第6章
「ねぇ、新堂君」
第八号館を出たところで、恐る恐るといった様子の美代子が言った。
無言のまま彼女の前を歩いていた新堂は、振り返る。自動ドアの前に立つ美代子は、日没前の夕陽を浴び、茜色に輝いていた。しかしそれとは逆に、表情は暗い。光を拒むように背ける美代子の顔は、逆光となる以外に、負の感情によってどこか蔭りを帯びていた。
何か言いたげな美代子に対し、新堂は心底面倒くさそうに応えた。
「あぁ?」
ひどく高圧的な態度だが、美代子にはどんな威嚇も通じないことを、新堂は今までの経験から知っている。返事がささくれ立っているのは、ただ単に美代子の挙動に腹を立てているからだった。
「なんだよ。言いたいことがあるんなら言えよ」
「ん……えっとさ、何て言うか……」
それでも、美代子は口をもごもごさせながら言葉にするのを躊躇っている。
そしてお互いの間に一陣の風が吹き抜けてから、美代子が目を逸らしながら訊いた。
「その……新堂君のご家族って……」
「全員、死んだよ。俺の両腕を奪った『夜魔』に喰われて。んで、今は先生の研究室の倉庫を借りて住んでる」
「えっ――」
まるでしゃっくりのような引き攣った声をあげてから、美代子は大きな瞳を新堂に向けた。それからまた、今度は地面へと視線を落とす。
「ご、ごめんなさい! 変なこと訊いちゃって……」
「あのさ」
浅く息を吐いた新堂が、踵を返した。大股で、美代子の正面へと接近する。そして突然、新堂が美代子の顎を、人差指でついと持ち上げた。
二人の視線が交差する。
濡れた瞳を見開いて、困惑するように表情を引き攣らせる美代子。
そんな彼女を、新堂の絶対零度の三白眼が射る。
「不幸な人間に同情している自分がそんなにカッコイイか?」
「べ、別にそんなつもりじゃ……」
泳いでいた美代子の眼が、定まった。何か物言いたげな人間の眼だ。しっかりと意志の籠った瞳を、新堂はじっと見つめる。だが美代子が言葉を紡ごうと唇を動かすと、彼は顎を持ち上げていた指を弾き、背を向けてしまった。夕陽をも飲み込みそうな漆黒の学生服が、美代子の前に晒される。
高鳴った鼓動を抑えるように胸に手を当てた美代子が、大きく息を吐いた。
「はぁ……ビックリした。キスされるかと思ったよ」
「するかバカ!」
背中を向けたまま大きくのけ反った新堂は、それから脱力を身体全体で表す。
「お前もう、ホントに何なんだよ……。お前と話していると、調子が狂う」
「いえいえ、それほどでも」
「褒めてねえよ」
しかしある意味褒めるに値する性格の持ち主だと、新堂は思う。
同世代の人間は大概敬遠する自分を、こうも無警戒に付きまとう、その度胸。睨みつければ、万人が怯む新堂の威嚇を軽々しくあしらったこともそうだ。それに突如自分を襲ってきた化け物……『夜魔』に対する知識を求めるその姿勢。確かに真実を知りたがること自体は別段珍しいわけではないが、あんな怪物と対峙したにもかかわらず、たった一晩で持ち直すその精神力は驚嘆に値する。
「ま、単なる脳なしのバカなんだろうな」
「むぅ、なんだかとても失礼なこと言われたような気がする」
小さな頬をプクッと膨らませた美代子を一瞥しただけで、新堂はさっさと行ってしまう。
「おら、さっさと送ってくぞ。それから明日以降、俺と……『夜魔』と関わるな。いや、関わろうとするな。関わっても得することはねえぞ」
「えー、だってまた襲われたら怖いよ。その時は新堂君、また助けてくれる?」
「助けるかアホ。昨日はパトロール中に、偶然発見しただけだ。普通は誰も助けになんかこないぞ。今後『夜魔』と遭遇したら、全速力で走れ。そんで明るい場所へ逃げ込め。特に人間が最も安心できる自宅には、奴らも追ってこないからな」
「ふーん、じゃあさ、また偶然通りかかってくれたら、新堂君は私のこと助けてくれるかな?」
