1『邂逅』
転がって転がって、駆け抜けていけ。
こぼれた涙が乾くようなスピードで。
今思えば、あれは必然だったのかもしれない。
予兆はすでに始まっていたのだ。
「私は踵を返し、胸のざわめきを連れて玄関を飛び出した――――――」
午後4時40分。
国立蜂逢高校2年1組のクラスでは現代文の授業が行われていた。
小説の音読が終わり、新藤彼方は立てていた教科書を寝かせる。小さな風圧が机の上の消しカスを飛ばした。
(…………疲れた)
小さな伸びをした彼は、放課後に何をしようか思い悩んでいた。黒板の板書をノートに書き写し、ふと周りを見渡してみる。
一つ席を挟み右にいる男・櫻井大和。
蜂逢高校に入学して出来た友人の一人で、気さくな性格で男女問わず人気のあるモテ男だ。おまけに成績優秀、運動神経抜群、容姿端麗そして話をすれば違わず大受け…………。
と何から何まで完璧なので、何故友人になってくれたのか彼方にはよく分からなかった。
そんな完璧人間の大和はというと、真剣に黒板を見つめて頷いている……ように見せかけて爆睡していた。目を開けたまま寝ていたのだ。
(器用な奴め……)
教師の目を欺くのも完璧人間から目を背け、斜め左前の席にいる少女に目を向ける。
木舘夏々莉。
明るく誰にでも愛される少女。
彼方が少し気になっている、クラスメイト。
彼女はというと、教師が書いた板書をノートに写し終えたのか、可愛らしいキャラクターの落書きをしていた。
2年生になったときのクラス替えで同じクラスになり、初めて交わした会話が
「急にごめん!お昼ごはん奢ってくれない......?」
おまけに理由が
「なんか、新藤君なら奢ってくれる気がして……えへへ」
翌日の昼食をご馳走する代わりにその日のランチを奢らされ、
「本ッ当ありがとー! 明日は私がご馳走するから! 約束は絶対だからね!」
と、満面の笑みで返され、女性耐性無しの彼方を一発K.O.した罪深い少女である。
彼方の視線に気付いたのか、夏々莉は首だけ振り向いて微笑んでくる。
それだけで彼の心臓はBPMを増大させた。
キーンコーンカーンコーン、と授業の終了を知らせるチャイムが鳴る。
「今日はここまでか。それじゃ教科書の57ページの読解問題、宿題にするからやってこいよぉ」
気だるげな声の教師の指示に、生徒たちも同じく嫌々な反応を見せる。
西の空に浮かぶ夕日も、いつもより増して猟奇的な赤で空を染めていた。
つかの間の喧騒が去り誰も居なくなった教室を後にした彼方は、大和から声をかけられ帰路を共にすることにした。
偶然通りかかった夏々莉に声をかけようとするも、用事があるからと足早に断られてしまったところを偶然見かけた大和は、可哀相だから一緒に帰ってやると偉そうに言ってきたのである。
「お前、さっき心臓バクバクさせてたろ」
親友からの不意打ちに、こいつは超能力者なのかと疑問を隠せない彼方。
「気がついたらつい木舘ちゃんの方見てるもんな」
ケラケラと大和は笑う。
「べ、別にいいだろ......」
「責めちゃいねーよ、純情チェリー君」
二人は住宅街の下り坂を歩きながら、次々に話題を変えて話を盛り上げる。
最近発売したゲームのこと、明日の宿題のこと、教師間の色恋沙汰のこと。
不思議なほどに会話が弾むことが、いつものことながら心地よいと彼方は感じていた。
同じく帰宅途中であろう女性とすれ違ったとき、大和はふいに彼方へ疑問を投げかける。
「そういや聞いたことなかったけど、彼方が持ってるネックレスってどこで買ったんだ? こんなこと言うとちょっと悪い気もするが、あんまりオシャレとか興味有る訳でもねーっしょ?」
「あぁ、これ?」
そういうと彼方は首にかけたネックレスを大和に見せる。
エメラルドのような色の、鈍く輝く結晶。
高値の宝石と言えば誰もが信じそうな輝きを発している。
「形見なんだ、遥姉の」
彼方は遠くを見つめながら息を吐くようにつぶやく。まるで昔の思い出を噛みしめるように。
「そっか、やなこと聞いたな。忘れてくれ」
「気にするなよ、気にしてないよ」
そっか、と再び大和は言う。
しばらくして交差点に差し掛かり、家路の方角が異なる二人はここで別れることにした。
「それじゃまた明日」
「おう、気をつけて帰れよ。今日の星座占いで射手座が最下位だったからな」
