第16章
研究室を出てから、ものの数分で高校についた。
すでに閉じている校門を乗り越えると、視えない圧迫感が全身を襲う。校庭には、とても自然発生したとは思い難い、濃い『闇』が充満していた。『復讐心』の大部分を失った新堂は、『闇』に対抗する手段もなく、まともに浸食を許してしまう。
吐き気が込み上げ、膝をついて楽になりたい衝動を抑えながらも、新堂は進む。
校庭の真ん中まで歩くと、一際『闇』が集中している場所が目に入った。
校舎の屋上だ。
立ち止まった新堂は首を掲げ、屋上の縁で座って脚を投げ出している蜉蝣を、きつく睨みつけた。
「かかか。やあ、予想以上にお早いご到着だね」
過去何回か会った時と同じような、軽薄な笑顔を浮かべた蜉蝣が言った。
不思議なことに、相当距離があるのにも関わらず、蜉蝣の声ははっきりと聞き取れた。その理由は新堂も知っている。『闇』を震わせ、声の振動を意図的に増幅させたのだ。『ウロボロスの牙』を所持していた頃の新堂も、多少は使えた技術。
そして媒体とされた『闇』は、蜉蝣の周囲を包んでいた。
蜉蝣を取り巻く『闇』の深さは、携帯のカメラを通さなくても『認識』できるほど。霧状、もしくは瘴気と化した『闇』が、屋上全体を覆っているようだった。
気配で分かる。あれらすべての『闇』が……『夜魔』。
突然変異し、姿形を手に入れた幾多もの『夜魔』が、校庭の新堂を見下ろしていた。
その中心で乾いた笑い声を上げるのが、幼い人間の姿をした蜉蝣。
村井準教授の言葉が浮かぶ。蜉蝣の特殊能力は、その体内に『夜魔』を飼うことができる。もし屋上を包んでいる『夜魔』すべてが蜉蝣の子飼なんだとしたら……一体奴は、どれほど深い『闇』を抱え込んでいるというのか。
「なんだよ、だんまりかい? ……あぁ、美代子ちゃんなら無事だから、安心していいよ」
すると、蜉蝣の右側を覆っていた『闇』が掃けた。
屋上の縁で寝転がる美代子が現れる。
「――!?」
「大丈夫だって。ただちょっと、眠ってもらってるだけだから」
とはいっても、この高校の屋上にフェンスはない。つまり屋上の縁で横たわっているということは、蜉蝣がほんの出来心を抱いただけで、無事では済まないだろう。この高さでは、最悪死に至る。
しかも蜉蝣の周りには無数の『夜魔』。
新堂は下唇を噛みながら、蜉蝣を刺激しない方法を思索する。
「お前の目的はなんなんだ?」
「目的? 特にないよ。この祭りが終わったところで、僕が何らかの利益を得るわけでもない」
「じゃあ一体何のために……」
「しいて言うなら」
蜉蝣の声が強く響いた。
浮かべていた笑顔もどこか憎悪が含まれたように陰が差し、唇を歪める。
「新堂君。君がちょっと許せないから……かな? 僕が絶対に手に入れられない物を君は手に入れて、許せない……というよりも羨ましいんだよね。ただの嫉妬さ」
「嫉妬? お前が羨みそうな物なんて、俺は持っちゃいない」
「白々しいよ!」
闇夜の咆哮。蜉蝣がヒステリックに甲高い叫び声を上げると、周囲の『闇』がざわめいた。
蜉蝣の笑みが完全に消える。憎しみを隠そうともしない瞳で、睨み下ろす。
少しだけ平静を取り戻した蜉蝣が、静かに語った。
「ちょっとしたクイズをしよう」
「クイズだと?」
「君は『夜魔』に両腕を喰い千切られた。そしてその後、『復讐心』を『闇』の糧として両腕の蛇を具現化し、『ウロボロスの牙』と名付けた。村井先生も同じようなものさ。彼女は確か右目で、『カドプレパスの瞳』だったっけ? まぁ、いいや。そこで問題。君は両腕、先生は右目。じゃあ僕はどの部位を『闇』に汚染されたんだと思う?」
「どの部位って……」
見たところ、蜉蝣はどこも不自由のない身体を有しているようにも見える。もしかして新堂の義手同様、作り物の部位で補っているのだろうか。
いや、しかし蜉蝣の能力は『夜魔』をその体内に飼うことだ。
では体内のどこか? そもそも体内のどこで『夜魔』を飼っている?
