなに苦労しませんよ」

「する必要のない苦労をしている」

 永野は言った。

「当時、あなたは博士から事業の融資を受けられる予定だった。ところが愛娘が難病に罹り、博士は融資の先をその難病の研究者に変えようとしていた」

「ああ。そうだ。親としては当然だな」

 永野は頷いた。

「本当にそう思いましたか? 娘さんのことを憎らしく思われませんでしたか? だが娘さんが亡くなられても、あなたは融資を受けられなかった。では、その金はどこに? あなたはそれが知りたくて、今日ここに来た。ひょっとしたら自分のものになるかもしれないと──」

「ははは。馬鹿馬鹿しい。何を言うのかと思ったら──もう帰らせてもらう。疲れたよ。君の戯言を聞かされてるとね。結局、遺産の話は嘘なんだろ。──ここに私を連れ出すための……」

 永野は無造作に近くにあった椅子に座った。生前の博士が大切にしていた一人掛けの椅子。昨日、斉藤が座るのを止められた椅子だ。

 その数秒後、

 もう一つある部屋のドアが開き、何者かが中に入って来た。

 子供だった。

 まだあどけない少女。フリルのある可愛いスカートを穿いていた。

 三人に向かって、ゆっくり近付いて来た。

 その顔を見て斉藤は驚愕した。

 ──亡くなった、この家の娘さんじゃないか!

 だが、それ以上に驚いていたのが永野だ。

 腰を抜かしてそうな表情をしていた。

 いや。ひょっとしたら本当に抜かしているのかも。

 座っているので分からないけれども。

 ともあれ、彼は尋常ではない驚き方をしていた。

「な、何だ! こ、これは一体どういうことだ!」


 少女の歩みは、たどたどしかった。

 まるで生まれて初めて歩いたかのような、人間とロボットの中間みたいな動作……。

 間近まで来ると、彼女は床に膝を付け、椅子の肘掛けに手を置き、永野の顔を見上げた。

 そして言った。

「大好きなお父様。これからも加奈を大切にしてね」

「な、何を言ってる! わ、私は、お前の父親じゃない! そ、それに、お前はもう死んだんだ! わ、私が、私が調合したワルシャワの涙でな!」

「ワルシャワの涙か」

 太田が言った。

「な、何だと──」

「お前が言った」

「へ? 覚えがないんだが」

 彼女が精巧に造られたロボットだと気付き、早くも冷静さを取り戻した永野はそう言って惚けた。

「そうか」

「やれやれ」椅子から立ち上がりながら永野は、博士の娘の姿を模したロボットを荒っぽく押し退けた。「良く出来た人形だな。──こんな物まで使って。成程。漁師の話もこのための嘘だったか。手間を掛けたものだ」

