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第2章

 スピーカーから漏れる電子音によって、新堂はハッと我に返った。


 焦点の合わない瞳を手の甲でこすり、慌てて前方を確認する。教壇の教師が教室から出て行くのと同時に、周りが生徒の喧騒で埋もれていった。

 一瞬だけ状況が把握できなかったものの、壁掛け時計がすべてを教えてくれた。

 午後三時半。さっき出ていった教師が担任だったことも含め、今が終礼後であることを新堂は悟った。


「全っ然、記憶ねぇ。つーか、汚ねぇし……」


 気づけば机の上が唾液の水たまりと化していた。ハンカチは持っていなかったので、学ランの袖で拭く。自分の唾液とはいえ、こうも大量だと気持ちが悪い。安易に袖で拭ってしまったことを、新堂は心の底から後悔した。

 テカテカになった机をジト目で見つめるも、明日になれば乾くかと楽観視し、新堂も周りに倣って帰宅の準備をし始めた。と――、


「新堂君!」


 ドンッと、正面から新堂の机を叩く女子生徒が一人。突然現れたセーラー服の胸元から視線を剥がし、新堂はその女子生徒の顔を確認した。そして露骨に目を泳がせる。


「あー……」


 何を言うにもまず、注意しておかなきゃならないことがある。


「机の上の水分、全部俺のヨダレだから」

「ぎゃあっ!」


 慌てて飛び退いた女子生徒は、涙目になりながらハンカチで丹念に手を拭い始めた。

 自分自身でも汚いと思っていたとはいえ、こうも率直に拒絶されると傷つくものがあるな……。


「これは何よ! 新手のトラップ? 私への嫌がらせ!?」

「ただの生理現象だ」


 などと惚けながらも、新堂は帰宅準備の手を止めない。

 その姿を見た女子生徒――矢野美代子は憤慨した。


「ちょっと待ってよ新堂君。昨日、約束したでしょ? 明日全部教えてくれるって」

「あー……」


 もう一度大きく目を泳がせた新堂は、コホンと咳払いした。


「昨日のアレはな、全部夢だ」

「ゆ、夢だったの!? ……って、そんなわけあるかーい!」


 勢いが良いだけのヘッタクソなノリツッコミだった。あまりの勢いの良さに、新堂は心底疲れた溜め息を漏らす。


 昨日、深夜の小道で新堂と遭遇した美代子は、彼に送ってもらって無事に帰宅を果たした。しかし今しがた直面した奇怪な出来事に対する説明を、一切されないまま。帰り道に美代子は幾度となく説明を求めたが、新堂は面倒くさそうに首を横に振るばかり。そして最後の最後にようやく折れた新堂は、こう約束したのだ。『明日の放課後に必ず話す。だから今日は何も思い出さず、すぐに寝ろ』と。


 というわけで美代子が新堂の元までやってきたのだが、当の本人はまったく話す気がないようだった。

 どう話をはぐらかそうか悩む新堂は、考えに考えた結果、結局いつも通りにした。

 限界まで目を細め、相手を睨み上げる。尋常じゃないほど黒く染まった目の下の隈も相まってか、その鋭さは狼の牙と同等の殺傷能力を秘める。並大抵の人間では、その眼を見ただけで、今後絶対に新堂と関わろうと思わせないほどの力があった。


「世の中には知らない方がいいこともあるんだよ」

「けど、知らないから怖いこともあるんでしょ?」

「…………」


 それは昨夜、新堂が言った言葉だった。『夜魔』とは『視えない』から根源的な恐怖の対象であって、『認識』してしまえばその恐怖も薄れるのだ、と。美代子は『夜魔』についての知識を得ることによって、恐怖心はさらに薄れるものだと訴えているのだろう。


 だがしかし、新堂が狼狽して言葉を失ったのはそこではなかった。

 ……まさか自分の睨みを真正面から受けて、ここまで堂々と立っていられる人間がいたとは。

 彼女の芯の強さに驚きながらも、新堂は力むのをやめた。溜め息ついでに肩を落とす。


「あのさぁ、俺みたいな不良に絡んでると、お前も周りから変な目で見られるぞ」

「新堂君は別に不良なんかじゃないよぉ。確かに目の下の隈がちょっと怖かったり、年中学ランで変なところはあるけど、至って普通だよ」

「俺が普通、ねぇ……」


 頬を吊り上げ、新堂は自虐的に笑う。馬鹿馬鹿しげな戯言に、端から耳を貸していない者の反応だった。

 鼻を鳴らして美代子の言葉を一蹴した新堂は、鞄を肩に引っ下げて、勢いよく立ち上がった。


「あ、待ってよぉ!」

「待たねぇよ。俺を普通なんて言う奴とは、今後一切言葉を交わしたくねぇ」


 クラスメイトの目も気にせず、新堂は他の机や椅子を蹴っ飛ばしながら廊下へ向かう。まるで赤いヒラヒラを見つけた、闘牛のような突進だ。他人を威嚇することに慣れてしまった普段の彼の生活態度も合わさり、誰も新堂を注意しようとはしなかった。

 もちろん、ただ一人以外は。


「待てって……言ってんでしょうがああぁぁ!!!」


 頭の上で、新堂の机を高々と掲げる鬼がそこにいた。


「お前が待てえええぇぇ!」


 教科書等がまったく入っていないため、学校の机程度なら特別怪力というわけではないし、たとえ投擲されたところで新堂には避ける自信がある。だが、そのあまりにも異様な行動に、ド肝を抜かされてしまった。

 普通、人を引き止めるためだけに、堂々と机を持ち上げるか?


「下手したら社会的に死ぬぞ……」


 口の中で悪態をつき、とりあえず新堂は平伏した。闘牛のような猛進を繰り広げていた自分が、まさか荒れ狂う闘牛から逃げる闘牛士だとは思わなかった。


「参ったから、とりあえずそれを下ろしてくれ」

「うむ、分かればよろしい」


 重々に頷いた美代子は、てきぱきと机を元の位置に戻した。


「というわけで、サラダバーッ!」

「ぬわっ!?」


 無条件降伏の印として、両手を頭の後ろで組みながら歩み寄ってきた新堂の綺麗な回れ右。美代子に背中を向けて、一気に駆け出そうとする。


 が――遅かった。

 反射的に伸ばした美代子の手が、新堂の右手首辺りを……掴む。


「え?」


 頓狂な声を上げたのは、美代子の方だった。腕を掴まれ、立ち止まざるを得なかった天見がゆっくりと振り向く。その眼差しは、とても冷やかだった。

 美代子は今しがた得た違和感を、思わず声に出してしまう。


「この腕……」

「俺が夏でも長袖の学ランを着てるのは、ちゃんと理由があるんだよ」


 手の平に伝わる感触からは、体温が感じられなかった。それどころか、産毛も生えていなければ、人特有の皮膚の荒々しさもない。まるで一流技師によって作られた、精巧な人形のよう。

 美代子の手の力が自然と緩んでいくのと同時、新堂は強引に振りほどいた。


「義手……なの?」

「…………」


 明確な返答はせず、新堂は踵を返す。先ほどとは違い普段通りの歩調で、しかしそれでいて力強い足取りで、教室を後にしようとする。

 一時放心していた美代子は、新堂の背中が教室の扉を越えたところで、ようやく我に返った。ただ追う足は一歩踏み出したところで止まり、それ以上の追撃をすることはなかった。


「あ、明日には必ず説明してもらうから!」


 廊下に消える新堂に向かって、美代子の叫び声が響いた。

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