「…………」
何なんだよコイツ……と、内心呆れながらも、新堂は答えた。
それは嘘偽りの無い返答。
「……まぁ、間に合ったらな」
ただ、その後に続く言葉は、意図的に言わなかった。
正直、美代子の安否などどうでもよかった。
新堂の目的は二つ。一つは、この世界から突然変異した『夜魔』を撲滅させること。もちろん襲われている人間を助けられるに越したことはないが、目的はあくまでも『夜魔』を潰すことで、救出ではない。
そしてもう一つの目的こそ、新堂が生きる意義。最終目標。
自分の両腕を喰い、そして家族を皆殺しにした『夜魔』を殺すこと。
二頭の蛇が互いの尾に噛みついているあの『夜魔』を思い浮かべると、自然と義手に力が入った。復讐という『闇』が、今の新堂の原動力になっている。自らの腕に『ウロボロスの牙』と名付けた『闇』を飼っているのは、自分を戒めるためだ。絶対に忘れられない復讐心が、どれほど巨大な『夜魔』でも倒せる『闇』へと成長させるように。
新堂の瞳が、今は見ぬ仇に想いを馳せて、次第に鋭くなっていく。
しかし彼の背しか見えない美代子は、先ほどの返答を好意的に受け取ったようだ。ニコリと笑った美代子は、満足げに頷いた。
「それじゃ、約束だからね!」
そう叫んだ美代子が駆け出した。
「おい、待てよ。送ってって欲しいんじゃなかったのか?」
「ううん、ここで大丈夫だよ。今日はバイトもないし、陽が落ちる前に帰れそうだから」
踊るような足取りで、夕闇の中を駆ける美代子。途中で振り返り、大きく手を振った。
「バイバイ、新堂君。また明日、学校で!」
「……チッ、関わるなっつーたのに」
それでも教室で顔を合わせるのは仕方がいないかと、新堂もまた照れ臭そうに軽く手を挙げた。
不思議な奴だったなと、私服の大学生に紛れるセーラー服姿を見送りながら評価する。
いや、違う。美代子と話して、不思議な気分になったのは自分の方だ。
新堂の目つきや態度を恐れて、今まで積極的に誰かが接触してくることはなかった。しかしそれは新堂自身も望んでいること。他者との繋がり、誰かとの交流が、新堂が持つ『復讐心』という『闇』の力を脆弱にしてしまうことを、彼は知っているからだ。だからこそ新堂は、誰の協力も仰がず、毎夜毎夜一人で『夜魔』の討伐に乗り出し、日々『ウロボロスの牙』を強化しているのである。
なのに、矢野美代子と話すことで……昨日会ったばかりといっても過言ではない女と一時間程度話しただけで、揺らいでしまった。他者と関わることを、楽しいと感じてしまった。この五年間で溜めこんだ『闇』は、どんな『光』であろうと、もう二度と浄化できないと信じていたのに。
ふと、村井準教授の言葉を思い出す。
新堂は『黒』で美代子は『白』。相反する二人が直接関わることは難しいが、交わってしまえば相手の色に染まるのは素早い。つまり新堂の『黒』は、美代子の『白』に影響されて、『灰色』に近いところまで染色されたということなのか……。
「……はっ、馬鹿馬鹿しい」
これまで思考していたことを、たった一言で全否定し、美代子の背中がすでに見えないことを確認してから、新堂は研究室に戻ろうとした。
と――Brrrrr……。
ポケットの中の携帯が振動する。最初は無視していたが、着信が異様に長いため、新堂は鬱陶しそうに顔を歪めながら携帯を取り出した。
「チッ、誰だよ」
震える携帯のディスプレイを確認し、新堂は目を見張る。
白い画面には、何の表示もなかった。
「なっ――」
息を呑み、即座に着信を拒否した。そしてすぐにカメラのモードへ切り替える。
どこから掛かってきたのか分からない電話は、近くに『夜魔』がいるという証拠。新堂にとっては復讐相手である『夜魔』が向こうから現れてくれることは願ってもないことだが――彼にいつもの平静さはなく、慌てた様子で周囲にカメラを向けていた。