「それは今言うことじゃないだろ......なんなら言わなくていいじゃんか」
げんなりする彼方をよそに、ケラケラと高らかに笑いながら大和は自分の家へ歩いていった。
信号が変わるのを待ちながら、彼方はスマートフォンで星座占いを確認する。
「ええっと。今日の運勢は最悪! 忘れていた嫌なことを思い出してしまうかも! って、うわぁ......」
今日のラッキーアイテムまで確認したところで、待っていた信号が青に変わった。
横断歩道を渡ろうとすると、突然左から自動車が飛び出してきた。
「うひょッ⁉︎」
とても情けない声を出す彼方。間一髪で避けれたものの、あと少し前にいたら轢かれていたかもしれない。
「おいおい危ねえなぁ」
占いは当たるもんだなと思いつつ、再び歩き始めたその瞬間。
右手の方角から爆発音が聞こえた。
彼方は驚きを隠さず、即座に音源へ振り向く。
先程通り過ぎた車が炎上していた。ガードレールに突っ込んだのか、対向車と衝突したのか。
呆然とするのもつかの間、ふっと冷静になった彼方は110番に通報しようとする。
しかし、彼の指からスマートフォンが滑り落ちた。
車はガードレールにぶつかったわけではない。道路のど真ん中にあるからだ。
車は対向車と衝突したわけではない。あちらの道は水平線が見える。車なんて一台も通っていないからだ。
冷や汗を流す彼方は、この感情を何というか知っていた。
嫌でも脳裏に蘇る、忌まわしき記憶。
鼻につく油の臭い。耳障りな激しい駆動音。
燃えるような灼熱の空を背に、目前の爆炎を振り払い「それ」は姿を見せた。
神出鬼没に全てを破壊する怪物。
人々はそれを「マシン」と呼ぶ。
耳が壊れそうな甲高い叫び声を上げ、怪物は彼方を見据える。
「先に言えよ......ッ‼︎」
心を支配したのは、まさしく「死の恐怖」であった。
命をかけた追跡劇が、幕を上げる。
ほぼ同時刻にけたたましいサイレンが鳴り響いた。
「第28区にて、マシンの出現が確認されました。近隣の住民は速やかにシェルターへ避難してください――――――」
(よりによってなんでシェルターの真反対で鉢合わせるかなぁ……ッ‼︎)
頻繁では無いがマシンの出没は時たま起きることなので、住民を避難させるシェルターが街の各所に配置されている。
今回は非常に不運なことに、最寄りのシェルターまで走っても15分はかかる。
彼方は足の速さには、自信が無い。
件の怪物はそれを知ってか四足歩行の形状をしており、あれを撒くのは相当根気がいるだろう。
炎上していた車から再び爆発が起こる。踵を返したマシンが馬乗りになり『捕食』を始めたのだ。
豪快な咀嚼音を立てながら、口から赤黒い液体を垂らしていた。奴は車の運転手すらも食らっていたようだ。
悲鳴は聞こえてこない。既に息絶えているに違いないだろう。
今のうちに逃げろ。アイツがこっちに来る前に。
頭の中に反響する声が彼方の体に指示を与える。
まだ間に合う。隠れながら行けば何とかシェルターに辿り着けるかもしれない。
だというのに。
(……動かない。動かねぇよッ‼︎)
恐怖で足がすくんでしまっていた。
マシンが現れ街を破壊し始めたのが4年前。あれから何度もマシンは出現してきたが目の前に現れたのは初めてであった。
正確には4年ぶり。最愛の姉の遥を惨殺したとき以来だ。
思い出したくも無い残酷な記憶が蘇る。
(ここで死ぬのか……俺は……?)
とうとうマシンがこちらに向けて歩み始め、次第に速度を上げて襲いかかる。
絶体絶命の危機。彼方は絶望のどん底に落とされ、只々目の前に迫る『死』に打ちひしがれるしかなかった。
呆気なかったな。
食らった屍の血液を撒き散らして牙を剥き、まさしく彼方の喉元に食らい付く――――――。
その瞬間。
「固有顕装、顕現開始ッ‼︎」
怪物の毒牙は、突如現れた守護者によって弾かれた。
彼を護ったその声には聞き覚えがあった。
美しい翠色の結晶から成る盾をかざし、凛とした眼差しで捕食者を見据える。
その麗しき少女の声には聞き覚えがあった。
「――――――神様ありがとう、おかげでギリギリ間に合ったッ! 新藤君、大丈夫だったッ⁉︎」
木舘夏々莉、国立蜂逢高校2年生。
可憐なる少女は少年を絶望から救い、殺戮と対峙する。