四.月の魚を育てる
次の日の夜、男の子は、工場にあるブリキ製のすこし大きなバケツを持ち出して、公園へと向かうのでした。
こんな大きなバケツ持って走ったら、だれかに見つかって、どこ行くのか、問われないかしらん……
男の子は、他の子どもらがみな宿舎に帰って、たっぷりと日の暮れるのを待って、出かけました。工場の入口前をとおると、機械の音がまだガーと響いていて、大人たちの影がゆったり行き来していました。
公園につくと、女の子は、ちゃんと来ていました。
どこで泊まったんだろ。
「月の魚は、毎晩、月の光をあててやんなきゃなんない。二晩か三晩あればいいと思う」
「そんなに早く育つの?」
「うん。でも、だれにも見つからないとこへおいとかないと」
昨夜は、小さなバケツだったので、公園の裏にある小さな林の、茂みに隠しておいたのでした。
ブリキのバケツに水をくむと、最初、ガランガラン、というばかに大きな音が、静かな公園の夜に響いて、男の子はついあたりを見渡しました。
「ふふ。今日はよく、月がてってるね」
女の子はうれしそうに言って、男の子を見てほほえみました。
すべり台の上に、魚を入れかえたバケツをおきました。
女の子はしばらく、バケツの角度や傾きを変えていました。どうした条件かはしれませんが、あるとき月からすうっと光がまっすぐに伸びてきて、あっというまバケツの水を金色に満たしました。
ちゃぱっ、と、一度魚が水面を尾ひれでたたくようにしました。
月は、すべり台の上のできごとを見るように、じっとした輝きをたもっていました。
二夜目。
男の子は働くのが終わると、工場の物置で、子どもが三人くらいは入れそうな、古いタライを見つけ出しました。
だれかに見られたら、ぜったいに問いただされる……
男の子は一度宿舎へ帰って、工場の明かりも消え始める頃、もう一度物置をおとずれました。大人たちがぞろぞろと工場を出て行くところでしたので、入口の物陰に隠れてやりすごしました。そして物置の裏に置いておいたタライをしっかり両手でかかえると、公園へ急ぐのでした。
すこし、涼しい風の吹く宵でした。
タライは、水を入れると、ふたりがかりで持たねば運べず、すべり台の階段をのぼるにもおそるおそるでした。
それでも女の子は笑顔で、昨夜と同じように月の光をいっぱいに集めてみせました。
魚は、一日で、ブリキのバケツがきゅうくつなくらいの大きさに育っていましたので、もっと大きなタライに入れられ、喜んで泳いでいるようでした。
明日には、またこれいっぱいの大きさになって……
「気をつけようね。こぼしちゃうと、月の光の入った水じゃなきゃ、育たないから。すぐに死んじゃう」
ブリキのバケツなら茂みに隠しておけましたけど、今度はそうはいきません。曲がり角や、物音にびくつきながら、ふたりで、夜のだれもいない工場まで、タライを運びます。
タライは、工場の裏手にある、廃屋の一つに隠しておきました。
女の子は手をふって、もと来た道をさっそうとかけていきました。
涼しい風が、男の子のほほをなでました。
三夜目、雨。
男の子は、廃屋の立ち並ぶ暗い工場裏で待っていましたが、女の子は来ませんでした。
もちろん、月のすがたさえ見えない夜なので、月の光集めはできないとわかっていましたけれども。
……あの子、どこにいるんだろ。何か、食べるものはあるんだろうか。
男の子は廃屋に入って、タライにシートをかぶせました。
もし雨が漏って、月の水がうすれたら、いけないかもしれない……
わずかに開けたドアーから、薄暗い夜の光が、線くらいの細さで入ってきています。
ほとんどまっ暗がりの廃屋。トタンの屋根を、雨がばきゃんばきゃんと音を出して打ち付けています。
ときおり、ちゃぷ、……ちゃぷ、と、魚が水を泳ぐ音が聴こえていました。
四夜目。
「いそいで! いそいで!」
タライの大きさいっぱいに育った魚を、それごと公園まで運ぶのには一苦労でした。
それから、ふたりは、もう魚を入れられるものはありませんから、すべり台の下の砂場にできるだけ大きな穴を掘って、そこへ水をためて、月の光を流しこむことにしました。
「すこしばかり、いつもより月から遠いけど……」
月の角度や、位置を見ながら、女の子はちょっとだけあせったふうにも見えましたが、水の上で手をかざしたり、四方で手をふったりして、月の光を無事にみちびくことに成功しました。
ちょっとした池くらいありますから、そこ一面に降り注ぐ月の光は、輝く柱のようでした。月の魚は、見るまに、にわか造りの池いっぱいの大きさに育ちました。
男の子の胸は、妙な高まりを覚えました。
「もうとべるねえ。今日はもう残りの夜が長くないから、暗いうちに月へはつけないわ。明日、暗くなってすぐに発ちましょう」
「魚は?」
「あの裏の林の、木の上につないでおきましょう。もう育ってとべるから、日の光にさえ当てなければ大丈夫」
「魚は、勝手に月へ帰ってしまわない?」
「あたしがとなりで寝てるから」
「きみ……いつもあんなところに、寝泊りしていたの?」
「ちょっとでも月に近い方が、落ち着くし、よく眠れるからね。さあ、ゆこうよ。魚……明日は、よろしくたのむね」
魚は、ふうっと、静かに水から舞いあがりました。
巨きな魚がひれをふるうすがたは、つばさを持つけもののようでした。魚は、とらえたときにまして、どす黒さをたたえて見えました。
その真夜中。
「……! ……!」
男の子の夢の中、女の子は助けを求めていました。
最初、まっ暗闇に、女の子のよくわからない声がかすかに響いていたのですが、次第に「たすけて! たすけて!」という声だとわかり、ついに女の子もすがたを現しました。
「魚が、魚が、死んじゃう」
女の子は、まっ暗がりの中、ぽうっと浮かび、きょんとしたまんまるな目をして、初めて、これはやはり、どこか人間とはちがうものだというふうに感じとれました。
ふたりは、暗闇の道をかけていきました。男の子は、自分のからだも、月の女の子と同じように白く淡い光を放っているのがわかりました。
やがて、いびつなかたちをした発光体が見えてきて、近づくと、それが月の魚でした。
月の魚は、そのときにはもうずいぶんとちぢんでいました。光も、どんどん薄まっていきます。
女の子は、まんまるな目をしたまま、なにも言わず魚の前で立ち尽くすだけでした。
最後には、魚はしおれたばななのようになってしまい、そのまま完全に光を失い、闇にとけてしまいました。
「ああ。魚をつかまえた罰なんだ。やっぱり、月の海の神さまは、見てらした。きっと、あたし、もう月へもどれない」
女の子は、男の子に話すでもなく、うつむいたまま、ひとりごとのように言いました。
男の子はとても、さみしい気持ちになりました。
「あの、……」
ぼくと、いこうか。この町を出て、どこか……