「どこだ?」
短く呟き、近くにある物陰という物陰を探る。
『夜魔』とは『闇』そのもの。通常、太陽が出ている間に現れることはない。特に突然変異した『夜魔』は『闇』の力も強く、弱点である『光』の影響も顕著に受けてしまう。よって『夜魔』が現れる時間帯はほとんどが夜であり、もしくはあまり光の届かない物陰に潜んでいることが多い。
そして例外が一つ――それが新堂が取り乱すほど慌てている理由。
もし太陽の『光』に負けないほどの強大な『闇』を有した『夜魔』がいたのなら――。
新堂の『復讐心』程度の『闇』で勝てるかどうか、分からなかった。
そしてカメラを向けて捜索し始めてから数秒後、突如として背後に悪寒が奔る。『夜魔』と対峙した時と同じ冷たい気配を感じ、新堂は躓くように振り返った。
「こんにちは」
背後には、子供がいた。少年とも少女ともとれるとても中性的な顔つきで、身長は低く、新堂の首元辺りまでしかない。なので数歩離れていても、その子供は新堂の顔を見上げなくてはならなかった。
「あれぇ。反応がないなぁ。あ、もしかしてもう夕方だから、こんばんわって言った方が正しいのかな? 僕が間違ってたから返事してくれないのかな? かかか、なかなかの頑固者だねぇ」
漆黒に染まるおかっぱ頭を揺らしながら、その子供は奇妙な声をあげて笑った。
新堂は口元をへの字に曲げたまま、片方の眉を釣り上げた。
「なんだいなんだい、だんまりかい? 無視されちゃ、さすがの僕でも悲しいよ」
「…………」
今度は腰に手を当てて、プンプンと怒りだした。気性の激しい奴だ。
それにしてもコイツは誰だろう、と新堂は思う。当然、知り合いではなかった。また、知らぬ人間と和気藹々と話しができるほど、新堂はおおらかな性格ではない。この子供の正体を訝しむのと同時に、取り扱いにも困っていた。
こちら側に私服でいるのだから、大学生……にはさすがに見えない。デニムのベストにカーゴパンツという、今にも冒険に出ようとしているボーイスカウトくらいの幼さだ。加えて、穢れを知らぬ無邪気な笑顔。高校二年の自分でさえここまで『闇』に染まっているというのに、大学生にもなってこれほどまで天真爛漫でいられるとは、到底思えなかった。
「長い、長ーい。いくらなんでも知らんぷりしてる時間が長いぞぉ、新堂君!」
「な……どうして俺の名前を?」
驚いた新堂とは対照的に、相手はようやく話ができることが嬉しそうに目を細めた。
そして得意気に言う。
「かかか。ようやく言葉をきいてくれたね。僕の名前は蜉蝣。よろしくね!」
「答えになってねぇし……」
「知りたいことが知れないなんて、この世の中の常じゃないかな?」
などと嘯きながら、両手を背中で組んだ蜉蝣が、ゆっくりと新堂の周りを回りだした。
「ま、あえて答えを言うならば、僕はなんでも知っているのさ。新堂光太郎という君の名前。『ウロボロスの牙』という『夜魔』の残滓を宿していることも。五年前、『夜魔』によって家族が殺されたことも」
「なん……だと……?」
呆気にとられて、新堂は声も失ってしまった。喉を痙攣させながら、三日月形に歪む蜉蝣の唇を、ただただ呆然と見つめるばかり。名前だけならともかく、どうしてこの子供が自分の素性を知っている? 簡単な疑問を問い詰めることもできないほど、新堂は混乱していた。
新堂の立ち位置を中心として円を描くように歩いていた蜉蝣が、彼の真横の位置で立ち止まった。そして何か企みのありそうな顔から、ニコリと裏の無い笑顔を作る。
「うそうそ、冗談だよ。君のことは、村井先生から聞いていたのさ」
「……先生から?」
「そうだよ。僕もまた君と同様、『夜魔』の残滓をその身に宿した、『夜人』なのさ。そして最近、村井先生が統率するここの『AND』に所属することが決まったのでした!」
