第14章
午後九時半。村井準教授は、自分の研究室で帰宅の準備を進めていた。
普段ならもう少し早く帰られるのだが、新堂が倉庫の窓ガラスを割ってしまったため、学長に厳重注意をされた後、何枚もの始末書を書かされていたのであった。今度ガツンと言ってやらなけらばと決心する半面、新堂に対しての心配事が二つもあり、私物を片付けてる最中でも、彼女は頭を悩ませていた。
一つは、今回の件で新堂が追い出されないかという懸念。
新堂が割った嵌め殺しの窓は、けっこう分厚かった。決して不慮な事故では簡単に割れないくらい。つまり故意に割ったのではないかと、学長からも疑われていた。
倉庫を新堂の居住空間として提供できているのは、一応大学側の許可は取ってあるものの、理不尽極まりない説明で言いくるめたからである。新堂教授の息子だから、という納得させるにはなんとも希薄な理由で。今では完全に黙認……というか無視された状態ではあるものの、快く思われていないことは間違いない。
ま、追い出されたら追い出されたで、自分の名義でアパートでも借りればいいかと、そちらは楽観的に保留しておく。
そしてもう一つが、新堂自身についてだ。
どう見ても彼は精神が不安定な状態だった。どこへ行ったか、何を思って飛び出したのかももちろん気になるが、何より彼の身体のことが心配である。五年も親代わりとして接してきたため、彼女は未婚ではあるが、多少は親心というものも芽生えていた。
だがこの問題ももうどうしようもない。美代子に任せるしかないだろう。
だから瞬時に思考を切り替える。解答を導けない命題を慢性的に考えていたところで、時間の無駄だ。
そして最終的に、一番大きな懸案事項へと思考が回った。
「今一番の問題は、日向井君が何を考えているか、だ」
研究室の電気を消し、真っ暗な廊下に出たところで彼女は呟いた。
新堂が倒れた理由を聞いた時、準教授はわずかに驚いた。美代子というイレギュラーを目の当たりにした時点で、もしかしたら今回のような事が起こるかもしれないと予想だけはしていたのだが、それが起こった場所が異様だった。
あの時間、蜉蝣は何をしていた? パトロール中、偶然にも二人を発見したのか?
しかし美代子から聞いた話で、それらは簡単に否定された。
彼らはあの夜、三体の『夜魔』に同時に襲われたという。それは通常、あり得ないことだ。確率としては可能性はあるものの、同じ夜に三体もの『夜魔』が同じ場所に出現するなど、宝くじで一等に当選するよりも難しいだろう。人間の夜は、そこまで『夜魔』に支配されてはいない。
ただそれはあくまでも、『自然に』の場合だ。
もし蜉蝣が、彼らの方へと意図的に『夜魔』を向かわせたのならば……。
そしてもし、蜉蝣が新堂のことをあまり快く思っていないのだとしたら……。
「やはりあの二人を会わせるべきではなかった……か?」
新堂と蜉蝣が双方友達になればという考えは、甘かったのだろうか?
だがそれも後悔先に立たず。準教授にできることは、明日、蜉蝣とよく話し合うことだけだ。
静かすぎる廊下を行き、エレベーターに乗る。途中で止まることはなく、すぐに一階まで下りられた。
第八号館を出ると、肌寒い一陣の風が吹き抜け、村井準教授は一度だけ身震いした。
薄手のコートのポケットに手を入れ、暖を取りながら歩く。
九時過ぎとなると、大学構内にはまるで人の気配がなかった。窓から明かりが漏れる部屋もちらほら見えるが、事務室だったりどこかの教授の研究室だったり。温かい部屋の中で研究に打ち込むのならともかく、こんな寒空の下を無意味に歩く人はいない。時間が時間なだけに、尚更だ。
故に、前方の暗闇で佇む人影を発見した時、準教授は訝しげに眉を寄せて立ち止まった。
彼女は特別視力が良いわけではないが、悪くも無い。目を細めると、その人物の輪郭がくっきりと見て取れ、さらにそれが見知った少年であることが分かった。
彼もまた、準教授の姿を認めたのだろう。小走りで、お互いの顔が見える距離まで近づいてきた。
新堂の顔を見た準教授は、ほんの一瞬だけ安堵した表情を垣間見せた後、すぐに怒ったように唇を尖らせた。
「光太郎君。君のせいで、私は本当にひどい目に遭ったんだよ。あのハゲ学長に嫌味たらしく愚痴を漏らされたあと、始末書の山さ。ホント勘弁してくれ」
やれやれといった感じで、彼女は首を横に振る。
しかし新堂の方は無言のまま、走り疲れたことによる乱れた呼吸を漏らすだけだった。
「そういえば、君一人なのかい? 矢野君とは会わなかった? 君が飛び出していってから、すぐに追いかけたはずなんだけど……」
近くに美代子がいないことを確認してから、準教授は新堂の異変に気付いて、目を見張る。注視した先は彼の腕。驚愕した衝撃は、彼女から言葉を奪わせるほどだった。
「君……その腕……」
両腕の義手は、新堂が出て行った後に倉庫内で見つかっている。だから学生服の袖から覗くはずの、彼の手が見えないのはよい。だがしかし、そこには『闇』の気配すらも感じさせなかった。正確には、『闇』が黒い蛇を形成しているのではなく、ただ単に霧状と化した『闇』が、袖の辺りを覆っているのみ。
まさか……新堂が『ウロボロスの牙』を制御できていない?
