第3章
新堂たちが通う私立土筆大学付属高校は、大学とその敷地を共有する、いわゆる併設校だ。フェンスや塀などで特に仕切られているわけではないので、行き来も自由である。かといって、大学生が文化祭体育祭などの行事以外で高校を訪れることはまずなく、高校生側が大学へ移動するのが大部分だった。昼休みなど、格安で提供される大学内の食堂に足を運ぶ高校生も、少なくはない。
もちろん、彼女のように一度も大学側に来たことがない生徒もいる。
「わぁ、私、こっちに来たの初めて」
大学内の大通りを闊歩する私服の大学生にきょどりながら、美代子が言った。
その前を歩く新堂のこめかみに、青白い筋が浮かぶ。
「おい……」
振り向いて肩越しに睨みつけるも、美代子は気づいていなかった。
「大学って広いし、建物が大きいよねぇ。一体何階くらいあるんだろ。それに校舎内に食堂がある高校とは違って、食堂専用の建物まである。食堂っていうより、もうレストランだよね。私もお昼、こっちに食べに来ようかなぁ。わ、教室もすっごい広い! 正面が黒板じゃなくて舞台だったら、もう完全に劇場だよ!」
「おいって……」
まるで今話題の遊園地ではしゃぎまくる子供のような美代子に腹を立てた新堂は、二本目の青筋を作った。仏ではない新堂には、それで限界だった。セーラー服の襟元を強引に引っ張る。
「ぐげぇっ!」
「何でお前、ついてきてるんだよ」
「何でって……」
伸びてしまった襟元を正しながら、美代子が怒ったように返した。
「だって新堂君が約束破ったんじゃない。何にも教えてくれないまま帰っちゃうなんてさ」
「いや、まぁ、そうなんだけどさ……」
帰り際のあの言い方は、どう捉えても今日は諦めるフラグだっただろ。という指摘は口の中だけに留めておいた。何を言っても受け流されるか、屁理屈でごねられるのが目に見えていたからだ。
「新堂君こそ、何で大学側に来てるの? 帰るんじゃなかったの?」
「んなもん、俺の勝手だろ。勝手についてきてるストーカーが口答えするな」
「ストーカーじゃないよむごぁ!」
突然、新堂の手が美代子の頬を摘んだ。たらこ唇になった美代子が、うーうー呻く。
「うぅ、おにゃの子に何するんしゃ」
「帰れ」
半眼で凄んだ。ただどちらかといえば威嚇の意味ではなく、面倒事を回避したい一心で取った行動にも見えた。それを看破した美代子は、新堂の腕を解こうともせず、真正面から抵抗する。
「やだ」
「か・え・れ」
「や・だ。新堂君がそうやって無理やり帰そうとするなら、私も強引について行くことにする」
「はぁ……。何がお前をそうさせるんだよ」
「昨日のことを説明してくれるだけで、私は素直に帰るんだから。意固地になってるのは新堂君の方だよ? 新堂君こそ、何で説明するのを拒むのさ」
「それは……」
巻き込みたくなかったから、とは言えなかった。
昨日すでに巻き込まれている美代子に対しての理由にはなっていなかったし、それ以上に、この自分が誰か他人を気遣っていると思いたくなかったからだ。
心に優しさが生まれると、闇の質が落ちる。
新堂に『夜魔』のことを教えた恩師は、そう説明していた。
だからといって、剥き出しにした悪意を美代子にぶつけようとは思わない。圧倒的暴力を行使すれば美代子も渋々引き下がるだろうが、それは心の強さに影響する。暴力でしか問題を解決できない輩は心が軟弱で、簡単に闇に呑まれてしまうだろう。
だからこの女を引き剥がすのにはどうしたらいいのかと、頭をフル回転させた新堂だったが……。
「よし、じゃあこうしよう」
「?」
「お前が自力で俺の手から脱出できたら、勝手について来い。けど一分以内に脱出の目処が立たなかったら、諦めて帰れ」
「ホント? じゃあ私の圧勝だね」
「あ?」
疑問の声を上げ、新堂は訝しむ。あまりにも簡単に言い放つ美代子を見て、まさか特殊な格闘術でも身につけているのかと警戒し、彼女の頬を摘む腕にも力が入った。
しかし美代子は抵抗しない。新堂の腕に触れようともしない。
ただのハッタリか? と思い始めて三十秒が経過したところで、美代子の視線を追ってやっと気づいた。
私服で行き交う大学生がこちらを眺め、ニヤニヤと笑っているのだ。
さすがに居たたまれなくなり、新堂の顔がオレンジ色の夕陽に負けないくらい真っ赤に染まる。学生服で大学側にいるってだけで目立つのに、若い男女が仲睦まじく喋っていたら確かに注目の的だろう。
舌打ちをした新堂は、荒々しく美代子を解放した。
「ヤッタ」
「勝手にしろ……」
そういえば、コイツはクラスメイトの前で堂々と机を掲げるくらいの図太い女だったということを思い出し、新堂は素直に諦めたのだった。
早足で歩きだした新堂の後ろを、美代子は軽快な足取りでついて行く。
不機嫌な顔のままずんずん行く新堂と、本来の目的を忘れたように観光気分で大学構内を見回す美代子。あれからお互い終始無言だったが、新堂がコンクリートの階段を上って学舎へ入ろうとすると、美代子は不安げに表情を歪めた。
「え……建物の中に入るの?」
自動ドアの前で立ち止まり、首を掲げる。
一体何階建てなのか数えるのも億劫になりそうな大きな校舎には、無数の窓が等間隔で並んでいた。それはまるで蜂の巣だ。長方形の壁面に窓があるだけの、飾り気のない外観である。
などと観察しているうちにも、新堂は建物の中へ入っていってしまった。
