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いっそ殺してほしい。
そう考えたことは一度や二度でなく、事実それは誇張なしに私の本心であったのだと思う。だが、それでも私という存在は卑しいもので、生への執着をついぞ捨て切ることなく現時点まで生きてきてしまったことは人生最大の恥であるのだと断言できる。
「く……くっ」
しかも、だ。こうして地道に壁を瓦礫で掘り続ける作業を日課としてしまっているのはもういっそ滑稽ですらある。
土埃に塗れた瓦礫を壁に向かって振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。
無為にも等しきこの習慣も、それでも一応の成果として石の壁にそれなりの深さのくぼみを生み出した。普段ポスターで隠したその大きな、さながら痛ましい生傷のようなそれは、光明であり、はたまた絶望であった。日増しに増長する罪悪感という名の黒々と口を開いた穴を象徴しているようでならない。
分かっている。理解している。私はひどく醜く自分勝手で厚顔無恥な人間であるということくらい。大きな罪と、それに見合うだけの認識がありながらも、それでも、生きていたい。この生活から逃れたい、そう思ってしまう。
衝動のように胸を突き動かしているこの感覚を本能であると断じてしまえれば、きっと私は楽になれるのだろう。
ただ、それでもそう割り切れないのはここまで生に縋り付いておきながら何を今更、といったところであろうが、胸に深く突き刺さった罪の意識という名の楔故なのだろう。
「……っち」
微かに足音が反響するのが聞こえ、手を止める。素早く布団に体を滑り込ませ、暫くすると看守が私の牢の前で足を止め、「音がした気がしたんだがな」という低い呟きを残した後に去って行く。
今日はこの程度で止めておくべきか、そう考え私は看守が完全に立ち去ったのを確認してから、手に握りっぱなしにしていた瓦礫を部屋の端に隠し、心なしか深くなったように思えるくぼみを覆うようにポスターを貼り直すと、眠りについた。
翌日の夕刻、膨大な量の作業を終えて薄い布団の上に体を横たえて本を読んでいると、二つの足音が階段を下ってきた。何なのだろうと身を起こすと、丁度そのタイミングでその二つの足音は私の牢の前で停止した。
「新入りだ。向かいの部屋に入る」
看守の鼻から上は、制服の仕様上見えないが、金属をすり合わせたかの如き不快な声音から、昨晩の看守とは違う看守であることが分かった。
そして、その声の発信源であるところの口は、下品な笑みを形作っている。
「よろしく、お願いします」
挨拶したのは、その隣にいた女性だ。薄いぼろのような服を身にまとっているのはほかの囚人とさして変わるところはなかったが、しかしそれでも看守の笑みの理由が彼女であることは一目瞭然であろう。
派手ではないが、整った面に、激しく主張する胸部。どことなく漂う怪しい雰囲気と相まって、非常に「そそる」女性だと感じた。目に生気が宿っていないこと以外は。
「ああ」
「ん」
片手を挙げて挨拶を返すと、女性はくぐもった、それでいて色っぽい声を出す。何事かと視線を下方へ向けると、看守の手が女性の臀部に差し込まれていることが分かった。嘆息する。彼女がこれからどのような扱いを受けるかは、明らかだった。
「よろしく」
辟易する。「お国のために」という大義名分を仮にも背負った役人がこのような下衆であることに。そして目の前で行われる不貞な行為に嫌悪感を感じつつも、とりわけ何を言おうとも思えない自分に。
その時私が気にしたことといえば、この階に収容されている囚人が私だけであったために壁掘りがはかどっていたのだが、それが彼女のせいで達成困難になってしまうだろうという、ただそれだけであった。
想像通り、その日の夜から彼女にとっての地獄が始まった。
深夜、私が日課である壁掘りを始めようかと機を伺っていると、ドタドタと騒がしい足音が聞こえた。私は目を瞑り、牢と反対の方向を向くが、看守はそれに構うことなく尚も足早に牢の前を通り過ぎた。そして、当然のように隣の牢のあたりで足を止めると、ジャラジャラと鍵の音を立てる。二秒後、鍵が解錠される音がして、次いで不快な声が聞こえる。昼間の看守だ。
「起きろ、起きろ」
囁きと頬を叩く音する。きっと彼女は私なんかとは違い、本当に眠っていたのだろう。くぐもった声を出してから、驚きの悲鳴を上げようとしたのだろうが、一瞬で口を塞がれたのだろう。「むーむー」という間抜けな音だけが静かに反響した。
聞こえようとしなくても聞こえてくる、バタバタという音。男の苛ついた、しかしながら確かな愉悦を含んだ声。それに抵抗するようなくぐもった声。
