第15章
覚醒した新堂の意識に最初に浸透したのは、嗅ぎ慣れた甘い匂いだった。
綺麗な花へと群がる蜂のように、新堂の意識もまた、匂いに釣られて徐々に現実世界へと引き寄せられていく。瞼を開けると、微笑んだ準教授の姿が目に入った。
「やあ、おはよう」
反射的に跳び上がった新堂はしかし、すぐに元座っていた椅子へと腰を下ろす。
深い溜め息を吐けることが、自分がもう冷静であることを実感できた。
明るい電灯の輝くこの部屋は、村井準教授の研究室だ。何食わぬ顔でデスクの前に座っている彼女の瞳には、すでに義眼が嵌めこまれていた。
窓に目を向けてみる。外はまだ暗い。丸一日眠っていた感覚はないので、あれから数時間も経っていないだろう。
いや、時間の経過などはどうでもいい。
ようやく意識が鮮明になってきた新堂は、目を伏せながら開口一番に謝った。
「先生……ごめん」
「その一言ですべてを許そう」
コーヒーカップをデスクに置いた準教授は、少女のような微笑みを見せた。
「でも、俺はやっぱり真実を知りたい」
「君がそう望むなら、私はただ、嘘偽りなく話すだけだ。なんでも訊いてくれたまえ」
一瞬だけ迷ったが、結局、新堂は先ほどと同じ質問を繰り返した。
「五年前のあの日、先生は……わざとあの『夜魔』を逃したんだよな?」
「そうだ。その事実に偽りはない」
目を閉じた準教授が、懐古するように語る。
「異変を感じて君の家へと行ったら、すでに新堂教授をはじめとする三人は事切れていたんだ。残る君も、両腕を喰いちぎられた後だった。だけど私は……ウロボロスの『夜魔』を気絶させる程度で留めたんだよ。私の勝手な理由でね」
「その理由って、何なんだ?」
準教授が瞼を開ける。
済んだ瞳が、新堂を射抜いた。
「理由は二つ。一つは君を利用するためだ」
「利用?」
「当時……というか今でもそうだけど、『夜魔』を直接狩れる人間って、とても少ないんだよ。今はまだ突然変異した『夜魔』もそうそう多くはないけれど、将来的にどう転ぶかは誰にも分からない。だからできるだけ一人でも多く、『夜人』がいた方がいいんだ」
「それで俺に『復讐心』を持たせて、『ウロボロスの牙』を具現化させた、と?」
「そういうことだ」
「準備って、そういうことだったのか……」
新堂がまだ事件のショックから立ち直れなかった頃、準教授から毎日のように聞かされていた準備。あれは、新堂の『復讐心』が『ウロボロスの牙』を顕現できるほどの『闇』があるかどうかを訊いているためだったのだろう。
「ま、それもあるけど、正直抜け殻だった君とどう接して良かったか分からなかったんだよね。あの頃は私も若かった」
「……もう一つは?」
「もう一つは、君に生きる目的を与えるためだ」
ドキリと、一度だけ心臓が大きく鼓動を打った。
図星だったからだ。結局新堂は、準教授の思惑通り、仇を討つことを存在意義としてこの五年間を過ごしてきた。
……思惑通り? いや、違う。新堂が勝手に縋っただけだ。弱く儚い心が家族を忘れてしまうことを恐れ、他に意義あることを求めることに疲れ、目の前にぶら下がっていた存在理由を、惰性で握りしめてしまっていただけだ。
準教授がどのように考えていたかなどは関係なく、新堂は弱い人間だった。
そんな自分が、ひどく情けなかった。
「新堂君」
すると突然、準教授が椅子から立ち上がった。
そして新堂の前まで歩いてくると、深く頭を下げた。
「私の勝手な判断で君を取り乱させてしまった。今さらになってで悪いが……すまなかった」
その行為に、新堂は純粋に驚いた。今まで冗談で謝られることは何度もあったが、準教授の真剣な謝罪を耳にしたのは初めてだったからだ。
彼女の後頭部を呆気に取られながら見つめた後、新堂はふいと顔を逸らした。
「……やめてくれよ。俺のことを想っての行為だったんだろ? だったら俺が怒る理由もないって」
「そう言ってくれれば、私の肩の荷も少しは下りるよ」
準教授が自分のデスクに戻ってから、お互い無言のまま数分が過ぎた。
その間、新堂は天井を眺めながら、物思いに耽る。
さて、これからどうしよう。仇である『夜魔』を討ってしまったため、もう『ウロボロスの牙』を具現化させることは叶わない。心の中のどこを探っても、それだけの強大な『闇』は残っていそうになかった。つまり毎夜行っていた『夜魔』退治も、これで打ち止めだった。
じゃあこれから普通の高校生として暮らすか。
今さら普通に? そう考え、新堂は内心で自嘲してしまい――、
ふと、疑問に思った。
「なあ、先生」
「なんだい?」
「あのウロボロスの『夜魔』だけど、今までどこに隠れてたんだ? パトロールを始めて二年は経ったけど、もうこの地域にはいないと思っていたんだが」
それは当然の疑問だった。
二年も探して、今夜ようやく発見できたのだ。美代子にも指摘された通り、すでに誰かに倒されているのか、もしくはもうこの近辺にはいないのかという考えが新堂の頭にもあった。
しかし今夜、偶然にも遭遇した。まだこの近辺に生息していたのなら、もっと早く出会ってもよさそうではあるし、蛇形の『夜魔』に襲われたという情報が新堂の耳に入ってもおかしくはない。
だから疑ってしまう。
今夜あの『夜魔』と出会えたのは、果たして本当に偶然だったのか、と。
「ウロボロスの姿をしたあの『夜魔』は、ずっと日向井君の体内で飼ってもらってたんだ。当時から私はあの子とは知り合いで……って、あれ? 日向井君から直接聞いてるんじゃなかったのかい?」
「『夜魔』を体内で飼う? ……どういうことだ?」
話が噛み合わない。準教授のニュアンスでは、新堂が蜉蝣から説明を受けたような言い方になっているが……。
コホンと咳払いをした準教授が、一から説明する。
「それが日向井君の能力だからだよ。あの子の『闇』は恐ろしく深くてね、大概の『夜魔』なら身体の中に沈められて、保管できるくらいだ。人を襲う『夜魔』を野放しにもできないから、この五年間、ウロボロスはあの子に飼ってもらっていた」
「じゃあ……さっき俺の前にウロボロスが現れたのは……」
「日向井君の仕業だろうね。理由は分からないけど、先日君と矢野君を襲った三体の『夜魔』を放ったのも、たぶん日向井君だ」
ちょっと状況が分からなくなってくる。
三体の『夜魔』とウロボロス。どちらも蜉蝣が放ち、その後に奴は新堂の前へと飄々と現れた。一体……何故?