「ま、待ってよ」
急いで追い掛ける。その際、入口手前にある青いプレートがチラリと視界に入った。
『第八号館。民俗学部棟』
どうして新堂が民俗学部の棟に用があるのかは分からないが、とりあえず今は見失わないように、美代子は足を速めた。
自動ドアを抜けると少し広めのロビーになっており、新堂以外の人はいなかった。そのため節電しているのか電灯は灯っておらず、意外と薄暗い。視界が悪い程度のものだが、美代子にとっては初めて訪れる場所であり、かつ用もない自分がこんな場所にいてもいいのかという罪悪感が募り、少しだけ心細かった。一人になるのはできるだけ避けたい。
エレベーターがやってくるのを待っていた新堂に、美代子は問い掛ける。
「ねぇねぇ、新堂君。高校生の私たちが、勝手に入っちゃってもいいのかな?」
「…………」
無視だった。機嫌を損ねた美代子はぷくっと頬を膨らませるだけで、今は済ませた。
エレベーターに乗り込み、新堂は五階を押す。同時に下向きの加速度が全身にかかる。狭い密室に二人きりという状況に美代子は少なからずドキドキしていたが、途中で乗ってくる人もおらず、すぐに五階へと到着した。
扉が開いたそこは、出入り口が無いだけの一階のロビーと同じ構造をしていた。
「わぁ、高い……」
決して経験したことの無い高さではないが、三階建ての高校の校舎に比べれば、はるかに壮観な眺めだった。路上を歩く学生の姿が、とても小さい。
「何やってんだ。置いてくぞ」
と、ここで初めて新堂が美代子を案内する意志をみせた。ようやく認められたのかと、美代子は嬉しそうに頷く。
大学内の廊下は人っ子一人おらず、とても静かだった。時折部屋の中から声が聞こえてくるものの、高校の教室とは違って廊下との境に窓がないため、内容までは聞き取れない。青い扉と白い壁しかない無機質なこの廊下は、さながら留置所のようだと、美代子は思った。
そして新堂は一つの扉の前に立った。扉上のプレートには『村井準教授』。新堂がノックをすると、中から「はーい」と女性の声がした。
新堂が遠慮なく扉を開ける。が、少しだけ隙間を開けて中に入ろうとはせず、その間から顔を覗かせるだけに留まった。
「ただいま」
「おまえりー。ん、どうした? そんなところに突っ立って」
「先生。ちょっとお願いがあるんだが……」
廊下で待つ美代子には見えないところで会話が進む。
と、急に新堂の声音が低くなった。
「携帯電話の電源を切ってくれないか?」
「携帯の? 何で……」
疑問の声を上げたが、部屋の中の女性は何かを悟ったのか、すぐに了承した。
「……分かった。言う通りにしよう」
そして数秒後、新堂が扉を開けて中に入る。美代子もその背中に続いた。
「今日はちょっと客が来た。おら、入って来いよ」
「お、お邪魔します」
緊張した様子で、美代子は村井研究室へと足を踏み入れた。
まず目に入ったのは、数多くの書籍。壁際にそびえる何段もある棚には、隙間がないほどの本やファイルで埋め尽くされていた。冊子程度の物から、何かの辞書と思われる太さの物まで大きさは様々だ。図書館や本屋の一角に相当する量だろうが、ほとんど漫画コーナーにしか立ち寄らない美代子にとっては、背表紙の堅苦しい文字を見ただけでも頭痛がしそうな、堅苦しいものばかりだった。
続いて高校の職員室にもありそうなデスクに目が行く。相当散らかっていた。正面に位置するパソコンの周りには、書類やら何やらの紙類が散乱しており、本来のデスクの色が分からないほど。唯一コーヒーカップが置かれている辺りは掃けているものの、それでも適当に場所を作っただけなのが丸分かりである。片付けられない人間の本性が垣間見れる空間だった。
そして片付けられない張本人、つまりこの部屋の主である村井準教授はというと……デスク前の椅子を反転させ、美代子を凝視したまま何故か固まっていた。
歳の頃は二十代後半から三十代といったところか。若々しさという点にだけおいては高校生である美代子に敵いそうにはないが、線の細い小さめの顔は整っており、薄手のブラウスからのぞいている大きい胸元も、女としての魅力は十分だった。
ただし、本人は自分の外見を良くすることにあまり関心がないのだろう。長い髪は頭の後ろで無造作に一まとめにされ、丹念に手入れしている様子はなかった。化粧っ気も全然なし。果てには部屋着としてでもあまりにひどい、薄汚れたジーパンの着用だった。
そんな準教授に少しだけ偏見を抱きながらも、美代子はおずおずと頭を下げる。
「あの……はじめまして。新堂君のクラスメイトの、矢野美代子といいます」
だが準教授の方からは何もなかった。
不思議に思い、美代子は頭を上げる。準教授は何故か、口を菱形に変形させながら、わなわなと震えていた。
そして突然叫び出す。
「こ……」
「こ?」
「光太郎君が女を連れてきたああぁぁぁーーーー!!!」
西部劇のガンマンが如く、準教授はポケットから携帯を取り出した。
「み、皆に知らせなくてはぁ! ……な、なんだと? どうして電源が落ちているのだ! 罠か? これは『夜魔』の罠なのか!? くそっ、電源が入るまでの時間がもどかしい!」
「そういう反応されるから事前に切らせといたんだよ!」
光速で繰り出された新堂の正拳が、準教授の後頭部に直撃。脳天から白い煙をあげ、村井準教授は椅子に座ったまま動かなくなってしまった。