「さすがに察しがいいな」

 直後に太田は、労わるようにして、床に倒れたロボットを抱き起こしていた。

「え? あれは嘘だったんですか?」

 斉藤が言った。

「ああ。そういうのも大事だからな」

「そういうの……」

「待っててくれ」

 太田はロボットを抱きかかえて部屋から出た。

 斉藤は、永野と二人きりになった。

「あんな幼い女の子を殺して良心は痛まないんですか?」

 斉藤が言った。

「何だと。私に言ってるのか?」

「そうですけど」

「私は殺してない」

「でも、さっき言ってたじゃないですか」

「言ってない」

「全部ビデオで撮ってるんですけどね」

「本当か?」

 そのとき部屋に戻って来た太田に向かって、

「おい! この部屋で撮ったものを渡すんだ!」

「どうして?」

「もし渡さないなら──こうする!」

 永野は斉藤の首を抱え込み、後ろ暗いことがあって用心のために持っていたのであろう、ポケットから小型ナイフを出すと斉藤の首に押し当てた。

「わ、わわわ! きゃー! 怖いワン!」

 斉藤が、おかしな悲鳴を上げた次の瞬間、永野の体は、くるんと空中で回転して床の上に叩き付けられていた。

「僕、こう見えて柔道の六段だから。ハイッ!」

 そう言って斉藤は不思議なポーズをした。

「お、お前達、許さんからな!」

 永野は顔を真っ赤にして言った。


     ●


 後はもう船の迎えを待つだけだった。

 一応、長門警部にも連絡を入れていた。

 録画は完璧だった。全てが撮れていた。

 永野は気を失っていた。うるさいので鳩尾に蹴りを入れられたのだ。

「靴が穢れる」

 直後、太田は蔑んだ目をして言った。

「さっきのは痛かったでしょう。なんてったってアイドルの鳩尾です。おまけに太田さんの靴先、尖ってますから」

 斉藤が言った。

「何だ? その古臭そうなギャグは」

「僕ももう、おじさんですからねー。どっこいしょ」

 斉藤は、座るなと注意されていた椅子に、どっかと腰を下ろした。

「ふー。一段落」

 数秒後──またドアが開いて少女のロボットが入って来た。

「あ! しまった! この椅子がスイッチになってたのか!」

 思わず立ち上がりかけた斉藤を太田が制止した。

「そのままでいい。娘さんが亡くなられた後、博士はこうやって自らを慰められていた」

 彼女は再び床に膝を付け、椅子の肘掛けに手を置き、斉藤の顔を見上げた。

 そして言った。

「大好きなお父様。これからも加奈を大切にしてね」

「くっ。どうしてだろう……涙を止めることが……」

 斉藤は泣いていた。

「会ったこともない少女なのに……」


     ●


 夕方近くになって船は到着した。

「いや、済みません。仕事に手を取られて。遅くなってもいいとのことでしたので、お言葉に甘えました」

 漁師が言った。

「大丈夫ですよ。こっちは上出来でしたから」

 斉藤が答えた。

 漁師は手を縛られた永野を見て少し驚いたようだったが、それに付いて何も聞くことはなかった。

 何しろ、お世話になった警部に頼まれたのだ。──自分が関与すべきことではない。

「警部も来られるそうです。後、一時間もすれば港に着くということでした。おじい様が関わられた事件で鬼首村に行かれてたそうです」

「そうですか」

 太田が言った。

「荷物を積むのを手伝いましょう」

 作業は十分ほどで終わった。

「じゃ、港に戻ります」

 船が動き始めた。

 段々と暗くなってきている。

「お前達、覚えてろ!」

 永野が言った。

「何を?」

 斉藤が答えた。

「私は無罪だ」

「そうですか。でも、もし罪に見合った刑罰を科されなかったときには気を付けて下さい」

「は? どういう意味だ?」

「これは僕の想像ですが、そのときはもっと酷い目に──例えば、この海の底とかに……」

 それくらいのこと、太田が平気でやってのけるのを、斉藤は知っていた。

 出会ったときからそうだった。

 太田は、首を吊って死んでいく人間の様を、ただ何もせずに眺めていた。

 勿論、そういうのは相手が悪人のときに限られる。

 彼の正義感は常に空気がパンパンに詰まった風船のよう。

「ああ。島が茜色に染まって……。何もかもが幻のような島だ……」

 斉藤が言った。

「幻の島、か……」

 太田の声が潮風の中に消えた──。

     了



ヘブライの悪魔(多分これが一番新しいバージョン)



 彼女を奪われた。しかも親友にだ。俺はヘブライの悪魔を呼んで彼女を取り戻すつもりだ。

 悪魔の呼び方は本で勉強した。呪文を唱えるだけで目の前に現れるのだ。

 俺は呪文を唱えた。

「望みごとを言え」

 いきなり悪魔が現れた。

 真っ黒い皮膚。尖った耳。むちのような尻尾。悪魔以外の何ものでもない。

「あいつから彼女を取り戻して下さい」

 悪魔に訴えた。

「せっかくの機会に金を望まんのか?」

「金なんか要りません」

「よく考えろ。お前を裏切った女だぞ」

「それはそうですが……」

「では、こうしないか?」

 悪魔が提案した。

「彼女か、それとも金か、お前の望みを、このコインで決めさせてもらえないか? 表が出れば彼女、裏が出れば金。家と車を買っても、まだ余るほどの大金だぞ。どうだ──?」

「しかし……」

 俺は、ためらった。金は欲しい。でも今は彼女の方が大事だ。

「では、こうしよう。ここにサイコロがある。偶数が出れば彼女が戻り、奇数が出れば大金が手に入る。勿論、これだけではコインと同じだから、一か六が出れば彼女と一緒に大金も得られることにする。どうだ──?」

 悪い話ではなかった。三分の二の確立で彼女が戻り、三分の一の確立ではその両方が手に入る。だが三と五を出してしまえば彼女は戻って来ない。

「どうだ──?」

 もう一度、悪魔が言った。

 俺はその提案を受け入れることにした。最低でも金が手に入る。その金で彼女を取り戻す。彼女がなびいたのも、あいつが金持ちだったからだ。そうに違いない。

「では振れ」

 サイコロが渡された。

「チャンスは一度きりだ」

「代わりに魂を奪ったりしないですね?」

「ああ。約束しよう」

「本当ですか?」

「悪魔は嘘をつかない。その点は信用出来る」

 俺は安心してサイコロを振った。

「くそっ! 三だ……」

「残念だったな。金を受け取れ。だが彼女は諦めろ」

 目の前に大量の札束が現れた。

「彼女の保険金だ。たった今、お前の親友に殺された。受取人を、お前にしてやったぞ」

「ど、どういうことです……?」

 何が何だか分からなかった。

「彼女は、お前の元に戻るつもりだった。だが、お前の親友はそれを許さなかった。お前の親友は彼女を刺し殺した。本来、助かるはずの浅い傷が、お前が三を出した瞬間に悪運が重なって、こんな結果になってしまった。お前が偶数か、あるいは一を、いや、そもそもサイコロを振らなければ、彼女はお前の元に戻っていた。残念だな」