「それは分からない。あの子が何を考えているかなんてね」
「っていうか、そもそも『夜魔』を飼うなんてことが本当にできるのか?」
「まぁ……普通の人間じゃできないけどね。けど日向井君は普通じゃない。なぜならあの子は……」
とその時、二人の間に電子音が割って入り、会話が中断された。
準教授の携帯電話が鳴ったのだ。驚いた新堂は『夜魔』の出現かと神経質に疑ったものの、自分の携帯は一切震えていないので、普通に着信だったのだろう。彼女は鞄から携帯を取り出すと、ディスプレイを見て訝しげな表情を作ってから、電話に出た。
「もしもし、日向井君かい? 実はちょうど君の噂話をしていたところなんだ。……え?新堂君かい? 彼ならすぐ側にいるけど……うん? まぁ、そうだね。……だって君が仕向けたんだろ? それについても後日、話し合いたいことがあるんだが。……なに? どういう意味だ? おい、日向井君!」
携帯から耳を離した準教授が、煩わしそうに片目を閉じた。通話相手である蜉蝣の声は新堂のところまで届かなかったが、最後の通話が途切れる音だけは聞き取れた。
「蜉蝣、なんだって?」
「いや、意味が分からなかった。君の所在と処遇を聞いた後、矢野君を人質に取ったから光太郎君一人で学校まで来いって言い残して、勝手に切れちゃった。口調はいつも通り、つかみどころのない、あっけらかんとしたものだったよ」
「あの女を人質に取った? どういう意味だ?」
「さぁ……?」
首を傾げるも、準教授は思考するように俯く。深く考える時、右手で義眼を撫でるのが彼女の癖だ。
その状態の彼女なら、何らかの解答を導いてくれるだろうが、あまり他人に頼りすぎるのもよくない。新堂も自分の意見を模索するが……得体の知れない笑顔しか見せなかった蜉蝣の考えてることなど、分かるはずがなかった。
「そういえば光太郎君、さっきも訊いたけど、矢野君とは会わなかったのかい?」
「なんで俺がアイツと会うんだ?」
「君が出て行った後、彼女も君を追い掛けていったんだよ。どこに行ったか分からなかったから、君が行きそうな場所をいくつか教えてね。君はどこにいたんだい?」
「自分ちの墓前」
「なるほど。だったら矢野君も訪れた可能性がある。君とは入れ違いになったのかな?」
と、そこで準教授の顔色が変わった。
「君は墓場で日向井君と会ったのかい?」
「あぁ……ウロボロスを倒した後、突然アイツが現れた」
「となると……」
ほんのついさっきまで思い抱いていた、蜉蝣についての懸念が想起される。
蜉蝣が準教授の許可なしにウロボロスを新堂に仕向けた理由は不明だが、もし奴が新堂のことを嫌って、行動しているのなら。彼と仲良くしていた美代子にも、何らかの危害を加えるかもしれない。
しかも蜉蝣は『夜魔』の申し子だ。
準教授の額に、一瞬にして冷や汗が浮かんだ。
「成り行きは分かんねーけど、なんだかヤバいことになってるっぽいな」
彼女の変化を鋭く察知した新堂が、身体を乗り出した。
「ああ、そうだね。あまり良い方向には進んでいない」
「じゃあ俺が行ってやるよ。蜉蝣も、俺一人で来いって言ってんだろ?」
立ち上がった新堂は、軽い足取りでドアへと向かう。
その背中を、準教授が呼びとめた。
「待て。今の君の腕ででは、『夜魔』に対抗するにはあまりにも頼りないぞ」
「だからって先生もついてきたら、余計にアイツを刺激しちまうだろ?」
その通りだった。蜉蝣が新堂一人と言っている時点で、他の選択肢はない。
悲痛な面持ちで、準教授は不承不承頷いた。
「頼むから、無事でいてくれよ」
「あぁ、分かってる。悪戯がすぎる餓鬼に、ちょっと仕置きするだけだよ」
そう言い残し、新堂は暗闇の廊下へと駆け出して行った。