なつこの夏。
真夏の日差しが私を照らす。教室の窓は開けてあるが、そこから入ってくる風は生温い。教室の中はじめっとしていて、じわっとかいた汗で、制服がぴたりとくっついて不快だ。
こんな日には、学校が休みになればいいのに、と夏子は思う。
いつもと変わらない日々。でも確かに時間は過ぎていって、私が気づかないだけで、周囲はどんどん変化している。
ああ、暑い。それだけが私の思考を支配する。
私は1番前の席で、目の前では先生が汗だくになりながらも、必死に黒板に文字を書いている。
そんな様子を見ながら、こんな授業なんて意味あるんだろうかと考えていた。
この授業を聞いていることで、私にどんなメリットがあるのか。
人は、自分に利益があるかどうかをまず考えてしまう生き物だと思う。別にそれは悪いことだと思ってない。むしろそれが正しい生き方だと思っている。
私が、私のために生きて何が悪い。
それは間違ってなんかないはずだ。
教室の廊下側から、バタバタと人が走る音が聞こえる。つまらない授業に飽き飽きした生徒が抜け出しているのだろうか。けれど、教室のドアが開き、音の主を目にして、違っていたと判明した。その足音を立てていたのは先生だった。
「天宮さん、天宮さんいますか!?」
いきなりの出来事に、教室にいた全員がドアの方を向く。暑さで朦朧と授業を聞いていた生徒達が、一瞬にしてシャキッとなった。そして、名指しされた私は、それ以上に大きく反応した。
「は、はい!」
先生は、この暑さの中走ってきたにも関わらず、何処と無く顔が青かった。
「天宮さん、ちょっとこっちへ。」
そうやって呼び出されるのは、今回が初めてだった。重大な事が起きているのだと、私は悟る。そして、その内容が、1番最悪な事ではありませんように、と祈る。
私は、席を立ち上がり、教室を出て行く。後ろから、ガヤガヤと声が聞こえていた。
いつもと変わらず蒸し暑かったその日、私が先生に連れられて病院に行くと、母が泣いていた。
私は、亡くなった父と対面した。
飲酒運転による交通事故。赤信号で飛び出してきた車両と父の車が衝突した。
相手の男性は意識不明の重体。父は即死だった。
これほどまでに、どうしようもない気持ちになる事を初めて知った。やりきれない気持ち。悔しい気持ち。悲しい気持ち。後悔する気持ち。
どうして、私の父が死ななきゃいけなかったの。どうして、相手はまだ生きているの。
昨日まで、あんなに元気だったのに。いつも通りにうるさく勉強の事を言ってきていたのに。
どうして前触れもなく、ふっといなくなってしまったの。
私はそっと、父の手を取った。
どうして、どうしてこんなに、手が冷たくなってしまったの。
握り返してよ。この手を。
そう思ったけれど、この願いが叶うことはないんだと、私は分かっていた。
父は、もう、私の名前を呼ぶこともないんだ。
もう二度と、私と会話することも、笑いあうことも、一緒に出掛けることも、怒ることも、泣くこともない。今まで当たり前だったことは、何一つ、もう出来ない。
ああ、父が生きているうちに、もっともっと、仲良くしておけば良かった。父の言うことを素直に聞いておけば良かった。もっと良い子にしてれば良かった。
頭の中で、父の優しく微笑む様子が何度も再生される。
それとは対照的に、今目の前にあるのは、冷たくなってしまった父の姿。
もう二度と笑うことはない、父の姿。
ああ、なんで。どうして無くしてしまってから、こんなに大切だと気づいてしまったの。
かけがえのないものだと、今頃知ってしまったの。
「今気づいたって……もう、遅いのに。」
そう呟き、父の前で泣いた。
もう戻ってこないのに。後悔したって仕方ないのに。そう分かっていても、後悔するのをやめられなかった。
後悔することで、ごめんなさいと思うことで、自分を守っていた。