 そう言って悪魔は消えた。

「くそっ……!」

 自棄になった俺は、ポケットからライターを取り出して札束に火をつけた。その火が、まるで意思を持っているかのような動きを見せて、俺の体を包み込んだ。


題名「存在」



 部屋で一人でいた。

 テレビをつけた。だが面白い番組はなかった。仕方なくテレビを消した。

 そのとき暗くなったテレビ画面に何者かが映り込んでいることに気が付いた。

 真後ろにいた。

 輪郭は人のようでも、目と口がでか過ぎる。人でないのは明らかだ。

 とても逃げ切れそうにない……。でも、どうすればいい……。

 ひょっとして、このまま気付かなかった振りをしていれば、襲われずに済むのかも……。

 そう考えて、悟られないように、ゆっくりとテレビ画面から顔を逸らした。

 だが、

「見たの」

 耳元で聞こえた。

「分かってるよ」

          了



題名「入浴タイム」



 家に一人。

 夜。

 風呂に入ろう。

 脱衣場のドアを、こちら側に引いて開けたとき、開けたドアの背後に何かの気配が──

 不気味に思えて脱衣場に逃げるようにして入り、ドアを閉めようとしたとき、ドアの蝶番ちょうつがいがある方の隙間から目が──

 慌ててドアの鍵を掛けた。

 だが、

 そのとき背後からも怪しい気配が──

 俺は永遠に振り返れない──


     了

 


題名「幻夢」



●登場人物

井上(登山する人)

コンビニの店員



○崖

   夏。井上が険しい崖を登っている。(素手で登っている。フリーソロ・クライミング)

井上「くくっ……。もう少し……」

   そのとき足を滑らせて崖から落ちる。

井上「う、わぁー!」

   幸運にも途中に突き出ている岩の上に落ちて助かる。

井上「(下を見ながら)はあはあはあ。あ、危なかった……」


○崖の頂上

井上「やったー! やったぞー!」

   地上を睥睨している。


○崖から少し離れた場所

   崖を下りた井上が山を下っている。背景に崖。


○田舎町(夕)

   帰りの道中。井上が車を運転している。

   途中でコンビニに寄る。


○コンビニ(夕)

   井上が買い物をしている。レジに弁当とお茶を持って行く。

   が、店員は井上に気付かないで自分の作業(レジの中で)に没頭している。

井上「済みません」

   まだ気付いてもらえない。

井上「(再び)済みません」

   今度も気付いてもらえない。

井上「おい! 聞こえないのか!」

   そう言って店員の肩に触れようとする。

   が、手は店員の体を突き抜けて、そのまま空を切ってしまう。

井上「え?」

   驚いてレジから後退する。

   一瞬、店員が井上の方に顔を向ける。

井上「あ」

   が、全く井上がいることに気付かない。

井上「……」

   そのとき、手にしていたお茶を床に落とす。

井上「あ!」

   だが再びお茶が手の中に戻ってくる。(スローモーションで)

井上「ど、どういうことだ──? な!」

   ※ここから急激に時間が巻き戻る。

   コンビニ→車→崖下へと。


○崖下(夕)

   井上、自分の死体を発見している。

井上「こ、これは……。──はっ!」


○崖(真実の再現)

   夏。井上が険しい崖を登っている。(素手で登っている。フリーソロ・クライミング)

井上「くくっ……。もう少し……」

   そのとき足を滑らせて崖から落ちる。

井上「う、わぁー!」

   途中に突き出ている岩の上で一度バウンドしたものの、結果的に地面に激突する。


○崖下(夕)

   井上、頭を抱えて、

井上「う、嘘だ……(現実を悟る)」

   そのとき、

コンビニの店員の声「いらっしゃいませ!」

井上「!」


○コンビニ(夕)

   ※この瞬間、井上はコンビニに戻っている。

   頭を抱えたままレジの方を見る。

   が、店員はレジにて別の客の応対をしている。

   ※もうそこに井上の姿はない。(第三者の視点で)

   ・暗転。


○崖の頂上(夕)(幻)

   井上が地上を睥睨している。

          了


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