聞きたくない、そう思ったが、不思議と耳を塞ごうという意欲は湧いてこなかった。
心持ちとしては「呆然」に限りなく近しい状況なれど、聴覚だけが異常に冴えていった。
「はは、ようやく観念したか。挿れるぞ」
囁き声。次いで肉と肉を打ち付ける音、そして粘性のある水音と微かな吐息がフロアを支配した。
どうでもいい、どうでもいいのだと念じつつも、私は自らの一物が確かに怒張しているのを感じた。右手をそこにあてがう。
音は、時間を追うごとに大きくなる。男は最初こそ私が隣の牢に居ることを意識してだろう、小さな声で彼女を辱めていたが、次第にタガが外れたかのように大きい声で卑猥な言葉を叫ぶようになった。
女の方も途中から口の押さえを外されたようだったが、助けを求めるわけではなく、ただただ「あっ、あっ」と艶っぽい声を漏らすのみだった。
私はただただ黙って右手を動かした。
そこに理性はなく、ただただ行為しかなかった。それ故に虚しさなど感じる余地はなかった。
丁度私が掌に射精するのとほぼ同時に、行為は終わりを迎えた。一際大きい愉悦の声が途切れると、男はかちゃかちゃとベルトを弄る音をさせながら「じゃあ、片付けておけよ」と言って、そそくさと階段を駆け上がっていった。
行為の明確な終わり、それが訪れてからしばらくは茫然自失といった精神状態であったが、それも終わると私の心にもたげたのは羞恥心と罪悪感だった。
それは、常日頃感じている、かつて犯した大罪に対するそれとは趣を異にしたものだ。
私は視線を左手に向ける。そこには白くどろっとした欲望の象徴が確かに息づいていた。
深いため息を吐く。かといってそれをそのままにしておく訳にも行かず、起き上がってぼろきれで精液を拭い、未だ残る臭いを確認して辟易していると、
「ねぇ、聞いていたのでしょう?」
声は、向かいの牢からした。その声からは先ほどの艶は感じられず、むしろ機械的な平坦さがあった。
「ねぇ、聞いていたのでしょう?」
先ほどと寸分違わずな声は、不気味ですらある。
「すまない」
思わず、私は謝る。謝ったところで何の解決にもなりやしないということはとうに学んだはずだろうに、と内側で叱責するような声が聞こえた気がした。
「謝ることはないわ。どちらにせよ、あなたに私をどうにかすることは不可能だったのだから」
「…………」
「それよりも重要なのは、あなたが今起きていて、私と会話ができる状況にある、ということ」
「会話を?」
「そう。牢獄の中はとても退屈だから。気が狂いそうになるほどに」
「退屈って──」
先ほどまでの行為を含めて言っているのか、と問いそうになる。が、それを言うより早く、女の声が聞こえる。
「会話を、しましょう」
それは、有無を言わさぬ口調であった。
「……分かった」
ここで違う返答をしていたなら、いや、もっと早い段階で違った選択をしていたなら、あるいは私の運命は────。
────
「今日も、代わり映えのしない日々だったわね」
あれから一週間。
夜を貪る行為は続き、それと同じように、私と彼女の会話は続いていた。
他愛のない話。だけれどその習慣は、きっと私と彼女の最後の柱になっていた。人間としての、最後の柱。彼女という「他人」と関わることで、私は私という存在を自認していたのだろう。きっと彼女も。
それほどまでに、牢獄での日々は我々が人間であることを疑わせた。
当然だけれど僕はもう行為の音に劣情を抱いて射精に及ぶことはなかった。慣れ──と表現してしまえば簡素に響くが、きっと私の脳を苛んでいたのは麻痺なのだろうと思う。
聞いて聞かぬ振りをする罪悪感も、はたまた羞恥心も、もう既に私の血肉と化していた。
「あぁ、全くだ」
私は答える。その声に乗っていたのは疲労感のみであることに、私は少なからず驚いた。こうも感情が波立たないものなのか。
「それじゃあ今日は趣向を変えて、少しばかり刺激的な話をしましょう」
「刺激的な、話?」
彼女のこのような物言いは、非常に珍しいものであった。私達はここ一週間、言葉を交わしてはいたものの、ひどく牧歌的で表層的な話しかしていなかったからである。この牢獄という場所にひどく不釣り合いな、不自然な会話とも言えるほどに逃避的な会話をしていたようにも思える。
故に、心臓が一つ大きく跳ねた。嫌な予感がした。今まで繊細に積み上げた積み木柱。それを下からゆっくりと引き抜くような感覚が、確かに横たわっていた。
「そう、私達の、罪の話よ」
胃の底がきりりと痛む感覚と、しかし腑に落ちるような感覚。破綻の予感と予定調和。何故だろう、それは至極自然な流れに思えたのだ。
「分かった、そうしよう」
私は答える。酷く平坦な声で。
「そうね、提案したのだからまずは私から」
一呼吸ほどの間の後、彼女は言った。
「私は、恋人を殺したわ」