私が、私のために生きてきたのは、間違っていたのだろうか。
自分の為じゃなく、みんなのために生きていれば、もっと父に優しくできただろうか。
間違いにもっと早く気づいていれば、こんなに後悔することもなかっただろうか。
でも、父はもうこの世にはいないのだ。
もう、父と会うことは出来ない。
その事実の残酷さが、私を締め付けた。
あれだけ鬱陶しかった夏の暑さも、もう感じなくなっていた。
ただ感じるのは、胸の痛みだけ。
涙は、目からではなくて、心から溢れてくるものだと知ったのは、この時だった。
何度も何度も泣いた。心が枯れ果てるまで。
お葬式が終わって、火葬するまで、私の心はここにあらず、といった感じだった。
現実じゃなければいいのに、と思っていた。現実だと分かっていながら、そう思っていた。
そして、学校に復帰してからも、私は父の事で頭がいっぱいだった。初めはクラスメイト達が、私の事を気遣ってくれたけど、そのうち、別の新しい話題になり、私の父のことは話題に上がらなくなった。
そうして前と変わらず授業を受ける日々が始まった。
外から聞こえてくるセミの鳴き声、教室に入ってくる生ぬるい風、汗で張り付く制服も不快なままだ。
それが、あの日を思い出させた。私が呼び出されたあの日。父が亡くなったあの日を。
私は、夏が嫌いになった。
どうして私の名前はなつこなの? 私は自分の名前を恨みそうにすらなった。でも、父がつけてくれたこの名前だけは、嫌いになれなかった。どうしても、嫌いになれなかった。
父がなくなってから、私は、人のために生きたいと思った。
もう、後悔しないように、大切に一日一日を過ごしていた。
あれだけ退屈だった授業も、父の言う通り、ちゃんと聞くようにした。
でも、どれだけテストでいい点数をとっても、喜んでくれる父はもういない。
悲しみに暮れる私に、母は言った。
「なつこ。あのね、お父さんはもうここにいないけど、夏になれば、帰ってきてくれるのよ。」
夏は、父が帰ってきてくれる季節。
だから私は、夏が少しだけ、好きになった。
父が亡くなってから約一年。私に初めての彼氏が出来た。
きっと父が生きていれば、「彼氏とか、いないのか」とさらっと聞いてきていただろう。
そしたら、私は恥ずかしい気持ちで、父に紹介していたかな。
今年の夏は、初めて、彼氏と一緒に花火大会に行った。母に浴衣を着せてもらって、化粧もして、いつもよりちょっと大人っぽくなった私を、彼氏は褒めてくれた。
屋台で買ったふわふわの綿あめも、上手くできなかった金魚すくいも、夏の思い出になった。
あの花火のように、この思い出もいつか消えてしまうだろうか、と思うと、ちょっぴり切なくもなった。
でも、だからこそ、今この時を大切にしなきゃいけないんだ。
「いつかなくなってしまうからこそ、今この一瞬一瞬が、私の宝物なの。だから、私、今あなたと過ごせて嬉しいよ。」
綺麗に咲いて、儚く散ってしまう花火を見ながら、私は言った。
彼の顔が、色とりどりの花火に照らされて、カラフルに色づく。
「そうだね。俺も、なつこと一緒にいることが出来て、嬉しいよ、ありがとう。」
彼と私は、手を繋ぎあった。
その手は、温かくて、安心した。
もうすぐ、お盆が来る。
父が帰ってくる。
ねえ、私、勉強を頑張っているんだよって、父に伝えよう。
彼氏が出来たことも、人に優しくなれたことも。
父は笑ってくれるかな。
きっと、笑ってくれる。彼氏にはちょっと嫉妬するかもしれないけど、心の中では、喜んでくれるはずだ。
「そうかあ、成長したなぁ、なつこ。」
そう言う父の姿が目に浮かぶ。
なつこ。それが私の名前。
この名前は、父がつけてくれた。父からの最大のプレゼントだ。
私は、この名前が好きだ。
そして、夏の匂いも。