新堂が無言のまま睨み上げていると、蜉蝣はプッと息を吐いた。
「はい、時間切れー。なんだー、想像力ないなぁ」
不満そうにおどけてみせる蜉蝣。
しかし次の瞬間、蜉蝣は気が狂ったように叫び声を上げた。
「分からないかい? 答えはね、『胎児』だよ! 『夜魔』に汚染されたのは僕のお母さんさ! 十五年前、まだお母さんのお腹の中にいた僕に、『夜魔』の恐怖の手が伸びたのさ! つまりだよ、僕は生まれながらにして化け物だったのさ!」
「なっ――」
「ほぅら、驚いた。引くよね? 絶対引くよね!? 今まで倒してきた化け物が、こうやって人の形をして喋ってたら、そりゃ嫌悪するよね!?」
蜉蝣の主張はまだ続く。
「だからこそ僕は君が憎いのさ! 君は不幸だった。間違いなく不幸だった。けど君は家族の仇を討ち、ようやく『夜魔』の呪縛から解き放たれたんだよ? 一番大切な人たちと両腕を失っちゃったけど、君は普通の人間に戻れたんだよ? なのに――!」
悲痛な叫び声が、夜空に轟いた。
「なんでそこで沈んじゃうのさ! なんで立ち止まろうとするのさ! 普通の人間に戻れたんだから、普通の人間らしく精一杯生きればいいだろ! ……僕はできないんだよ? 最初から化け物だった僕は、二度と普通に戻れないんだよ!? だから君が……普通であることを捨てようとする君が、憎い!!」
「――ッ!?」
瞬間、蜉蝣を取り巻く『闇』が一斉に震えあがった。まるで津波のような勢いと高さを保ちながら、地上にいる新堂の元へと一気になだれ込む。
そして一瞬のうちに、新堂は『夜魔』に囲まれてしまった。
姿形を鮮明に『認識』できないため、まるで周囲に暗幕を下ろされたようだ。質量を持った『闇』の中心から、新堂は屋上の蜉蝣を睨む。
「僕の能力は先生から聞いているよね? 体内に複数の『夜魔』を飼えるって。でもそれは、あくまでも僕の本当の能力の副産物にすぎないんだよ。じゃあ、僕の本当の能力って何だと思う?」
問いつつも、蜉蝣はすぐに答えた。
「あぁ、クイズはもういいや。時間の無駄だし。……僕の能力はね、純粋に『闇』が深いことなんだ。君の立場で言い換えれば、とんでもなく濃厚な『復讐心』を持ってるってこと。でも僕の『闇』は『復讐心』じゃない。『死に対する恐怖』なんだ」
「『死に対する恐怖』?」
それは誰にでもある恐怖なんじゃないかと、新堂は思った。
誰だって死ぬことは怖い。
しかし蜉蝣のニュアンスでは、少し違うような気がした。
「カゲロウって昆虫を知っているかい? とても短命で有名なんだけど。そう、僕の『蜉蝣』っていうのは、そういう意味なんだよ。とても短命なんだ」
「…………」
「僕の体内に巣食った『夜魔』はね、ほぼ三日の命なんだ。三日で寿命が来る。たったそれだけで僕が解放されると思うかい? 違うんだな。三日で『夜魔』は死ぬけれど、『死の恐怖』によって増幅された『闇』が、再び新しい『夜魔』を生んでしまうんだ。そして三日経つと死に、再び新しく生まれる。死の無限ループだよ。そうやって僕は己の『闇』を深めてきた。単純計算で、一八〇〇回も僕は死んでるんだからね!」
屋上の縁に座っていた蜉蝣が、緩慢な動作で立ち上がった。
そして夜空を仰ぎながら、高々と宣戦布告をする。
「一度も死んだことのない君に、僕の気持が理解できるわけが――ないっ!」
「!?」
空気が変わった。肌寒さと生温かさを兼ね備えた『闇』が、一斉に新堂を襲う。
まったく音のない襲撃だった。視点を屋上の蜉蝣から周囲の『夜魔』に移した新堂は、両腕を広げて舞う。
「今の君の腕で、何ができるっていうんだい!?」