そして準教授は、そうなるための唯一の原因を知っている。
新堂の『闇』を深めているはずの『復讐心』が、霧散してしまったから。
それはつまり、彼が長年追い続けていた『夜魔』を討ったという証拠。
自嘲するように唇を歪めた準教授は、新堂に聞こえない小さな声で呟いた。
「……ということは、日向井君の仕業か」
口の奥で、彼女は無意識のうちに強く歯噛みしていた。
飛び出していってからここへ戻ってくるまでの間に、ウロボロスの姿をした『夜魔』を倒したのだろう。そしてその過程で彼が蜉蝣と会っていたのなら……。いや、間違いなく会って話をしている。そうでなければ、こんなに早く新堂が戻ってくるはずはない。
予想を元に、その一瞬で準教授は現状をすべて把握した。
「なぁ……先生。一つ、訊きたいことがあるんだ」
「……なんだい?」
苦しそうに紡ぐ新堂とは対照的に、準教授は優しく問い返した。
ドス黒い隈を蓄えた瞳で睨みつけ、声同様卑屈に表情を歪めながら、新堂は言った。
「先生は……俺の家族を殺した『夜魔』を、わざと逃がしたのか?」
「…………」
「あんたは俺の家族を見捨てたのかよ!」
闇夜を裂く咆哮。
準教授はじっと新堂の顔を見たまま、唇をあまり動かさずに問うた。
「私の方も一つ訊きたい。君はさっき、日向井君と会ったのかい?」
「質問しているのは俺の方だ! 勝手に話をすり替えるな!」
荒れ狂った新堂が、強く地団太を踏んだ。
対する準教授は、困惑したように左手で右目を押さえる。
「……もし君の考えていることがすべて本当だと言ったら、君は私を憎むかい?」
「あぁ、憎む!」
新堂は両手を前方に差し出し、空洞の袖を準教授へと向けた。
「憎い憎い、『夜魔』をわざと逃したお前を絶対に許さない!」
「その割に、君の『ウロボロスの牙』は姿を取り戻さないわけだが?」
「…………」
『ウロボロスの牙』を顕現させるためには、それなりの『闇』が必要だ。新堂は今まで、『復讐心』を『闇』の糧としていた。そして『復讐心』とはいわば『憎しみ』。にもかかわらず『ウロボロスの牙』を具現化できていないということは、新堂は心の底から準教授を憎んでいるわけではない。
だが、彼女を睨む新堂の瞳の鋭さは、衰えることがなかった。
右目を押さえたまま、準教授が一度、溜め息を吐く。
「君は今、とても興奮しているな。これでは到底、話し合いなどできはしない」
彼女は左手に力を込めた。すると右の眼球が、ごぽりと外れた。
義眼だった。
「悪いが、君には落ち着くまで眠ってもらおう。なぁに、ありとあらゆる生物を即死させるこの瞳も、君だったら気絶するくらいで済むんじゃないかな?」
「――ッ!?」
怒りに奮い立っていた新堂が、その瞳を見た瞬間に喉を引き攣らせた。
絶大な『恐怖』が彼の身体を蝕んでいる。
準教授が義眼を外しただけで、生物としての本能が負けを認めていた。
「君も、私の能力は知っているだろう?」
空洞と化した右の眼下から、一切の『光』も通さな『闇』が這い出てきた。まるで真っ黒な色をした蜘蛛が蠢くように、準教授の右目から何十匹も飛び出てくる。それは次第に新堂の周囲を覆い、外界の明かりという明かりを完全に遮断した。
上も下も右も左も前も後ろも『視えない』、完全な『闇』。
自分と準教授以外には何も存在しない、絶望の満ちた『闇』の海。
絶対的な『恐怖』に押し潰されそうになる新堂は、顔という顔中に冷や汗を浮かべ、下唇を強く噛んだ。
「私の『カドプレパスの瞳』からは、何人たりとも逃れることはできない」
準教授が宣言した瞬間、新堂の意識が突然途絶え、『闇』の中へとその身を横たえたのだった。