チョコレートコスモス
返された銀色の鍵は掌にひやりと冷たく肌を刺すようだった。
どこにでもあるようなカフェ。
どこにでもあるような別れの風景。
でも僕の想いはどこにでもない。
君にしかないこの心を、一体どうすれば良いと言うの。
もうお終いなの。
君の艶めく唇がそう告げて。
僕をどん底へと突き落とした。
光が見えなくて息が苦しくて、僕はそのまま死ぬかと思った。
嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
子供のように泣き喚く自分を僕は胸に押し殺し、取り繕うように平気そうな顔をした。
けれど身体は鉛のようで。鈍重で。
恋の終わりに僕の魂は血を流していた。
ああ、そうだ。血だ。
その夜。
僕は彼女のアパートに向かった。
蒼褪めた月が地上を見ていた。僕を見ていた。
僕はまだ、彼女の部屋の鍵を返していなかった。
彼女は驚いた顔で僕を見た。
鍵を返しに来た、と尤もらしく僕は言った。
紅茶を淹れる彼女の後姿を見ながら僕は泣きそうになった。
あれは冗談だったのよと、そう言ってくれれば僕の心は救われるのに。
ローテーブルの花瓶にはチョコレートコスモスが活けてあった。
臙脂色の花びらをぼんやり見ていた僕に、彼女が紅茶を運んできてくれた。
知ってる?
チョコレートコスモスの花言葉は恋の終わりですって。
そう言って、意味ありげに僕を見る。
早く鍵を返せと主張しているのが解った。
僕はスタジアムジャンパーのポケットからゆっくりと銀色のそれを取り出した。
舞う、舞う、舞う花びら。
愛おしい柔肌に突き立てる鋭利。
乱れて散る雫は僕の涙と彼女の血液。
チョコレートコスモスと同じ色の血の飛沫は、花びらみたいだった。
液体と液体がぐちゃぐちゃだった。
彼女の身体もぐちゃぐちゃだった。
あんなに綺麗だったのに。
君が自分で台無しにしたんだ。
僕は喘ぎながら自分にそう言い訳した。自分を擁護した。
本当に悪いのが誰かだなんて、そんなの僕が一番よく解っている。
息絶えた君の唇に僕は口づけした。
まだ仄かに温もりの残る唇は、湿っていて、君の生を感じさせた。
僕が奪ったそれを。
チョコレートコスモスが僕を見ている。
僕は花瓶からチョコレートコスモスを引き抜くと、床に投げ捨てて踏みにじった。
それから彼女を刺した銀のナイフで、自分の胸を突き刺した。
何度も何度も刺す内に、僕の唇からチョコレートコスモスの花びらが溢れた。
花びらはとめどなく溢れ、床を満たした。
臙脂色の海に僕は倒れ、彼女の亡骸を見ながら目を閉じた。