その通りだった。『復讐心』を失った新堂は、『ウロボロスの牙』を具現化できない。
失われた両腕から漏れるのは、形を為さない霧状の闇だ。本来ならば蛇の形へと『闇』の密度を凝縮し、攻撃に転位できるはずなのだが、今はこれが限界。己の『闇』を周囲に撒き散らし、『夜魔』を寄せつけさせないだけだ。
ただそれもいつまで持つか……。
単純に相手の『闇』の質量が上回れば、簡単に押し潰されてしまうだろう。
「ほらほらぁ、そんなのただの時間稼ぎじゃないか。僕が従えている『夜魔』は、もっともっとたくさんいるんだからね!」
屋上に蔓延る『夜魔』が、さらに校庭へと向かって下りてきた。
滝のように流れ落ちる『夜魔』の群れを見て、新堂は歯を食いしばった。
さすがのあの量はマズイ……。
「蜉蝣! お前のやってることが、間違ってるとは思わないのか!」
苦し紛れに叫んだ。今の新堂には、『夜魔』に対抗する手段がないのだ。できることといえば、蜉蝣を説得する他ない。
しかし蜉蝣は、口元を歪めたままあっさりと宣った。
「僕が間違ってる? かかか、何を言ってるんだい。そんなの当たり前じゃないか。最初から気づいていたよ。僕がしていることは悪いことだって」
「じゃあなんで……」
「正しいことよりも、感情を優先してしまうなんてことは、誰にだってあるんじゃないかな? 今の僕がその場面なんだよ。悪いことだとは分かっていても、君を憎む心は抑えられないんだよ! でも、まぁ……」
胸に手を当てた蜉蝣が、大きく息を吸い込んだ。
「敢えて言ってもらおうじゃないか! 僕のどこが間違ってる? 君は僕のどこを否定する? さぁ、言ってくれ! 僕の存在を否定してみろよ!」
「お前が……そいつを巻き込んだことだ」
即答した新堂は、未だ気を失っている美代子に向かって顎をしゃくってみせた。
蜉蝣も、横で眠る彼女を一瞥する。
その顔にはすでに、不気味な笑みは張り付いていなかった。
無関心そのものの瞳で美代子を横目で見た後、蜉蝣はフッと笑ってみせた。その笑みはどこか諦めを含んだような、空気が抜けるような吐息だった。
「そうかい……。君は自分の事よりも、彼女の安否を心配するんだね?」
「あ?」
「そうだね。無関係な彼女を巻き込んだことも、悪いことだ。でも君を釣るためには彼女を餌にするのが有効だと思ったし、何より僕は彼女にも嫉妬してるんだよ。不幸な不幸な新堂君を、ああも労わり続ける彼女の白き心をね」
ふと、蜉蝣が再び嗤う。
ちょっとした悪戯を思いついた子供の、純粋な笑みだった。
「じゃあこうしよう。君が普通に戻るのを拒むなら……失った『復讐心』を未だに惜しいというのなら、僕がその対象になってあげようじゃないか。僕を憎み続けることで、君は生きる理由を再び見つけられ、同時に『ウロボロスの牙』もまた使えるようになるんじゃないかな?」
蜉蝣の右手が、美代子の肩に触れる。
「お……おい。何を……」
その手が、彼女の肢体を軽く押した。
屋上の縁で横たわっていた美代子が、少しだけ転がった。何もない、空の方へ。
支えを失った彼女の身体は、当然のことながら重力の影響を受ける。次なる接点を求めて、彼女は地面へと――真っ逆さまに落ちた。
その光景を、新堂は呆然と見つめていた。
彼の周囲を覆っていた『夜魔』の軍勢が、今がチャンスとばかりに一気に飛びかかる。
一瞬のうちに、新堂は漆黒の中へと姿を消した。
夜空に向かって高々と笑い声を上げた蜉蝣は、『闇』に呑まれる新堂と、落ち行く美代子を悲痛な面持ちで眺める。その顔は、笑っているのに泣いていた。