「そ、そうなのか?」
「疑り深いなぁ。でもまぁ、『夜魔』と戦うためにはそれくらい警戒心が強くないとダメなのかな。かかか」
何が面白かったのか、蜉蝣は腹を抱えて笑いだす。童心の塊みたいな振る舞いに警戒心は解くも、未だに疑うことはやめなかった。ただ、蜉蝣の言うことが本当なら、後でやっておかないといけないことがある。
新堂は、八号館の五階辺りを睨みつけた。
「あの野郎。人のプライバシーをぺらぺら喋りやがって。帰ったら煙が出るまで殴ってやる」
「むはは、なんだか穏やかじゃないねぇ」
他人事だから当然かもしれないが、蜉蝣はとても呑気な口調で言った。
「それで、俺に何の用だ?」
「つれないねぇ。せっかく新しい仲間が増えたっていうのに。……ま、いいや。ただの挨拶回りだよ。村井先生に言われて、ここの『AND』のメンバーに自己紹介してるんだ。菓子折りはないけど、この可愛らしい笑顔で許してね」
両手の人差し指を自らの頬に突き、ぶりっ子っぽく首を傾げてみせた。
他人に無関心な新堂は、小さく無愛想に「よろしくな」と言っただけだった。
「で、どうするんだ? 俺はもう研究室に戻るが、お前も先生に会っていくのか?」
「いんや、もうすぐ日没だし、僕は帰るよ。村井先生によろしくね」
腰を半分に折ってお辞儀をする蜉蝣が、上目遣いで新堂に笑顔を向けた。
「そうか」
と言っただけの新堂が、さっさと背中を向ける。村井準教授と知り合い、かつ『AND』のメンバーであるから敵意は無いが、仲間だからといって決して慣れ合うつもりはないといった態度だった。
「かかか、聞いてた通りクールな人だなぁ。孤高の戦士って感じ?」
「…………」
冗談交じりに声を掛けられるも、新堂は振り返らなかった。
そのまま段差を上り、八号館の中へ帰ろうとする。
「でも……君はまだ引き返せるんだから、羨ましいよ」
「なに……?」
背中に投げかけられた言葉に、ついつい新堂は問い返してしまった。
しかし蜉蝣は、その場から忽然と姿を消していた。いや、焦点を遠目に合わせてみる。美代子とは逆の方向、つまり大学側の正門へと全速力で走っていく蜉蝣の背中が見えた。こちらに振り返ることもなく、幼い子供が無駄に一生懸命走るように、蜉蝣もまた走ることに夢中になっているようだった。
入口の自動ドアの前で、新堂はひとり呟く。
「『闇』とはまるで無縁そうな奴だったな」
蜉蝣の言によれば、奴もまた新堂と同様、何らかの『夜魔』を抱えているはずだ。なのに心的外傷があるような仕草も見せないまま、あの明るく無邪気な振る舞いをできるのは一種の才能というか、ただ単に過去のトラウマが小さかったのか。
どちらにせよ、『夜魔』による被害者が一人増えたことを知り、新堂の中の『夜魔』に対する復讐心が、より一層強固の物へと変わった。
と、自らの手の中で眠る携帯電話を思い出した。そういえば『夜魔』が現れた合図があったのだが、あれは蜉蝣の中に巣食う『夜魔』の残滓に引かれて、携帯が鳴っただけだったのだろうか?
一応、念のため携帯のカメラでぐるっと周囲を確認してみる。
すると発見した。八号館のロビーの隅、陽の光が当たらない暗闇の中、小さな気配が一つ。手の平に載るサイズの、どうやら甲虫の姿をした『夜魔』なのだが、表面の爛れた『闇』のせいで、はっきりと形を視認することはできなかった。
携帯を畳んだ新堂は、すべての憎しみを込めた瞳で小さき『夜魔』を睨む。
「お前ごとき、『ウロボロスの牙』を使うまでもない」
片脚をあげた新堂が、全体重を載せて『夜魔』を踏みつぶした。
耳にも届かない小さな断末魔をあげ、できそこないの小さな『夜魔』は、『闇』の残滓として周囲に飛び散ったのだった。




